ディーリアスとグレ=シュール=ロワン
岡田澪(フルート)
維持会員の皆様こんにちは。前回の演奏会から入団しました岡田澪と申します。都内の音楽高校の2年生です。両親ともに新響の団員なので、実は最近まで維持会員でした。今回はディーリアスを吹かせていただきます。
「ブリッグの定期市」を作曲したフレデリック・ディーリアスはイギリスの作曲家です。ディーリアスは1862年にイギリスに生まれ、この国で育ちましたが、実はこの作曲家は生涯イギリスに住んでいたわけではありません。音楽家になることを反対した父から自由になるためにアメリカへ渡り、その後なんとか父の同意を得てライプツィヒ音楽院に在学。1888年からパリに移り住み、1897年から亡くなるまでパリ郊外にあるグレ=シュール=ロワンという村で過ごしました。
グレ=シュール=ロワンはパリ市街から南東に64kmほどの所にあり、中世の建造物である石橋や塔、そしてのどかな田園風景が残る静かな田舎町です。ディーリアスはパリでラヴェルやムンク、ゴーガン、ストリンドベリなどと親交を結んでいました。なぜ彼はパリから離れた、今日でも人口1300人ほどの小さな村に移り住むことにしたのでしょうか。
実はこのグレの村、19世紀後半からさまざまな国から芸術家が集まった芸術家村で、画家のカミーユ・コローやフランク・オマラ、スウェーデンの劇作家のアウグスト・ストリンドベリ、そして日本からは黒田清輝や浅井忠、美濃部達吉、梅原龍三郎、藤田嗣治などの人達が訪れています。日本人の画家で最初にグレを訪れたのは黒田清輝と思われますが、彼がこの地で描いた「読書」や「婦人図」などの作品のうち、「読書」はパリのサロンで入選しています。
このように、この村に来た画家達はこの村の自然や前述のロワン川に架かる橋、北のフォンテーヌの森などを描きながら、お互いに影響を与え合っていました。ディーリアスの妻であるイェルカ・ローゼンも画家であり、イェルカはグレで絵を描くために家を購入します。そのため、ディーリアスもこの村で作曲活動をするようになりました。ディーリアスが移住したのはコローや黒田清輝がグレを訪れた時期よりもあとですが、この村でたくさんの芸術家と交流を持ちました。パリ時代から親しい間柄のムンクも、1903年にグレのディーリアスの家を訪れています。
「ブリッグの定期市」もグレに移り住んでから作曲されました。イギリスの民謡をもとにした曲ですが、少なからずグレの村のディーリアス邸の庭園、村をゆるやかに流れるロワン川などの情景の影響を受けていると思われます。
~参考文献~
荒屋鋪透「グレー=シュル=ロワンに架かる橋」