ワーグナーの魔力
維持会の皆様こんにちは。ここ数年維持会ニュース編集を担当していますが、こうして原稿を執筆するのは今回が初めてです。なぜ裏方の私が表舞台(?)に立つ羽目になったのかここで少し説明させてください。説明など聞きたくないわい!などとおっしゃらず、どうかしばらくおつきあいください。
ニュース作成の仕事はまず、原稿執筆者を決めることから始まるのですが、これが今回とても難航しました。通常なら演奏曲目が2,3曲なので、それぞれの曲に思い入れがありそうな、あるいは作曲家について詳しいと思われる団員に(担当の独断と偏見で)原稿を依頼します。原稿執筆のお願いをしますと、誰でもとりあえずちょっとだけいやそうな顔をします。皆忙しい毎日ですし、おまけに楽器もさらわなくてならないし、しかたありません。でも担当の必死の表情を見ると、「仕方ない、書いてやるか」という気持ちになり、わりとスムーズに契約(と言っても何も出なくて、原稿料は担当の心からの感謝とスマイルだけ)にこぎつけることができます。コレが通常の場合。
しかし、しかし、ですよ。今回は事情がちがいました。ことはそんなに甘くはなかったのです。毎日かなりの数の団員に直接、あるいはお願いメールを書いては断られてしまったんです。そして不思議なことに皆せりふがおんなじ…。
「今回だけはかんべんしてください」「えぇ~~(ほんとうにいやそう)ワーグナーはちょっと…」「他の人を当たってよ。ほら詳しい人いるじゃない。Sさん*とか。」etc.etc.
そこで、もうこうなったら自分で書いた方が早い、とばかりに、この危険な世界に足を踏み入れることにしました。
なぜ危険かといいますと。私の場合ワーグナーに関わったがさいご、身も心も捧げてにわかワグネリアンと化し、寝ても覚めてもあの魔力的な和音が頭の中で鳴りひびき、熱に浮かされたようになってしまうからなんです。過去に新響で「ワルキューレ第1幕」「指輪抜粋」「ファウスト序曲」を演奏したときも同じ状態で、3ヶ月間ほかのことが手に付かなくなりました。「魔力に屈する」とはまさにこのこと…といった感じです。
そう、ワーグナーには「魔力」ということばがぴったり。なにしろびりびりきます。しびれます。文字通り、背筋がゾクゾクします。鳥肌も立ちます。特にこの「トリスタンとイゾルデ」は官能の極地、と言ってもいいでしょう。「憧憬」「歓喜」「孤独」といった内面的な動機が複雑に絡み合った音楽は難解とも言われますが、逆にとてもわかりやすいとも言えます。心を空にして音楽に身をゆだねれば「うわぁ~怒ってる」「絶望の淵に立ってる」とか、「幸せの絶頂なのね」などと自然にわかるので、頭ではなく身体が直接に反応し、しまいには溺れてしまいます。(ああアブナイ…)。私のお気に入りは、なんと言ってもイゾルデの「愛の死」。シャープが5つもあってすごく音程がとりにくいんですけど、なぜか幸せ。聴いていても弾いていても、この箇所にさしかかるといつも、心のたががはずれてしまったようになります。自分をコントロールできないような不思議な感じに陥り、涙腺までゆるんで来ちゃいます。なんだろう、この感じ…楽しいとか嬉しいとかではない、舞いあがっちゃって、まるで別世界に行ってしまいそうな感じ…。ああなぜ?どうして?なんでこんなに気持ちいいんだろ?…といつも不思議だったのでした。そんなある日、数年前飯守先生のレクチャーを聞いたときにとったノートを開いてみました。すると。「H-dur:至福」の文字が目に飛び込んできたではありませんか!ああ、これだ!これだったんだ、このゾクゾク感は!!
初めてこの音楽を聴いたのは渋谷の映画館でした。映画「アリア」のなかの一話「トリスタンとイゾルデ」。赤茶けて乾いた風景の中、一本道を走る一台の車。乗っているのは若い男女、というよりは、まだあどけなささえ残る、少年と少女といった面もちのふたり。突如スクリーンに映し出されるけばけばしいネオンの洪水。夜だというのに昼間のごとく絢爛たるラスベガスの目抜き通り。そして安ホテルの一室。愛し合うふたりは、まるで明日という日が来ないかのように激しく求めあうのですが、究極は手首の傷から止めどなく流れる血…。あまりにも愛し合うふたりにはもう、「死」しか残されていないのです。そんなせつなく激しい愛の物語にぴったりはまったワーグナーの音楽!この世にこれほど美しく狂おしい音楽があるのかと私は圧倒されました。それから20年近くの月日が流れましたが、まさかこの音楽を演奏する機会がやってくるなんて。それこそ至福の3ヶ月です。皆様にもこのゾクゾク感を味わって頂ければ幸いです。どうか魔の音楽に酔いしれていただけますように。
*註:当団きってのワグネリアン、クラリネットの品田氏。すばらしい解説をプログラムに執筆していますので、どうぞお楽しみに!