悲劇的は運命的(英雄に関する一考察)
土田恭四郎(テューバ)
指揮者の高関さんとプログラム掲載のため、今回いろいろなお話を伺う機会があった。その際「悲劇的」という言葉の印象について、日本人が思う悲惨なイメージというよりも、「劇的」とか「ドラマチック」という意味に近い印象ではないだろうか、高関さんから伺い、なるほど、例えば「ギリシャ悲劇」といった演劇的な意味と同じ感覚では、と感じ入った。マーラーの交響曲第6番は、英雄の悲劇の象徴化として長3和音から短3和音への変化、その下で刻まれるリズムが運命的とか、特に終楽章では「英雄は敵から3回攻撃を受け、3回目に木のように倒れてしまう。」とマーラーが言ったとかでハンマー・ストロークが有名であり、所謂「英雄の悲劇」というイメージが付きまとっていると思われる。そこで、いろいろと思いつくまま述べてみたい。
印象として最初に浮かんだ「ギリシャ悲劇」は、古代ギリシャの神話や英雄伝説をベースにした神話世界という宗教性と、当時の都市国家(ポリス)という社会的政治的な時代背景が相まって、人間とは何か、というテーマに、ギリシャ哲学の生成・発展とともに、深い洞察力と創造力に満ちた質の高い悲劇として総合的舞台芸術が形成されてきた。その絶大な影響力は、後世の西欧文化において哲学、音楽、精神医学などの多方面への足跡に及んでいる。
いくつか代表作を観てみると、アイスキュロスは『縛められたプロメテウス』で近代以降の芸術家・思想家に人類の恩人として影響を与え、文明の推進役として人間に味方し密接な関係を持つ巨人族の神プロメテウスを通して、運命に翻弄され苦しみの中から悟って得るものこそ真に価値のあることを表現している。また『オレスティア』三部作は、トロイア戦争終結後の壮大な物語で、男の正義と女の正義が激突(言い換えれば国家の法と家族の法の対立)、ギリシャ軍総大将のアガメムノンと復讐を胸に秘すその妻クリュタイメストラの対決、息子オレステスと娘エレクトラによる母への憎悪と復讐、そして神による審判を通して避けられない運命と根源的秩序たる正義とは何かを問いかけている。ソポクレスは、アリストテレスが『詩学』にて真実の「発見」と運命の「逆転」が必然として同時に起こるすぐれた悲劇として激賞している代表作『エディプス王』にて、世界の不条理、人生の不可解、運命の非常を訴えている。さらに、エウリピデスは『トロイアの女』にてトロイア陥落後の戦争の暴虐と惨禍を通してトロイア王妃ヘカペに次々と襲いかかる絶望という極限の中での生きることへの強さを表現。また『バッコスの信女たち』では、テーバイの若き王ペンテウスと若き神ディオニソスとの対決とディオニソスによる恐るべき復讐とペンテウスの残酷な死を通して、為政者として権力で風紀の秩序を保つ知の人ペンテウスが、自然の恩恵と暴威を象徴するディオニソスにより、人間として究明しなければ気のすまないという深層の欲望が暴かれることで、文化的な人知の深層部に潜む暗闇と欲望という狂気を通して、人知・賢(ソフォン)は知恵(ソフィア)にあらず、では知恵とは何であろうという問いかけがなされ、神とはなにか、人間とはなにか、そして人間はどうあるべきかを問題提起し続けている。
注目したいのは、ギリシャ悲劇のベースにある神話世界で、古代ギリシャの神々は、実に現実的で何より人間くさいが、しかしその本質は、人知の及ばぬはるか遠い高みにあって人間界の出来事に煩わされることの無い、非人間的な距離と無関心が存在し、すなわち非常な性格があること。その中で、ペルセウス、ヘラクレス、テセウス、アキレウス、ヘクトール、オデュッセウスといった英雄達が、過酷な運命、例えば「ヘラクレスの12の功業」といった理不尽な課題と運命、しかもそのことを従要として忍ぶ主人公の痛ましい姿を通して、所謂ドラマチックに我々の深層に直接訴えかけてきているに違いない。 他の説話、例えば旧約聖書の『ヨブ記』で、悪魔が神の前でこの世で最も正しい義人であるヨブの信仰を試みようとして、神がその試みを許したから彼もまた不条理な理由から様々な災厄に見舞われるが、かれの信仰はゆらぐことがない、という話もそうだし、北欧神話『ヴォルスンガ・サガ』等に登場する英雄達、ジグムント、シンフィヨトリ、龍殺しのシグルド(『ニーベルンゲンの歌』ジークフリート)も同様といえよう。 いかにも西洋的な原初の狩猟社会という構造のうえに、はじめに権力闘争、すなわち戦いがありその後の秩序が保たれるという神話構造は少なからず影響を与えている。ギリシャローマ神話しかり、北欧神話しかり、全てに戦いがあって、巨人族との戦い(ギガントマキア)神々のたそがれ(ラグナロク)という戦いの世界観や終末観は興味深いし、その中に出てくる前述の英雄達は、大体共通して単純率直で無私直情という、純真と底知れない獣力のある人物として描かれている。
例えば、日本でも西洋文化とは異なる農耕社会の土壌で、同様な英雄達の伝承を垣間見ることができよう。所謂「貴種流離譚」という、やんごとなき方が父権との対立・葛藤というテーマを底流に、英雄として受難と漂白の伝説が数多く存在している。スサノオとかオオナムチ(大国主命)、特に明治浪漫主義を代表する青木繁の絵画『日本武尊』で荒涼たる大地にたたずむ若き英雄のイメージが強烈なヤマトタケルに代表される多くの説話、近代では曽我五郎時致の曽我兄弟もの、『平家物語』の方々や源九郎判官義経、『太平記』の大塔宮護良親王、小倉宮に代表される後南朝の皇子達の伝承、見方をかえれば忠臣蔵といった赤穂浪士や、西郷隆盛とかも同様であろう。時の権力者が、闘争によって勝利した後、その正当性を示すため相手を英雄化していくこと、また鎮魂の意味で成仏させるため(祟りや怨霊)として、そして所謂「判官びいき」といった感情の上に、日本特有の悲劇的像を構築していったのではないだろうか。
このような運命(神々の意志)という不条理を扱った題材、人間の深層心理を切り取った最古のドラマ、翻弄される英雄達の生涯に、我々は共感し哀れみと恐れを通して日ごろのストレスを放出して身も心も開放され、安らぎ、浄化されているのであろう。それは音楽という表現を通しても同じことである。
今回演奏するマーラー交響曲第6番では、一般的に『悲劇的』という記述が商業主義的に扱われ、演奏上ではハンマー・ストロークという特異な演奏方法が音楽的意味から切り離されて取り上げられている感がある。単音から発生した音楽は、それだけでもドラマチックであるものの、やがてハーモニーへ移行し、対位法を駆使してロマン的絢爛と複雑さへ向かってきた。ただ『悲劇的』とか『英雄』の言葉にとらわれるのではなく、マーラーの古典的な様式の中にある大胆な和声と圧倒的な対位法技術による音楽表現、緊密なオーケストレーションの持つ力強さ、その生命力に満ちた壮絶さを楽しんでいきたい。
アイスキュロスの『縛められたプロメテウス』のゼウス賛歌に、古代ギリシャの重要な倫理観である「苦難によりて学ぶ」という言葉がある。(圧倒的・緻密な音楽の中で我々の練習も苦難の連続だが)音楽を通して身も心も浄化されていきたいものである。