インスペクター事始(ことはじめ)~『魔法使いの弟子』に寄せて~
松下俊行(フルート)
演奏会プログラムの団員名簿の一画には「インスペクター」という役職がある。運営委員長・演奏委員長と並ぶ謂わば「三権の長」の印象さえあるが、新響に於けるこの役職は練習に関する一切を統括する役職として名実ともに重要な位置づけである。それは新響の活動の主体が3ヶ月に1度の定期演奏会だけでなく、週1回の練習そのものにあるという、最も根本的な理念に基づくものだからにほかならない。
■新響にとっての練習とは
ひと口に「アマチュアオーケストラ」と言うがその活動のあり方は多彩である。概観すると、その主体とする「活動」によって以下のような分類は可能だろう。
①ある演奏会企画のために「その都度」メンバーが募集され、毎回の演奏会ごとに集合・離散を繰返す「団体」。
②永続的な活動を続けてはいるが、自団体だけでは必要な人員を確保できず、毎回の練習に際しては欠員が生じる。演奏会を開催するにはエキストラが不可欠となる。
③自集団のみで演奏に必要となる人員を確保でき、演奏会のみならず毎回の練習そのものを活動の柱として確立し得る団体。
大別すればこの3つで、それぞれに長所はある。アマチュアオーケストラの裾野が拡がり、そこで活動する人々の価値観も自ずから多様になった現在、様々なあり方があって然るべきで、どれが優っているという比較は何も意味しない事は当然である。そしてそれを享受する聴衆の側も、自らの価値観によってどのような活動形態のアマチュアオーケストラを聴き、楽しむかも多様化している。今はそうした時代である。
①の団体は、特定のプログラムを志向するメンバーが集まるため、その完成度は期待できる。が、永続的な団体ではないため、練習場や大型楽器などの手配に絶えず悩まざるを得ない。なまじ共有の資財などを持ってしまうと、その帰順を巡って争論が起こる場合もあるし、1回ごとの演奏会で収支を誤る事が絶対に出来ない。
②の団体・・・というのが所謂「アマチュア・オーケストラ」の大半を占めているのではないだろうか?そこでは常にメンバーの確保に頭を悩ませ、その時々の各人の出席状況によって、練習の「質」が大きく影響される。でもいずれメンバーを揃えて何とか演奏会は実現したい。そこで演奏会の直前から、大量のエキストラが投入され、何とか演奏を披露するまでにこぎつける。
こうしたオーケストラにとっては、そのようにして実現する演奏会こそが、「活動」の根幹と認識される。但し、エキストラという団外人員への依存度が高ければ、財政的にも頻繁に大がかりな演奏会を開く事は難しくなる。年に2回の定期演奏会開催の団体が圧倒的に多いのは、この様な事情が根底にある場合が多い。またそうした満を持した開催の演奏会であるだけに、活動の中心たる位置づけが強まるのである。
③のケースに新響は該当する。新響にとっては毎回の練習そのものが活動の主体である。そのためには各パートに必要となる人員が揃っており、且つそのメンバーが各回の練習に確実に出席する事が前提になる。これを可能にするにはその練習自体が魅力的なものである必要がある。
新響には活動全体の理想を示した「新響総括図」というものがあって、ここに活動のあるべき全容が凝縮されて伝えられている。
そこに練習のあるべき姿(「良い練習とは」)として「充実感・緊張感がある」とか「日々の進歩が感じられる」とか「(新響は)『自分のオケ』であるから積極的に(練習に)参加するという意識の確立」が必須などといった明確な言葉で表現されている。その場限りの脚光を浴びて終わらせる事が可能な「演奏会」ではなく、毎回の「練習」の充実を活動の根幹と考えた芥川先生と先人たちの智慧と炯眼(けいがん)によって、新響は今も磐石な活動理念を保ち得ているのである。
■インスペクターの職務
その練習の要となるインスペクターは、まず練習計画の立案を行うという重要な職務を負っている。立案の為には本番の指揮者は勿論、各トレーナーのスケジュールを確認し、ハープなど特殊楽器のエキストラ奏者がいつ練習に参加できるか?も押さえる。そして練習会場の確保状況を踏まえ、各曲の難易度を勘案して練習内容の比重を考た上で、まとめ上げた計画案を演奏委員会に提示する。
演奏委員会はオーケストラ全体の錬度向上の見地から、その計画の妥当性を検討し、必要に応じて修正を加えて、練習計画が晴れて完成する事になる。この結果次第では新たな練習指導者手配の必要が生じるが、それもインスペクターが行う。現在インスペクターと演奏委員会がこのようにして検討を進めているのは2010年1月のシーズン(本年10月以降)に関する練習計画。3ヶ月に一度、十数回の練習で定期演奏会が巡ってくる新響にあっては、練習計画も常に先々のサイクルで回していかねばならないのである。
インスペクターの職務には、ひとたび完成した計画が円滑に実行されるよう諸事を運ぶ事も当然含まれる。毎回の練習の開始に当たっては、メンバーの出欠その他の状況を把握した上で、その日練習しなければならない内容と時間配分とを指導者と打合せる。この予め打合せられた時間配分は厳密に守られなければならず、いかなる大指揮者が新響の練習に臨み、興が乗ってもう少しこの曲の練習時間を延ばしたいと懇願したとしても、インスペクターが認めなければ、そこであえなく打切りとなる。こうした事を現在はチェロの安田氏が執り行っているが、彼のような緻密な頭脳と性格を持った人格者にして初めて可能な事で、僕が指揮者に役務上とは言え物申せば、大抵はけんかになってしまうだろう。
ともあれこれは練習計画に関する権限が、指揮者ではなく、オーケストラの側にあるというある種の伝統の端的な例であり、その象徴がインスペクターという職務にある事を物語っているとも言える。
■インスペクター事始
さて、そのインスペクター制度だが、これほど「練習」に活動の主体をもつ新響に於いてその歴史は意外に浅い。正式に制度として発足し機能し始めたのは第122回定期演奏会(1989年1月22日)のシーズンからだ。このシーズンで僕はインスペクターとして練習に携わった。そしてこのコンサートの劈頭(へきとう)演奏されたのが『魔法使いの弟子』だった。その意味でこの曲は思い出深く、当時の昔語りをお許しいただきたい。
それまでの新響の練習は芥川先生が音楽監督として仕切られていた。その過酷とさえ言える練習は、まさに「聴衆・指導者・団員の精神力の燃焼を喚起する」と前述の「総括図」に載る先生の言葉そのものだったが、その時間配分も基本的には先生に委ねられており、例えば3曲練習する計画を立てても、2曲で終わってしまうケースが無いとはいえなかった。すると3曲目しか出番の無い管楽器奏者は無駄足になってしまう。そして来るか来ないかわからない出番のために、ひたすら練習場外で待機する団員の存在を産み出す結果をもたらす場合があった。
当時の練習は上野の東京文化会館地下のAリハーサル室で行なわれていた。その部屋前の廊下で、いつ来るともわからない練習に備え、楽器を抱えて待機していた日々を想い出す。隣の空調室に入るとそこで音が出せたので、ウォームアップに余念が無かったが、大ホールで演奏会が行われていれば、音が漏れると言われてそれもかなわなかった。突然リハーサル室内が騒がしくなってメンバー入れ替えの気配がドア越しに伝わってくる。出番が巡ってきたのだ・・・と時計を見ると終了時刻まであと15分!これでは時間的にはもちろん、何ひとつ満足な練習にはなり得ない。
さすがにこれは問題視され、技術委員会(現在の演奏委員会)内で練習内容を管理していこうとの機運ができた。そこで初めて「インスペクター」という名称が新響内でも取沙汰されるようになった。当初ヴィオラ首席奏者の柳澤氏がその任に当たった。指揮者の傍にいて対話し易いという条件もあったろう。
数シーズンでこちらにお鉢が回ってきた。前述のような「待機」を日常体験し、練習内容についてもあれこれケチをつけていたせいだろう(苦笑)。首席奏者でも何でもない一介の団員に話が来るからには、「うるさいあいつにやらせて黙らせよう」との意図が必ずやあった筈である。こちらとしては新響の維新を叫ぶ憂国の「青年将校」(死語でしょうか?)くらいのつもりでいたが、周囲は中味の無い野次ばかり飛ばす初当選の「陣笠代議士」(これも死語?)くらいの目で見ていたに違いない。この時僕は入団6年目、30歳になったかどうかの若造だったが、この役職を経験する事で、当たり前のように行なわれている毎回の練習が、多数の努力の寸分違わぬ組合せの末に成立つ奇蹟と知る事となった。
1988年10月からの新響の練習は、独立したインスペクター制度の下にスタートした。最初にやった事が、個々の練習に於ける内容の詳細時間配分を記した計画表を作成し、それを全団員と指導者とで共有だったのは、これまでの経緯からの当然過ぎる帰結だった。そして自らの職務の基本を、運営委員会と技術委員会とのすり合わせと位置づけた。新響の全活動の両輪となるべきこのふたつの委員会は、その構成員の成立ちの相違もあって、例えば練習の実施に当たっても音楽の理想を追う技術委員会が、それに必要となる実務を把握しているとは限らず、練習の現場には齟齬(そご)が生じがちだったのだ。故に両者の事情の落としどころを調整する役割は、どうしても必要だったという訳である。
この制度も役職も、規約の上では何ら規定が無かった。つまり規約上は存在せず、従って何ら権限を保障されないものだったのだ。故に既存の組織のすきまを縫い合わせ、欠落部分を補足するような役回りに徹する事は、むしろ当たり前と理解していたと言って良い。規約上にインスペクターの名称と役割、そして選出の方法が載ったのは6年後の1994年12月の事と記憶する。この間に毎シーズンの試行錯誤を繰返しながら、インスペクターの職務が次第に確立されて行ったのである。
■結果や如何に=ある時代の終焉=
さて、そのように意気込み盛んに臨んだシーズンだったが、本番の結果は散々だった・・・と思う。当時の新響は本番に於ける成功と失敗の落差が激しかった。そしてしばらく良い結果が続くと思い出したように「フランスもの」のプログラムを掲げ、やると毎回上手くいかないという事を繰返していた(フランスの作品をやって何とかものになってきたのは、2003年1月のプーランクやドビュッシーの演奏からからだろう)。このシーズンは『魔法使いの弟子』のような難曲(という意識さえ無かった)から始まりメインが『幻想交響曲』とあって、老練な山田一雄氏の指揮によってしても御しがたい難物だったのだ。
練習計画がいきなり「改善」された事も団内には動揺があったと今にして思う。社会の大多数の人は一見不合理を感じる事があっても、その改善に向けての急激勝つ大胆な変革を好まない、と知る結果となった。
更に重大な要素があった。それは芥川先生の病状だった。1988年4月に奏楽堂で行なわれたコンサートを最後に先生は体調を崩され、年の後半からは入院中の身だった。病状は新響に伝わらず、何よりも翌年4月に先生の指揮で行なわれる定期の計画をどうしたものかの判断がつかずじまいだったのである。当人から不可能との申し出が無い限り、新響サイドから代わりの指揮者を人選する訳にもいかない・・・時間はどんどん経過してゆき、にもかかわらず何も決まらない・決められない不透明感は、やはり団内にも目に見えぬ影響を与えていたように思う。1988年という年はこうして暮れていった。
明けて1989年1月7日早朝、昭和天皇崩御の報が伝わる。この日は土曜日で、新響の初練習に当たっていた。演奏会を2週間後に控えた最後の仕上げ段階にあったが、昨秋以来続いていた、運動会をはじめとした音響を伴う行事を含め、歌舞音曲を「自粛」する動きの中で、この報に飛び起きると練習会場や指揮者及び団内の幹部に電話をかけまくり、この日の練習を実施するかどうかを検討した。昼までに「実施」の結論を得、閑散とした都心の練習場に団員は揃ったが何となく「こんな日に練習を続けて良いのだろうか?」という気分を引きずった、中途半端なものとなってしまった。
新響はこのような内憂外患を抱えて演奏会に臨む事になってしまった。『魔法使いの弟子』の最初の音が鳴るまで、不安が尽きなかった記憶がよみがえってくる。そしてインスペクターとして終演後の忸怩(じくじ)たる想いもまた。
惨憺たるシーズンが終了した9日後の1月31日の午後、芥川先生の訃報が伝わってきた。いまそれがどのようにしてもたらされたかの記憶がない。覚えているのはその晩、外出先から帰宅途上のタクシーの中で、ラジオから先生死去のニュースが流れてきた事である。その後まっすぐ帰れず、独り呑んだ。
20年という時間が経過し、改めて芥川時代の新響の風景と、昭和という時代の遠さが想い起こされてくる。