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第4交響曲をめぐって  『ショスタコーヴィチの証言』の事と

松下俊行(フルート)

 新響が芥川也寸志指揮でショスタコーヴィチの交響曲第4番を日本初演したのは1986年7月。22年前の事だ。20世紀を代表する作曲家の、比較的初期の交響曲が、1961年の初演以来四半世紀もの間、日本で手つかずになっていたという事実に、既にして隔世の感がある。

*日本初演のころ
 この当時ソビエト社会主義共和国連邦という国家はまだ健在で、米ソを主軸とした東西の冷戦構造は厳然と続いていた。得体の知れない大国の不気味さは、現在半島の某国に我々が抱くそれとは比較にならない大きなものだった(ソ連領空に迷い込んだ大韓航空機が撃墜されてから、3年と経っていない)。日本では戦後40年を経て社会主義も当初の輝きも勢いも失っていたが、わずか3年後にベルリンの壁が破壊され、況してやその後超大国ソ連が消滅する事を想像できた人は皆無だったろう。記録されるべきこの曲の本邦初演は新宿文化センター大ホールで行われた。サントリーホールも東京芸術劇場も未だ無かったのだ。世の中は「バブル時代」の前夜であり、現在とは比較にならぬ活気があったが、その享楽の裏には冷戦の影が潜んでいた。東西の核傘下の平和・・・そうした時代である。
 インターネットの概念さえ人々には無かった当時、情報を集める事自体が大変だった。ハイティンク指揮コンセルトヘボウによる交響曲第4番の音源(勿論レコードである)が得られたのだが、スコア(総譜)は当時神田にあったロシア語文献の専門店(これは2軒しかなかった)の「日ソ図書」を通じて、ソ連で出た全集版を新響で共同購入する事になった。値段こそ安かったが交響曲第3番《メーデー》とペアになった、百科事典1冊分のサイズと重量のいかつい装丁は、運搬の不自由をいや増しにした。これを鹿島での合宿や梅雨時の練習の度に持ち歩いていた事を、第4交響曲の無機質な曲想と共にまず想い出す。今日では日本の出版社から出たポケットスコアが容易に入手できる。「百科事典」を持ち歩く気力も体力も失せたので、今回の再演に際してつい買ってしまった。極めて個人的な些事(さじ)ながら、この一事は22年間の社会環境の激変と相俟って、この作品に対峙するに心理に少なからぬ差異をもたらしているように思える。

*『ショスタコーヴィチの証言』の世界
 さてここに『ショスタコーヴィチの証言』という本ある。作曲家の死後に国外で公表する事を条件に、タジク共和国(当時)出身の少壮の音楽学者ソロモン・ヴォルコフ(Solomon Volkov:1944~)に対して口述された回顧録・・・という事になっており、その通り1975年の死を待って出版されている。1980年に邦訳も出ており、作曲家の死後ようやく我々に届いた肉声とも言うべきもので、当時の乏しい情報の中では注目すべき一書だった。
 読みやすい本ではないが、一貫して流れているのがスターリンへの呪詛(じゅそ)である事は容易に解る。何故そうなったのか?作曲者が語ったあまたある逸話のひとつを紹介しよう。

 自らの容姿に劣等感を抱いていたこの専制君主は、画家に肖像画を描かせるに当たって、ある遠い昔に実在した東洋の権力者と画家にまつわる寓話を聞かせていた。厄介な事にこの東洋の王は隻眼で片脚が不自由だった。
 第一の画家はありのままの姿を描いて不興を買い、死を賜った。「中傷家など必要ない」という事だ。
 第二の画家は王を健常者に仕立て上げて同じく死罪になった。「おべっか使いなんかは必要ない」
 第三の画家は、狩りで岩に座り、弓を引く王の姿を描いた。これによって不自由な片脚は岩に隠れ、つぶれた片眼は獲物に狙いをつけるものとして糊塗された。この画家は賞を得て天寿を全うし得た。
 権力者の肖像を描くとはそういう事なのだと示唆した訳である。そしてソ連の画家はこぞってその意を汲み、現代の王の言に従おうとした。
 それでも・・ショスタコーヴィチは続ける。「スターリンは多くの画家を銃殺した。」

 この「指導者にして教師」の些細な気まぐれによって死んだ芸術家は画家だけではなかった。権力者が文化への理解と寛容を外部に示そうとの意志から、自ら芸術への介入を図った時、多くの人々が収容所に向かい、死に追いやられたのである。いちいち批判などする必要は無い。作品や場面に対し一見差し障りの無い「疑問」を呈する事で充分だった。するとそれに関係した画家・作家・詩人・劇作家・・・そして作曲家のドアが深夜ノックされる。あとの事はわからない、恐らく永遠に。
 ショスタコーヴィチは、舞台に於いて長年共に仕事をしてきた天才的な演出家メイエルホリド(Karl Kasimir Theodor Meyerhold:1874~1940)への回想を反芻(はんすう)する。彼は1938年、稽古の最中に逮捕された。その後の姿を見たものはいない。後年処刑されていた事が判る。『ショスタコーヴィチの証言』の記述。
 演出家は逮捕されたが、なにもなかったように仕事はつづいた。これはあの時代のもっとも恐ろしい特徴のひとつである。・・・メイエルホリドという名前が一瞬のうちに会話から消えてしまった。それですべてである。

 誰もが深夜のノックに怯えていた時、ショスタコーヴィチを震撼(しんかん)させる記事が『プラウダ』に出る。1936年1月28日の事だ。メイエルホリドとの仕事として、それまで何の問題もなく上演を繰返し、好評を得ていたオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を批判する『音楽のかわりの荒唐無稽』なる論文である。
 現在この論文はネット上で露文・英訳共に読む事が出来る(便利な世の中になったものだ。無論これらの言語が理解出来ればだが)。そこではこのオペラが「形式主義」に陥っており、ブルジョア的であると批判されている。無署名ではあったがショスタコーヴィチはこれをスターリンの意思と直感する。確かに国家の民衆に対する「教化の手段」としての音楽から彼の作品はかけ離れており、それは作曲家も自覚(自負)するところだった。批判の種は常に抱えていたのだ。 
 だから作品のどこが「形式主義」か?を問う事には余り意味が無い。スターリンが形式主義と言い出せば、それは形式主義である。それで充分だった。政治的な空気はいつの時代も、目障りなものを退けるための口実となるスローガンを求め、ひとたび見出せば何に対してもそれを用いる。同様の事がその後の中国でも日本でも起こった事を我々は記憶していよう。更に数日後、今度はバレエ音楽『明るい小川』に対する批判記事が出る。10日間にふたつの攻撃的な社説が『プラウダ』上に載ったのだ。「一人の人間としてじゅうぶんすぎるくらいではないか。いまや誰もがわたしの破滅を正確に知るにいたった」・・・何に対する批判にも使える武器がある事を明示されたショスタコーヴィチは「人民の敵」となり、孤立無援の状態に陥った。誰も最早彼の作品に手を出そうとはしない。前年から創作されていた第4交響曲が完成したのはそうした最中だった。不幸な生い立ちである。

 初演に向けての準備は一応進められた。だが今や札付きとなった作曲家との関わりを避けたい一心から、みな腰が引けていた。不幸なくじを引き当てたのはシュティードリー(Fritz Stiedry:1883~1968)というオーストリアからの亡命指揮者だったが、彼は「人民の敵」の手になる作品を演奏する事で累が自分にも及ぶのではないかと怖気づいていた上に、不勉強で作品に対する誠実さに欠けていた。この指揮者に対する作曲者の怒りは終生止んでいない。
 第4交響曲は作曲家の名を世界に広めた最初の交響曲以来の「個人的な」作品だったが、そこには西欧の作曲家・・・例えばマーラー・・・の作品から取込んだ様々な要素が随所に散りばめられており、「赤軍合唱団と踊り」程度しか理解できないスターリンにとっての「音楽」とは全く別ものに仕上がっていた。何をやっても咎められそうな圧縮された空気の中で、既に批判された作風の交響曲は破滅的な爆発をもたらすに充分な火種であった。危機は足元まで迫っていたのである。結局ショスタコーヴィチ自身がこの初演を取り下げた。そしてこの曲はその後実に25年の沈黙を余儀なくされたのだった。
 翌年第5交響曲を書く。それは「強制された歓喜」だった。人々に鞭打ち「さあ喜べ。それが仕事だ」という訳である。普通の人間ならこれを契機に転向するところだ。事実そうする事で辛うじて命脈を保った芸術家が、この時代のこの国家では殆どだったのだから。

 しかしながらこの作曲家はしたたかだった事が『ショスタコーヴィチの証言』によって判明する。ひとつの例として《レニングラード》と題された第7交響曲が、ナチスドイツとの攻防をテーマとする「戦争交響曲」と捉えられている事を彼は挙げる。この曲を《レニングラード交響曲》と呼ぶ事に異は唱えない。但しそれは包囲下のレニングラードではなく、スターリンが破壊し、ヒトラーがとどめの一撃を加えたレニングラードを主題にしているとまず言う。  
 更にこの大作は戦争の始まる前に構想されていた為、ヒトラーの攻撃に対する反応としてみるのはまったく不可能であり、冒頭の楽章で執拗に繰返される「侵略の主題」は実際の侵略とはまったく関係がないと述懐している(柴田南雄氏によればこの主題はレハール(Franz Lehár:1870~1948)のオペレッタ『メリー・ウィドウ』からの引用であるという)。
 僕はここで「音楽は絶対的ななにものをも表現しない」とするハンスリック(Eduard Hanslick:1825~1904)の思想を思い起こす。言うなればこれは、音楽という本来抽象的な芸術によって初めて可能となる「だまし絵」のようなものだ。全く異なる意図を以って創られていても、違う角度から違う意図を盛り込んだと言いくるめて示せばそれはそう見える。例の「形式主義」を逆手にとった保身策だったと言えようか。彼はある時期から、全ての作品のあらゆる細部にこうした仕掛けを盛り込み、その仕掛けに一向に気づかぬ「指導者にして教師」とその取巻きを密かに冷笑していたのかもしれない。事実交響曲に於いてさえそれはあったのだ。この本を読む誰もが目を留めるであろう、おそらく最も有名な一節。
 私の交響曲の大多数は墓碑である。わが国ではあまりにも多くの人がいずことも知れぬ場所で死に、誰ひとり、その縁者ですら、彼らがどこに埋められたかを知らない。私の多くの友人の場合もそうである・・・・わたしは自分の音楽を彼ら全員に捧げるのである。

 作曲家が作品に対し、何を託しているかは本人にしかわからない。そしてそれは言葉として残されない限り、永遠にわからぬままである。『ショスタコーヴィチの証言』の言い知れぬ不気味さの一端はこうした箇所に宿ってる。

*偽書説をめぐって
 『ショスタコーヴィチの証言』には出版された当初から偽書説・・・すなわちヴォルコフの捏造(ねつぞう)ではないかとの噂が絶えない。それはこの本が出版されるやその衝撃的な内容ゆえ、ソ連政府は即座に「偽書」と表明した事に端を発している。未亡人をはじめとした遺族もこれに賛同した。遺族がソ連内にとどまる限り、保身の為にもこれは当然の表明である。そしてその対抗処置として作曲家が生前に『プラウダ』『イズヴェスチャ』『文学新聞』などソ連の出版物に発表した論文とそれに対する注釈を集めた『時代と自分自身について語るショスタコーヴィチ』が編集されている。年代順に配置され、作曲家の回顧録として扱える構成になっているが、不思議な事に『ショスタコーヴィチの証言』各章にもそれと全く同じ文章が散見されるのである。これが偽書説を採る側にひとつの根拠を与える結果となっている。出版から20年に及ぶ論争を経て、現在では偽書との見方が定着していると言ってよい。
 手元に邦訳の文庫初版本(水野忠夫訳・中公文庫:1986年1月出版)があるが、本文だけで450ページを超える大冊である。過去に公表されている記事や余り上等とは言えない、ソ連時代の逸話を散りばめた産物としても、偽書とするにはいかにも手が込みすぎている印象を否めない。勿論贋作はそうしてこそ迫真のものになるとも言えようが。
 個人的には真贋いずれの説にも与(くみ)さない。はっきり言えるのは、この書物が「出るべき時機に、出るべくして出た」ものであったという事だ。「指導者にして教師」たるスターリンの暴虐の最中に痛烈な批判まで受けたにもかかわらず、また実際周囲に累々とした犠牲者を重ねた中にも生き残り、天寿を全うし得たショスタコーヴィチ。この作曲家が激動の時期に何を考え、どう行動したか?は当然関心の的であった。そこに死後でなければ公表できない内容と銘打ったものが出た。そしてそれは多くの人々が想像した通りの徹底した圧政者への批判、そして国家に尾を振った同時代の芸術家に対する悪口雑言が連ねられていたのだ。この本は人々の期待の産物である。偽書であったとして、我々にこれをとがめる資格があるだろうか。

*再演の機会を得て
 第4交響曲再演の機会が巡ってきて、いま幸運にも初演の時と同じ席に座っている。まだ20代だった22年前の自分を思い出す。将来に対する希望を全く抱けない状況にあり、人生にはうんざりするほど長い時間が残されていると感じていた。肉親も健在で、「死」に対する現実感は皆無だった。当時出たばかりの『ショスタコーヴィチの証言』から、死を自覚した作曲者が語る、様々な人々の死のあり様を読み取ったはずなのに・・・。芥川先生と新響とが共有できる時間が、その後わずか2年ほどしか残されていないとも想像出来なかった。今ある状況はずっと続いていくものと、根拠もなく信じ込んでいたのだった。若さ故の、健全すぎる生のもたらす無知と無恥とは恐ろしいものである。
 無知と無恥は50代にさしかかった今も変わらぬが、流石に自分の生の行く末は漠然とながらも見えてきている。10年間は同じ曲を演奏しない新響に於いては、次にこの曲が取り上げられる時には、自分がこの席に座っている事はあるまいと思う事も増えた。勿論ショスタコーヴィチのこの交響曲然りである。  第7交響曲についてもそうであるが、彼は作品全体の構想が確固とするまでは、決して譜面に落としこまない作曲家だった。それだけに、構想をまとめるまでの時間は長い。彼が30歳の時に書いたこの意慾的な作品も、当然ながらスターリンが芸術全般に対する支配力強める以前からずっと作曲家の内側で練られ続けられていた。だから後年の交響曲のような「墓碑」では本来ない筈なのだが、その後の彼の人生を暗示させる何かが宿っているように感じてしまう。
 わたしは思うのだが、もしも人がもっと早くから死について考えはじめていたなら、もう少し愚かでない振舞いができることだろう。

『ショスタコーヴィチの証言』を再読して、改めて心に働きかけてくるのは、一見ありきたりとも思われるこんな言葉であったりする。
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