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亡命者とその芸術~バルトーク『管弦楽のための協奏曲』によせて~

吉田仁美(フルート)

 東京駒場深夜0時。時折鈍い音を立てて通過する京王井の頭線に呼応するかのように、どこからか低く響いてくるハンガリー女性の独り言…。何も都市怪談などではなく私の学生時代の夜のひとコマである。当時私は外国人寮の住み込みチューターとして1年間留学生と生活を共にしていた。向いは中国人とマレーシア人、右隣はギリシャ人、そして左隣がハンガリー人。金髪の巻き毛から真っ赤な頬っぺたを覗かせて「ハンガリーはワインが美味しいのヨ」という時の可愛らしい声からは想像できない、真夜中のハンガリー語での怒涛の長電話は、意味が取れないため余計に音声としてのみ耳に伝わり、部分的に1オクターブ程の抑揚を伴うフランス語を学習中の私に、ヨーロッパにも日本語のように平坦な言語が存在し、そしておそらくそこには私が知っている「主要な国」とは違う何かがあるということを予感させた。しかしその女の子がこんなにも複雑な運命を辿ってきた国からやってきたということは想像しようともしなかった。

■亡命作家、アゴタ・クリストフ
 大学ではフランス語を専攻していたが、東京の西の果てにあるキャンパスには辿り着かずに、気がつけば手前の映画館で一日が終わってしまうことも少なくなかった。そうは言っても入学してからの2年間は専攻語を強制的に叩き込まれる。忘れもしないマダムM。机に浅く腰掛け長い足は椅子に投げ出し顔はまるで魔女のようだ。Alors…(さて…)の一言で背筋が凍る。無慈悲にもひとつでも単位を落とせば容赦なく落第となるので、泣きそうになりながら授業に出た。3年に上がってからも幾つかは専攻語の授業を取らなければならない。晴れて魔女から解放された私は迷わず一番優しそうなN先生の授業を選んだ。その内容は、先生による日本語訳も多いミラン・クンデラを始めとして、イオネスコやシオランなど、第二次大戦後東欧からフランス語圏に亡命しフランス語で執筆した作家の作品を、テクスト講読だけではなく舞台作品や映画を交えて味わうというもので、今であれば何が何でも取りたい授業である。午後の柔らかい日差しに包まれながら先生の柔らかい声をBGMにウトウトとまどろんでいるあの時の私が恨めしい。
 その授業で題材となった作家の一人がアゴタ・クリストフ。1935年にハンガリーのオーストリアとの国境近くに生まれる。ナチズムからスターリニズムという歴史の急変に伴い、9歳でドイツ語を押し付けられ、11歳にはロシア語を強制される。1956年のハンガリー動乱の折、夫と共に生後4ヶ月の乳飲み子を抱えて命がけで国境を超えスイスへ亡命。フランス語圏の町に住み時計工場で働きながら執筆を続け、母語を殺しつつあるという意味でこれもまた「敵語」であるフランス語で書かれた問題作『悪童日記』で衝撃的なデビューを飾る。この小説は、タイトルからわかる通り子供の書いた日記という形をとり、そこには無垢で残酷で聡明な双子の子供が、疎開先の祖母の家で数々の非行を重ねながら逞しく生を切り開いてゆく様子が淡々と語られている。時代や場所の設定は意識的に避けられているが、作家自身の体験がもとになっていることは明らかだ。

昨日は、すべてがもっと美しかった
木々の間に音楽
ぼくの髪に風
そして、君が伸ばした手には
太陽

この詩は、『悪童日記』から始まる三部作の後に書かれた『昨日』の冒頭に置かれているが、もとは14歳で独り入れられた知らない街の寄宿舎のベッドの中で悲しみの涙と共に生まれたものだという。幸福な時代への郷愁、そしてそれがもう決して戻らないことへの絶望。以来クリストフには書くことだけが別離の悲しみに耐える手段となった。国家・民族・国語・公用語の説明が大概「日本」という言葉で済まされてしまう世界的にも珍しい国に四半世紀も居座ってしまった私には、その悲惨さは想像もつかない。常に近隣の国に脅かされ続けたハンガリーという小国。今でもその傷を背負っているのだろうか。駒場のハンガリー人の女の子とは、隣に住んでいながら大事な話は何ひとつとしてしなかった。

■亡命作曲家、ベーラ・バルトーク
 ハンガリーに生まれ政治的理由により亡命する運命を辿った芸術家はクリストフだけではない。ベーラ・バルトークもその一人。1881年生まれなのでクリストフよりは二世代程上にあたる。晩年いよいよ進むナチズムの台頭。ユダヤ人ではないバルトークは盟友コダーイのようにハンガリーに留まることもできたが、「死に優る苦悩の選択こそが、自らの土に加えられる暴力に対してとり得る最も激しい抵抗のかたちである」ために、ナチのハンガリー侵攻前の1940年59歳のときに引き裂かれる思いで祖国を後にした。亡命先のアメリカに着くとすぐに白血病の種子が宿り、残り少ない余命という定めに付き纏われる。加えて素朴な生活を愛した作曲家にとって、機械化・画一化の進んだ文明都市での生活は苦痛以外の何物でもなく、人工的な加工の施された机や止まぬ騒音を嫌悪した。思いは祖国の戦争に及ぶ。

「戦争は続行中だ。悪魔の力は速度を上げ、妨げるものもないままに私の慣れ親しんだところへ突入していくのだ。(中略)なんらかの方法で祖国に行き着くことができたとしても、非常に変わり果てた状況下にあり、もはや私はそこに属するものではない。」

 自分がヨーロッパにいないという負い目を、受難を持って支払おうとするかのようであったという。医師には「一層の休養」をとるように言われるが、その言葉さえもが失意に響く。「安全」「何もしないこと」に伴うこのような亡命者の苦痛は、前出のクリストフが亡命先のスイスで「もうここにはロシア人は追ってこない、安全だから心配するな」と言われたのに対して綴った次の一文が物語っていよう。

「自分はロシア人が怖いわけではない、わたしが悲しいのは、それはむしろ今のこの完璧すぎる安全のせいであり、仕事と工場と買い物と洗濯と食事以外には何ひとつ、すべきことも、考えるべきこともないからだ、ただただ日曜日を待って、その日ゆっくりと眠り、いつもより少し長く故国の夢を見ること以外何ひとつ、待ち望むことがないからだ。」

 そんな絶望のさなか魔法使いのごとく現れたのが当時ボストン交響楽団の音楽監督だったクーセヴィツキー。亡き夫人を記念するオーケストラ曲を、自らの基金から1000ドルの契約金で、しかも時間の制限や強制力を与えることなく依頼したのである。バルトークは高揚した。作曲に取り掛かると床中に本と楽譜の山が散らばり、アメリカ到着直後はあんなに悩まされていた周りの騒音も全く気にしていられなくなった。作曲中のスコアを見ながらこう言っている。

「この総譜に誰も読み取ることができないのは、この協奏曲をつくることを通じて、自分自身を回復に向かわせるのに必要としていた妙薬を発見したことだよ。これは発見というものがほとんどそうであるように、ほんの偶然のことなのだ。」

 このようにして奇跡のごとく生まれたのが、今回私達が演奏する『管弦楽のための協奏曲』。作曲家がアメリカへ来て成し遂げた最初の作品だ。『悪童日記』にしても『管弦楽のための協奏曲』にしても、その産みの親の辿った運命は決して幸福なものとは言えないが、その傷を癒すように書かれたそれらの作品は多くの読者や聴衆に恵まれた。N先生の言葉を借りれば、どちらも「政治的亡命というきわめて不幸な二十世紀的現象が生み出した幸福な奇蹟」であると言える。

■いつか東十条駅で

「音楽の歴史を駆けめぐる彼の旅の始まりは、彼にとってもはや祖国が存在しなくなった時期にほぼ一致している。他のいかなる国も祖国に取って代わることができないと理解した彼は、唯一の祖国を音楽のなかに見いだした。(中略)彼の唯一の祖国、唯一の我が家、それは音楽、あらゆる音楽家たちの音楽すべて、音楽の歴史だった。そこにこそ彼は落ちつき、根づき、住もうと決意した。(中略)彼はそこを我が家だと感じるためにあらゆることをした。その家のすべての部屋で立ち止まり、部屋のすべての隅に触れ、すべての家具を撫でてみたのである」

 ここに引用したのは、先に名前を挙げたクンデラの著作『裏切られた遺言』の一部で、「彼」とはストラヴィンスキーを指しているが、バルトークにも同じことが言えるであろうし、文中の「音楽」を「小説」と言い換えれば、クンデラ自身やクリストフにも当てはまるだろう。
 偉大な芸術家の話の後で自分のことを引き合いに出すのは恐縮だが、私にとってはオーケストラが故郷のような存在になるのかもしれない。かつて独りになった時に何よりも求めたのは音楽であり、そして子供の頃から文句を言いながらも身を置いてきたオーケストラであった。それゆえ、こうしてまたその一員となることができて大変助かっている。しかし一方でオーケストラという集団的行為に対する苦手意識が未だに抜けきらないなど、その愛し方も決して真直ぐなものとは言えない。そんな私が懲りずにまたその集団に加わろうと思い、運よく新響入団に至ったのはなぜだろう。
 私が新響に入団したのは2年ほど前。初めて練習に参加した日のことは良く覚えている。練習場があるのは北区十条。20年そこらの歴史しか持たない無味無臭の新興住宅地に育った私は、京浜東北線東十条駅の改札を出た瞬間に、まずこの十条という土地の持つ匂いに圧倒された。また丁度その頃、十条の隣町王子を舞台にした堀江敏幸の小説『いつか王子駅で』を読んでいたので、作品中の風景がそのままそこにあることに驚き、思わず物語の途中で姿を消した印鑑職人の正吉さんの姿を探した。興奮覚めやらぬまま改札を後にし、高架下を流し素麺のごとく滑ってゆく新幹線や辺りに生息する無愛想な猫に気を取られて、2回ほど道を間違えながらやっとのことで練習場に辿り着いた私を迎えたのは、長年日本経済を支えてきたであろう団員達の顔、顔、顔。クラクラする頭を必死で支え、自分の過去を知る人のいないここで全てをやり直そう、と気を取り直した矢先、見覚えのある顔が視界に入ってきた。パニック状態の私を面白がるかのように、寛いだ様子で「よう、吉田」と声を掛けてきたのは、子供の頃叱られ続けた苦い思い出のあるオーケストラで指導をして下さっていたYさん。私にとってYさんはあくまで「先生」であったので、団内では別の愛称で呼ばれているのを知った時は、何だか親の青春時代の写真を見てしまった時のような恥ずかしさを覚えた。同じ団員として演奏できるのは大変光栄ではあるが、一から出直す計画は、練習場に足を踏み入れたその瞬間にこうしてあっさりと断念された。その日、自分の父親ほどの年齢のベテラン団員に挟まれ、のぼせた頭で演奏したニールセンの出来が散々であったことは言うまでも無い。前途多難なスタートであった。
 もう一人入団以前に会ったことのある人がいる。この原稿の依頼人でもあり、我らがフルートパート首席奏者のMさん。正確に言えばその分身に会っているのだ。大学からの帰り道、いつものように丸の内丸善本店に立ち寄り、岩波文庫の棚で肌色とピンク色の背表紙とにらめっこしていると、後ろからMさんの5分の3ほどの背丈のおじさんが近づいてきて、ある本の背表紙を指差し、

「この本、面白いんですよ、ひっひっひ」

とだけ言い残して去っていった。薄気味悪く思いながら小一時間ほどかけて店内を一周し、再び岩波文庫の棚に戻ると、また同じおじさんがやってきて、先ほどと一字一句違わぬフレーズを繰り返し去っていった。当時は他と比べて少々値の張る岩波文庫一冊買うのも一大決心だったので、見ず知らずのおじさんの薦めに従うのもためらわれ、その日は何も買わずに書店を後にした。そんなことはすっかり忘れた頃、たまたま通り掛かった古本屋で、あの時おじさんが指差した背表紙が目に飛び込んできた。ここに至ってようやく150円で購入したその本が、11世紀ペルシャの詩人オマル・ハイヤーム作『ルバイヤート』。おじさんは嘘をついていなかった。本当に面白くて、今でも夜中に「酒と楽の音と恋人と、そのほかには何もない!」などと諳んじては一人ふふふと楽しんでいる。
 後日、新響の定期演奏会終了後のレセプションの席で学生時代のことに話が及び、Mさんがこの詩人のことを本格的に勉強されていたということがわかったとき、確信した。あのおじさんはMさんの分身であり、おじさんこそが私を新響へと導いたのだと。そんなわけで、私が新響に入団したのは8割がそのおじさんの仕業、残りの2割は屈折しながらも抱いている私の音楽そしてオーケストラへの愛ゆえだと思いたい。

■主な参考文献
アガサ・ファセット『バルトーク晩年の悲劇』(野水瑞穂訳、みすず書房:1973年)
アゴタ・クリストフ『文盲:アゴタ・クリストフ自伝』(堀茂樹訳、白水社:2006年)
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