演奏する側から見た『春の祭典』
松下 俊行(Fl)
『春の祭典』の経済学
いささか堺屋太一めくが、ここで『春の祭典』を演奏することによって我が国にもたらされる経済的波及効果について考察してみたい。
1)特殊楽器市場の活性化
コントラファゴット、コール・アングレ、バスクラリネットが各2本。その他バストランペット、アルトフルートなどなどとにかく特殊楽器の総決起集会的様相を呈するため、これらの楽器の調達にメンバーは腐心せざるを得ない。この調達の労苦から普段滅多に使われることの無いこれらの楽器の重要性が再認識されたり、団所有の楽器の「耐用年数切れ」が明確になったりする事により、特殊楽器市場に例外的な需要をもたらす。これを「春祭特需(はるさいとくじゅ)」とよぶ専門家もいる。
2)人の動きに伴う需要の喚起
『春の祭典』は5管編成。管楽器だけで40人もの人数になってしまう。これに打楽器を加えて45人以上。全日本吹奏楽コンクールに行けてしまう人数だ。新響の管セクションの定員は各パート6名(ホルンは8名)を原則としているので、頭かずは足りる見当だが、一身上の都合でどうしても出られない人もいる。そこでエキストラのメンバーが必要になる。外の世界との交流が活発になり、ヒトとカネの流れが変化する。
具体的には、ノーギャラで出て戴いている(!) エキストラの方々を毎回の練習後に呑みに連れてゆくことで、練習場のある東京都北区十条近辺のアルコール消費量を前年同月比で8ポイントも底あげし、税収増と地域経済の活性化に貢献しているとの報告がある。
*アルコール消費量拡大の因子については『春の祭典』 の変拍子との関連を指摘する心理学・社会学的考察もあることを付記しておく。
3)楽譜の出版・販売業界への影響
『春の祭典』の出版元であるBOOSEY&HAWKES社は、ここ20年程の売上実績を分析した結果、奇妙な事実に気づいた。それは極東地域に於て『春の祭典』のスコアが爆発的に売れる年があり、しかも或る周期をもって繰り返されているという事であった。詳細な調査の結果、それが日本のさる学生オーケストラの海外公演の周期と一致することが判明し、以後はこの情報をいち早く取り込むことが同社の歴代極東支配人(そんな人いないか?) の最重要職務のひとつとなった。
新響が『春の祭典』を取り上げることは既に版元の知るところであるのは間違いない。おまけに(失礼)上記の某大学のオーケストラの海外公演も来年ある。出版社はこのスコアの大増刷を完了しているはずである。というのもかつてはこの曲を演奏すると決まるや東京中の楽譜屋からこのスコアが消えてしまうという状況が繰り返されてきたからである。頼んでも半年侍ちといわれてすごすご引き返した経験のある身にとっては、二つのオーケストラが『春の祭典』を演奏するという惑星直列的な珍事(! !)にも関わらずスコアが手に入るという状況に、どちらかと言えば保守的な楽譜出版・販売業界のマーケティング能力の向上を見ることが出来よう。
『春の祭典』はアマチュア・オーケストラという有望かつ無限の市場があることをこの業界に認識させた一点に限っても、感謝されて余るものがある。
かくなる上は、BOOSEY&HAWKESには一刻も早くパート譜の間違いを直して欲しいよ。
4)ハイテク応用機器のニーズ
「はるさい(春祭)の枕詞はと人問はば、言はずとも知れ変拍子なり─詠み人しらず」と古来歌にも詠まれた(!?) 「名所」は曲の後半のその又後半の部分でしかないが、この難所を切り抜けるときの緊張感はただものでない。
この曲の変拍子たる所以は、次の予測がまるで立たない事。「悲槍」の第2楽章の5拍子だって立派な変拍子なのだが誰も変拍子だとは気づかない。一定の予測可能な拍子だから。『春の祭典』の場合も慣れてくるとリズムのパターンが見えてくるのだが、人間は錯誤の動物。必ず誰かが何かやってくれる。そしてオーケストラは阿鼻叫喚の無間地獄へつき落とされるのであります(悪くすると止まってしまう)。
そうならないためには、とにかく練習あるのみ。と云っても普通の道具立てではなかなか困難。相手は拍子となればこれは「変拍子対応のメトロノーム」の様なハイテクノロジー応用機器開発の契機となるはずなのだが、なかなか実用化されない(余り欲しくもないが)。
ただ、こと拍子・テンポ関連周辺機器についてはハイテク応用の分野として有望ではあるまいか。
5)総論
『春の祭典』がもたらす効果の代表的なもの4点を以上に述べたが、この曲はそのオーケストラの技術的な水準にとどまらず、ヒト・モノ・カネ或いは運営・企画等あらゆる「力」を評価する尺度として、極めて有用である。こうした「総合力」とこの曲を演奏することによる周辺への広範な波及効果を考えると、一国の経済にたとえるなら、「自動車の国産化」程のインパクトはあろう。
尤も新響の場合、今までにも『春の祭典』を演奏したこと自体はあり、その時点で「先進工業国」の仲間入りは果たしている訳なのだが、既に20年近くを経過しており、そろそろもう一度車の造り方をおさらいしておく時期にさしかかっていた。そして実際に練習してみて、きれいさっぱり忘れ去っている現実に愕然としている。
保守的な姿勢に固執し、無事これ名馬的な「老大国」に新響が堕する事を僕は最も忌避し且つ恐れる。
『春の祭典』を演奏することによって、ともすれば我々の精神に溜りがちになる澱(おり)を浚い出せるとすればこれに優る効果はあるまい。
これはそうした力を持った音楽である。
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タネを明かせば以上は97年に『春の祭典』を取上げた際に書いた維持会ニュースの記事。あれから10年が経過して、新響もずいぶん変わった・・・と思いきや、『春の祭典』を相手にするとなると、「相変わらず」という状態である。敢えて変わった事を探せば使用する譜面はBOOSEY&HAWKESからKalmus版になった位か。だが、この版も遺漏だらけという点では変わらない。『春の祭典』の変拍子に対応可能なメトロノームも実用化されてはいない(ま、あっても売れないだろうが)。
ただこの作品に対峙する際に持つべき「畏れ」のようなものは、変わるべきではないと感じる。僕は『春の祭典』を30年前に初めて演奏して以来、ずいぶん様々な処で、様々な出来の演奏を繰返してきた。その経験から言えば、「慣れ」が生じてしまうと大抵は上手くいかない。絶えず誰かが何かをしでかすのではないか、それはもしかすると次の瞬間の自分かもしれない・・・という危惧を抱きつつ、しかも萎縮せずに演奏する。これがこの作品を演奏する際の、ひとつの「奥義」とも言えるし、演奏者の心がけとすべきものと信じている。
『春の祭典』をやすやすと演奏するようなオーケストラに、新響はなってもらいたくない。それは人間の創造した音楽という宇宙に対する冒瀆とでも言うべきである。
このごろそれを特に強く思う。
第200回演奏会(2008.1)維持会ニュースより