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新響「邦人作品」小史 ~日本人作曲家の作品を巡る流れ~

松下 俊行(フルート)

 新響と邦人作品との関わりは長い歴史をもち、今シーズンも権代敦彦氏の作品を取上げる。ここに至るまでの様々な曲折について、以下に簡単に紹介して、現在の状況と今後を位置づけてみたい。

■創始と定義
 1976年の創立30周年を記念して行なわれた「日本の交響作品展」で、芥川也寸志と新交響楽団はわが国の管弦楽黎明期(れいめいき)と言える作品の数々を取上げた。選定に臨んで新響が演奏すべき「邦人作品」として以下の3つの条件に適うものに限定している。

①旋律が明確である。
②調性がある。
③戦前・戦中の作品である。


 これらの条件は戦後の音楽界に於ける作品傾向の混乱を考えれば、必要不可欠なものだった。いわゆる「現代音楽」の語に未だイメージされる、聴衆の感性とは隔絶した玉石混淆の「芸術作品」が横行していた状況下で、「邦人作品」の定義をまず明確に打出した事に芥川氏の炯眼(けいがん)を見る。誰でも思いつきそうな事ではあるが、実際には誰かが行なうまで気づかない典型というべきで事実、それまで誰もその仕事の重要さに気づかなかった。その結果、以下の作品群が2夜をかけて演奏されている。

*第1日
平尾貴四男/古代讃歌(1935)
箕作秋吉/小交響曲ニ長調(1937)
大木正夫/組曲「五つのお伽噺」(1933)
尾高尚忠/日本組曲(1937)
早坂文雄/古代の舞曲(1939)

*第2日
清瀬保二/日本祭礼舞曲(1940)
安部幸明/小組曲(1935)
高田三郎/山形民謡によるバラード(1941)
諸井三郎/小交響曲変ロ調(1943)
伊福部昭/交響譚詩(1943)

 この功績に対し、翌年サントリー音楽賞(鳥井音楽賞)を受賞した事が、新響が社会的な認知を得、活動を拡大して行くための大きなステップとなった事は、改めて言及するまでもないだろう。だが「埋もれた作品」を音にする為に、様々な作品へのアプローチの過程で団員個々に対してもたらされた「財産」も、それに劣らぬものだった事に改めて注視すべきだ。例えば殆ど演奏された記録の無い作品には、スコア(総譜)はあってもパート譜が無い。そこで団員が分担してパート譜をスコアから筆写して作成するという作業が必要だった。現在ではスコアさえ入力すれば簡単に各パート用の譜面が作成出来るソフトウェアが容易に入手できるが、つい35年前当時は全て手作業に拠った。今更ながら隔世の感がある。
 そうした中で最も特筆すべきは、当時健在(第2日目のプログラムでは、諸井三郎氏以外は全て存命)だった作曲者の殆どが、練習に立会って時に自作を指揮し、時に作品を加筆さえして、楽員との様々な共感の中で演奏を創り上げるという、望外の成果を得た事である。これこそ「作品への真摯な取組み=音楽への愛情=アマチュアの本質」という、芥川氏が提唱し、新響のバックボーンとして今もあり続ける精神の具現化へのひとつであった。

 以後、「日本の交響作品展」は「邦人作品」の定義に則り選曲され、1986年の第10回(芥川也寸志作品展)まで毎年続いてゆく。私は1982年の入団なのでこの時代については「生き証人」としての資格と役割を自負もしているが(笑)、「邦人作品」に対し、団員間には実に様々な意見があった。決して全員が満腔(まんこう)の賛意を以って演奏をしていた訳ではない。「社会的な意義」を感じ、嬉々として演奏する者もいれば、「つまらない」と内心背を向けつつも、義務感に任せて練習に加わっている者もいた。加えて年4回の定期演奏会のうち、「邦人作品」の回のチケットの売れ行きが必ず思わしくないのを苦慮する声もあった(そうした人々の口から「邦人税」なる言葉を耳にした事がある)。
 「それで良いのだ」と個人的には考える。120人もの人間が、それぞれ一家言を展開し得るほどの音楽的な欲求の満足を求めて、ひとつのオーケストラに集まっているのである。皆が同じ方向を向いて演奏に集中する姿は、理念としては正しく美しくもあるが、本来あるべき表現の「多様性」とは相容れない。我々は一糸乱れぬマスゲームへの参加を強要されているのではないのだ。出処進退の自由が個人に許されている集団の中で、個々様々な慾求とそれに対して眼前に与えられている作品(これは勿論「邦人作品」に限らない)との間に自分なりの妥協点を見出し、折合いをつけてゆく過程で起こる精神の動き・・・こそが、深い表現の源泉になるはずであり、事実そのような基盤によって「日本の交響作品展」は行なわれていった。結局これを根本で支えていたのは団員個々の「音楽への愛情」であったと断言できる。
 だが、回を重ねるに従って「日本の交響作品展」もさすがに次第に当初の勢いを失ってきていた。それは「定義」の範疇内の、譜面を入手できる限りの一定レヴェル以上の作品を取上げ尽くしたとの感が蔓延していた事もあった。「マンネリ」の語は使いたくないが、どのような優れた企画であっても、10年という期間を開始当初の情熱とエネルギーを維持して毎回充実させる事は難しい。退き際が求められていたとも言える。そしてその掉尾(ちょうび)を飾る企画として、芥川氏の作品展を新響側から提示する事になった。「自分の作品を演奏会にかけたいがために、この作品展を始めた訳ではない」と固辞を重ねる音楽監督を新響が説得して、実現に至ったこの第10回目を以って、新響の「邦人作品」の演奏は、ひとつのピリオドを打った事になる。

 現在でも新響と邦人作品を結びつけてイメージする人は多いが、現実的にはこの10年間の演奏会企画と活動が印象づけられているという事である。但し、それは1976年から1986年に至る期間の、日本のあらゆる「音楽状況」を踏まえて生み出された企画であったし、ここで言う「邦人作品」もまた、そうした時代背景を前提とした、極めて限定されたものだった事にもっと注意が払われて良い。そしてより重要なこととして、この間に日本のオーケストラ(プロもアマチュアも含め)のレヴェル向上と、「邦人作品」が演奏される機会の増加(これは確かに新響の功績である)など新響を取巻く環境も激変した事にも留意されるべきであろう。

■石井眞木氏の時代=同時代性=
 1991年以降、新響は石井眞木氏の指揮により「現代の交響作品展'91」「現代の交響作品展'92」を行ない、日本人作曲家による作品(敢えて「邦人作品」と区別する)へのアプローチに新時代を迎える事になった。これはひと言で表せば「同時代の作曲家」の作品を対象にした事を特徴とする。
 ここで新響は1976年当時の初心を思い出すべきであった。演奏の対象に如何に取り組むかに日々腐心する団員にとって、作品の創造者と時空を共有し、その謦咳に触れる事は常に無限の刺戟と意慾をもたらす。作品は確実に演奏者の血肉となり、そうした経過を辿った演奏こそが聴衆に真の感動を与える。石井氏は芥川也寸志と新響が、「邦人作品」の演奏を通じて体現していた(が、深く意識はしていなかったために、時間を追うごとに稀薄となっていった)「同時代性」というこの企画の本質を見抜き、それを新たな形で展開を試みたのだった。
 実際この2度の作品展とその後のベルリン公演を通じ、松村禎三・一柳慧・藤田正典という戦後日本を代表する作曲家各氏との交流(特に一柳氏とは自作自演でピアノ協奏曲を共演)を通じ、作品の演奏に不可欠となる一層緊密なアプローチを体現したのだった。

 更にこれを深耕させる手段として特筆すべきは、石井氏が提唱した作品公募というアイディアである。

―作曲家は常に自作が演奏される機会を求めている。新交響楽団の名に於いて公募し、『入選作はじっくり取り組んで演奏します』と言えば、応募作はたくさん集まる筈だ―

 という自らの修行時代の体験に裏打ちされた理念に基づき、1991年の秋口に公表されると、年末までに果たして20曲ほどの作品が集まった。書法も分量も楽器編成(もちろん管弦楽曲である事が条件だったが)も様々だったが、高校生から70歳を過ぎまでと応募者の年齢もまちまちで、作曲をしている人の層の厚さに改めて驚いた。5曲ほどに絞り込んだ上で、新響の関係者数人が加わり、石井氏が各曲を論じていった。作曲家が作品のどのような尺度をもち、どこに着目して評価するのか?その「現場」に立ち会った訳で、これは今も非常に鮮烈な記憶として残っている。そして最終的に第一席として推したのが夏田昌和氏の『モルフォジェネシス~オーボエとオーケストラのための~』だった。この時夏田氏はまだ藝大大学院の学生。締切りぎりぎりに応募したため、学内の掲示板に貼られた公募書類をそのまま譲り受け、画鋲のあとも生々しい応募用紙を作品に添付して送ったと、その後述懐していたのを思い出す。
 『モルフォジェネシス』は1992年の出光音楽賞を受賞し、夏田氏が作曲家としての地歩を固める契機のひとつとなった。この優れた作品はいずれ何らかのきっかけを得て世の中に出、結局は同じような評価を得たかも知れない。が、新響の公募が作品を世に送り出す先鞭をつけた意義は極めて大きかったと今も考える。

 夏田氏は先達の例に漏れず、作曲者として自らの作品が音になって行く過程に立ち会い、それどころか本番に於いても自作の指揮を務める結果となった。こうした多くの事例を振返れば、新響が演奏すべき日本人作曲家の作品としての質と同時に、その「同時代性」を石井氏が如何に重視したか?が解ろうというものである。つけ加えれば、その演奏に際しては第一級の演奏家との共演も経験していた・・・恐らく継続すれば、新響の活動の柱として充実・発展は更に望めた筈である。
 残念ながら当時の新響が石井眞木氏の真意やもたらされたもの(その作品を含めて)の真価を充分に理解していたとは必ずしも言えない。この貴重な関係はひとまず1993年10月の第141回定期<ベルリン芸術週間参加記念演奏会>で区切りをつけた。芥川氏歿後直ちに氏が孤立無援となった新響に手をさしのべた1989年からの足かけ5年間、新響が演奏した日本人の手になる作品は、それ以前と一線を画す、このようなものだった。

■曲折を経て=「伝統」の評価と継承=
 1994年は芥川・石井両氏にとっての師である伊福部昭氏の生誕80年(傘寿)に当たった年である。新響の活動の軸として毎回の定期にこの作曲家の作品を1曲プログラムに入れていた。そしてこれを契機に日本人の作品選定が新響自身の手に委ねられると、2年後に迫った創立40周年記念行事を含めた5ヵ年の企画内容の案出と相俟って、かつての定義に寸分違わぬ「邦人作品」が復活する様子を見せる事になった。且つそれは、
①「5年で10曲」という演奏頻度のアップ
②「戦前・戦中の作品の絶対視」
との企画案となって表れた。

 ①についてはプログラムの構成に支障を来たす事と、団員の演奏意欲に関わるおそれがあった(芥川氏の時代でさえ「邦人税」の感覚があった事を思い出してほしい)。更には創立40周年の記念演奏会で演奏される邦人作品は、これと別枠であるという。これは流石に実現されなかった。
 ②はおのずから「存命作曲家の作品」の演奏を非常に困難にさせる条件だった。こちらの方がむしろ重大な変化だったが、当時は気づく者も無い状態だった。
 そして1996年の創立40周年記念演奏会では、「日本の交響作品展’96」と銘打って、1976年のそれとほぼ同時代の作品が2日連続で演奏されている。

*第1日
尾高尚忠/みだれ(1938)
早坂文雄/ピアノ協奏曲(1948)
橋本国彦/交響曲ニ調(1940)

*第2日
平尾貴四男/俚謡による変奏曲(1938)
松平頼則/パストラル(1935)
深井史郎/ジャワの唄声(1942)
諸井三郎/交響曲第3番(1944)

 50年余に及ぶ新響の長い歴史の中でも、この2回の演奏会の位置づけは難しい。
 肯定的に見ればこれは「芥川也寸志と新交響楽団」の「伝統」を守り、その方向を更に深化させた演奏会である。新響は今後も「戦中・戦後の」「埋もれた」作品の初演・再演に努め、音楽文化の一翼を担ってゆこうとする、その使命感の表れという事になろう。

 批判的な見地に拠れば、20年という時間の経過とその間の社会・音楽状況の変化を無視し、過去の「成功体験」に固執して、新たなもの・・・例えば「戦後の」「評価を得ている」作品・・・への拒絶と捉える事につながってゆく。
例えば石井眞木氏(そして芥川氏も!)の重要視した「同時代性」からこの演奏会を検証すると、作曲家中で存命だったのは松平頼則氏のみである。しかも同氏が自作の演奏を拒まれる(という事実があった)に至り、「作曲者との共感」を手にする事自体が不可能となり、あるべきアプローチは望むべくもなくなっていた。
 また、既に評価の定まった作品も、新響ではなかなか演奏の機会が得られなかった。『涅槃交響曲』はこの時期以前から何度も俎上に上がりながらその都度否定されてきたし(2006年に演奏)、武満徹の作品を新響が「初めて」コンサートのプログラムとして取上げたのは1997年(創立後41年目)である。西洋の名作を毎回プログラムに乗せながら、自国の「名曲」を演奏しないという実情。こうした偏りを説明する明快な論拠を、当時の新響は持っていなかった(「プロオケが取上げるような自国の作品を新響はやるべきではない」とかつて聞かされた事があった。悪い冗談だろうが・・・)。
 いずれにせよ、20年前と同工異曲の企画は、時間の経過と環境の変化の中で、団外からの評価とは別に、演奏者(団員)にとっての意味と意義を明らかに変質させていた事だけは否定のしようがない。春秋の筆法によれば、新響の「邦人作品」にこだわったこの2回の演奏会こそが、今後取り組んでゆくべき「日本人の作品」とはどうあるべきか?を考える契機となってその機運を盛り上げ、「邦人作品」の定義そのものの見直しに導いたと言えようか?
 この見直しがひとつの「結論」を得るには、芥川氏時代の定義を尊重する人々によって「オーケストラ・ニッポニカ」が設立される2002年まで、実に6年以上の期間、議論が繰返された。今後新響が演奏すべき「邦人作品」の尺度については合致点を見出せなかった訳である。

 以後の新響は時代・作風にこだわる事無く、且つ作曲者との「共感」を可能な限り重視しつつ、日本人の手に成るあらゆる作品を演奏の対象としている。故に今シーズンの権代敦彦氏の『ジャペータ‐葬送の音楽Ⅰ‐』と、次のシーズンで取上げる高田三郎氏(2000年死去)の1945年から翌年に書かれたふたつの『狂詩曲』との間に、何ら隔てるべきものはない。

 こうした流れを改めて追ってみると、「永続的な活動」を目指す組織にとっての「伝統」とか「歴史の継承」とは何か?といった事を、今更ながら深く考えさせられるし、それらに対する評価の尺度を、組織として共有する事の難しさも痛感せざるを得ない。一時代の状況を背景に創始され評価された事柄や方針を、次世代に「そのまま」引継がせる事の是非は、あらゆる組織の中で、絶えず俎上に上がり議論されている筈である。激変を繰返す環境下での組織は、特定の人が唱える「大義」や「スローガン」だけでは存続し得ない。成員たる生身の人間個々の意慾をかきたてるべき条件を調え、且つ変わる事のない本質的な理念を見失わずに、新たな人材を絶えず取込んでいく事が不可欠である。つまるところは「ヒト」であって、個々の成員がいつの間にかその理念を自分のものとして受け容れていける環境(文化)の確立によってのみ、永続性が保てるのである。

 芥川氏の歿年(1989年)以降に生まれた団員を迎える段階に既に新響は入っている。「アマチュア=音楽への愛」という一点に於いて、この組織に人は集まり、価値観を共有しているのだ。とすれば、氏が提唱したこの新響の本質と言うべき理念に基づき、特定の条件を付加する事なく、わが国の音楽作品を「純粋に」演奏対象として捉え、どれほど真摯に対峙出来るか?は、今後この組織の消長を量る重要な尺度のひとつになってゆくように思えてくる。

 「賢者は歴史から学び、愚者は体験から学ぶ」という。「邦人作品」の変遷を振返り、その「歴史」から我々が改めて学ぶべきは、個人の限られた体験から離れ、取巻く環境の変化の渦中にあっても常に本質を忘れず、あるべき本来の姿を考え続ける事の大切さである。
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