芥川也寸志さんと新響の最後の演奏会
川辺 亮(Vn)
ヴァイオリンの川辺(1981年から在籍)と申します。新響の演奏会も遂に200回になりました。芥川さん指揮で第九を演奏した第100回記念演奏会から、ちょうど25年。そして1989年に亡くなられてから19年。改めて時間の流れの早さを感じます。今シーズン、久しぶりに「交響三章」を弾いていると、芥川さんの事が想い出されるので、私的な思い出で恐縮ですが、ここで少しその話をさせて下さい。
まず1楽章。新古典的なクールさ・スマートさ、というのが我々当時の若手団員が芥川さんから感じていたイメージでした。私はその頃運営委員長をして居り芥川さんのご自宅で会合を持つ事が時々ありました。他の運営メンバー達と成城の駅から会議の作戦を練りながら歩いて数分でたどり着くご自宅は、コンクリート打ち放し・地中海風(?)タイルの敷かれた玄関・3階までの吹き抜けの下でグランドピアノが光っている、まさにご本人のイメージにぴったりの建物でした。冬にお邪魔すると、少し底冷えがしたところなども・・・(?)。
次に2楽章。この楽章の泥臭いまでのセンチメンタルさが、当時の私にはちょっと作り物くさく感じられたのですが、その後他の芥川作品の演奏(例:映画音楽「八甲田山」など)を体験するにつれて、この音楽は作曲家の心の底から出てきているのだなと感じられる様になってきました。我々中高年おじさんの寂しい心に浸み通る作品です。
さて3楽章。作曲家の中の、ラテン的な熱い部分を感じさせる曲です。底抜けに明るいメロディーが寄せては返し延々と続く楽章を弾いていると想い出されるのは、ファリャの「三角帽子」を指揮している芥川さんの嬉しそうな表情です。新響との最後の定期演奏会になってしまったのは、88年4月3日のファリャ作品展(第119回・上野)でした。これはご本人が上述の会議でやや照れくさそうに提案してきた企画で、昔から好きでたまらなかったのだそうです。特に三角帽子の最後の大団円の踊り(この第3楽章に似ていますよね)がお好みだったようで、毎回の練習が終わる5分位前になると、他の部分を練習していても必ずここを(強引に)取り上げて、実に楽しそうに指揮していました。
このファリャ作品演奏会のすぐ後、4月の末に行われた、東京芸大の奏楽堂の移転保存記念演奏会が芥川・新響の最後の共演となりました。保存活動の中心としてご苦労された後の晴れ舞台であり、オーケストラ側は練習不足でお粗末なモーツァルトでしたが(申し訳ない)、ご本人は大変満足そうでした。この年は春の到来が遅く、打ち上げレセプションの席から見える上野公園の桜がまだ満開でした。私は翌月から仕事で海外に転勤する事になっており、そのご挨拶をしたところ、「ちょうど自分も6月に新聞社の依頼で現地に行くので是非会おう」とのお返事でした。それでは連絡先を、と紙に書いて振り返ると、もう既にお帰りになった様で、そこにご本人の姿はなく窓の外の桜だけ・・・、というのがあれから20年近くを経た私的記憶です。
その後体調不良という事で現地にも来られず、どうしたものかと訝っていたら、翌89年初めに、3日遅れで届く新聞で芥川さんが亡くなられた事を知りました。(インターネットなど無かった昔ですので)。
当時の新響運営メンバー達は、定期演奏会への芥川さんの登場回数を減らすなど独立色を強めようとしており、上述の会議では、ちょうど反抗期の子供とそれに苛立つ父親、といった様な場面も結構多かったのです。今になって想い出してみると、あまりうち解けた話をする機会がなかったのが、ちょっと悔やまれますが、最後の演奏会は2回とも、ご本人が喜んでもらえて幸いだった・・・・。 やっぱり芥川さんは新響の父親的存在だったんだな、と交響三章を弾きながら改めて感じています。
第200回演奏会(2008.1)維持会ニュースより