ルーセルと海、そして音楽
村井功(Vn)
アルベール・ルーセルはフランスの作曲家です。北部フランスのトゥールコワンという町の裕福な家の生まれでした。1歳のときに父親をそして、8歳のときに母親を亡くす悲劇を味わったものの、その後彼の祖父に引き取られ順調に育っていきました。ルーセルの母は彼の音楽的素養の高さを見抜き、幼少のころからピアノを習わせたのでそれが功を奏したといえます。ルーセルは両親も兄弟もなく、市長である祖父の名誉を汚さないためにも身を慎ましやかに生きていかねばならず、オペラの楽譜などと親しく過ごしました。やがて、「神童」ルーセルは市庁舎に保管されていたオペラ「ポプリ」や小曲のすべてを弾きつくし、自分は音楽家になるのか、といったほのかな未来の自分像を見出します。やがて、その祖父も亡くなり、母方のおばの家で生活しながら音楽を勉強する準備を進めていました そんな折、病弱な彼の体のためにと連れ出されたベルギーの海を見てルーセルの考えが変わります。これまで、孤独で禁欲的に生きていかねばならないと思っていた彼に、海が誘います。明るい日差しにきらめく青い海面、その先になにがあるのか想像の彼方にある水平線。世界はもっと果てしない、遠い見知らぬ地にあなたを育む何かがある・・・とでも聞こえたのでしょう。18歳になったルーセルは海軍兵学校に入学。2年後には士官として砲艦スティックス号の乗組員になっていました。この軍船は現在のタイ辺りに赴く任務につき、ルーセルもそれに従事しました。
同じ海沿いでも東南アジアの空気は地中海のそれとは違い、重くまとわりつくような鬱陶しさがあるのですが、ルーセルにとってはそれがかえって心を奮い立たせ感性を磨いてくれたようです。目に突き刺さるような強い陽射し、なんの衒いもなく天に伸びる樹木、生命力溢れる人々の喧騒、故郷とはまた違った活力にルーセルは引き付けられたことでしょう。
音楽とは無縁の軍隊生活の中でもルーセルは音楽とのつきあいを忘れずにいたようです。機会があればピアノに向かい、先人たちの作品も勉強していました。
たとえば・・・
将校クラブの午後はけだるい。客である砲艦スティックス号の乗組員の姿もまばらで、現地人のボーイたちも暇そうにしゃべりあっている。
ルーセルの正面には同じ部隊の大尉がつまらなそうに髭をいじっていた。籐椅子は彼の大きな身体を軋みながら支えている。現地の政情不安は多少の緊張をここへ運んでくるが、そんなものは心身の弛緩したこの大尉には何の役にもたたない。
「ルーセル中尉、君はピアノの名人だそうだな。気持ちよく昼寝でもできる曲を何か1曲やってくれたまえ」
大尉は顎だけしゃくってピアノを指し、ルーセルを促した。
長旅に揺られてきた上にこの気候ではまともなピアノであるわけがない。ルーセルはここにピアノのあることはわかっていたが、これまでとても触る気にはなれなかった。彼はおもむろにピアノの前に座り、キーにそっと触れてみた。上品な冷たい感触が指先から伝わってくる。意を決してキーを押す。湿り気を含んだ鈍い音が抜けていった。さらに隣にキーを押してみた。やはり同じだ。でも、ルーセルの音楽家魂を呼び起こすにはそれで十分だった。
次から次へと音を紡ぎだす魔法に聴衆はあっけにとられた。
大尉は昼寝を忘れてしまったようである。
ボーイたちも思わぬ暇つぶしに機嫌がよかった。
当のルーセルはといえば、やはり自分には音楽しかないのかと改めて考えさせられた。
砲艦スティックス号の寄港地ではさながらこんな光景が見られたのではないでしょうか。
ルーセルは健康のこともあり、海軍兵学校に入学してから7年後の1894年に軍籍を離れました。その後、本格的に音楽の勉強を行い、1897年に最初の作品4声のための二つのマドリガルを発表いたします。
彼の作風である、ドイツ的なかっちりとした構成は幼少のころの規律正しい生活の影響で、色彩の豊かさは東南アジアで刺激を受けたものともいわれています。
1930年に書かれた交響曲第3番はこうした作品群のなかで最高峰のものと評価されています。
第197回演奏会(2007.4)維持会ニュースより