音楽の帰るとき - 東北・関東大震災に寄せて -
齊藤 桃(ファゴット)
3月11日、東北・関東で大地震が発生しました。広範囲での甚大な被害、原発や電力のこと、この原稿を書いているのは3月末ですが、まさに様相は「未曾有の国難」と形容せざるを得ないものになってきてしまいました。今回の地震で、音楽を生業とする人や音楽愛好家の多くが、音楽と人間との関係について改めて色々考えざるを得なかったのではないでしょうか。維持会ニュース編集人の松下さん(フルートパート首席)から原稿執筆依頼を受けた時には、入団してようやく1年というぺろぺろの新人として「新鮮な角度から新響を切り取った報告を書くように」とのお達しだったのですが、その後起こってしまったこの地震の存在を完全に無視することはやはり出来そうにありません。すでに多くの声明や意見が出されており、マスコミの怒涛の報道も相まっていささか世間全体が悲しみ疲れ、考え疲れた感もありますが、ご容赦ください。
今回の第213回演奏会での指揮者を務める飯守泰次郎先生は、ご自身のブログの中で今回の地震の話題に触れ、このように書かれています。
同じく指揮者で、新響とも度々共演している山下一史先生の文章も、3月22日の日本経済新聞文化欄に「音楽の出番を待つ」という題で掲載されました。山下先生はその時仙台フィルとのリハーサルの直前で、ステージ裏で地震に遭遇。雪の中なんとかホテルへ戻り、その後多くの人の助けを得てようやく東京に帰りつくまでの顛末が記事の中で詳細に報告されています。さらに仙台フィルの演奏会は6月まで中止になったことに続けて、山下先生は以下のようにつづられています。
お二人の記述からは、音楽が心を勇気づけるものとして、必ず人間から求められる存在であることに疑いを抱いていない一方で、音楽の必要性に対して「衣食住足りての」という認識も強く持っておられることが読み取れます。
音楽は常にこの2つの面を持つものであるという考え方は、恐らく多くの方が理解し賛同されるものと思います。山下先生の記事が載った翌日の日本経済新聞には、フランスの劇作家パニョルの記述として、人が笑うためには「永遠に生きていけるという保証が与えられねばならない」というものが紹介されていましたが、結局のところ、音楽を含む芸術や笑いなどには皆おなじことが言えます。マズローの欲求階層説やホイジンガのホモ・ルーデンス(遊戯人)を引けば、芸術や遊び、音楽を求める心は、「動物」としての生理的・安全にかかわる欲求がすべて満たされた上で初めて発生するものであって、それは最も「人間」的ともいえますが、良くも悪くもかなり限定された高度な欲求だということです。
とはいえ今回の震災のような状況でも発生しない限り、ことに我々音楽愛好家にとってそれを改めて意識するのは意外と難しいものです。どんなに善意に溢れて素晴らしい音楽を奏でたとしても、聴く側にそれを受け取る心身の余地が無いうちは、その音楽は必要とされるものではなく、演奏者側の自己満足になってしまう。地震に際して実に多くのチャリティーコンサートや音楽家の活動が行われていますが、中には「不謹慎」「いま本当に必要な物は何かを考えろ」といった批判をされてしまうものもあるのは、そんな音楽の一面によるものでしょう。もとより数年来の不況で、音楽が「生活か文化か!」といった極端な二元論でぶったぎられがちな社会情勢もあります(維持会の皆様という存在がある新響は本当に恵まれております)。しかしながら今回の震災でわたしが音楽に対して最も強く感じたのは、こうした社会的な音楽の立場や役回りよりさらに本質的・内面的なものです。すなわち、わたしという人間の心から音楽が離れる瞬間があったのか、という衝撃です。
この「有事」における音楽への批判の声を聞いて、音楽家や音楽愛好家は、音楽が否定され不必要とされる場合があるのだったと思い出さざるを得なかった。それで無力感を覚え、ショックを受けた面もあるでしょう。当事者だった場合はより深刻で、いつものように音楽が自分にしみ込まないので音楽に見放された気持ちになったり、もしくは自分がこんな状況なのに音楽なんて、と行き場のない怒りの矛先を音楽に向けてしまうこともあるかもしれない。ただそんな諸々の理屈や類推以上に、わたしは自分自身と音楽との関係が地震後の一定期間、大きく変化したことが大変な驚きでした。体も持ち物もたいした被害を受けず、知人もみな無事で済んだにも関わらず、わたしは震災から半月近くの間まったく楽器を吹かず、音楽を聴くこともありませんでした。常ならぬことの連続で精神がすり減り、音楽に対して細やかに寄り添うだけの余地がなかったのだと思います。できたことはまさに、おろおろ歩き、涙を流すことくらいのもの。正直に告白すると、地震当日の3月11日こそ「明日の新響の合奏は中止かな…いや這ってでも練習来いとか言いかねない団だし…」と実はそればかり考えていましたが、その後は音楽というものの存在自体を思い起こさない期間があり、そのことに後から気付いて愕然とする、という具合でした。逆にいえばそうした経験を経て、今回初めてわたしは「音楽の出番じゃない時がある」という事実をしんから理解した気もします。
それでも、音楽には必ず人間に必要とされる、という一面があることもやはり確かです。再び飯守先生の話題に戻りますが、先生は地震直後の3月13日に関西フィルとの特別演奏会を行っています。演奏会当日のプレトークで、以下のようなお話をされたとのこと(先生のブログより転載・抜粋)
山下先生の記事で登場した仙台フィルも、はやくも3月26日に復興コンサートを行い各ニュースに取り上げられました。ホールは使用できないので会場は市内の寺を間借りし、お客さんも100人ちょっとだったとのことですが、仙台にはすでに、おそらく山下先生の予想をも超える早さで、「音楽の出番」が訪れたのだということが判ります。
新響もちょうど同じ3月26日、地震後実に2週間ぶりで練習が再開されました(2週続けて練習が休みになるというのは新響ではまず無いことだそうです)。月並みな表現ですが、皆と「ご無事でしたか」と言い合える、一緒に合奏できるということに非常な幸せを感じました。自分のもとへ音楽が帰ってきてくれたことを知ったのもこの日です。こちらは逆に独りよがりな表現になってしまいますが、ドボルザーク7番を吹きながら、自分の身がフォルテシモの猛烈なtuttiの渦の中へ抵抗なく飲まれていく感触がした、その瞬間に確信した次第です。
卑近な例で恐縮ですが、わたしの妹は音楽の大学で歌をうたっており、文句の多い彼女の口癖は「歌なんてさ、腹がふくれるでなし、究極に非生産的でいったい何であたし歌うんだろうって思うわけよ」。とはいえその次に来るせりふは常に 「でもあたしには歌が必要だし、他に必要な人もいると思うからね」というものです。
我々はおおむねこの思考の流れでこの結論に行きつくが故に、音楽を愛し続けているのではないかと思います。地震によって音楽がひととき自分を離れ、また戻ってきたいま、この結論は自分の中でより揺るぎないものになっています。今回の演奏会で、聴いてくださる皆様との間に、音楽への新たな感慨を共有できれば大変嬉しいことです。そして被災地をはじめとする各所で、いまだ地震によって離れたままの音楽が、遠からぬうちにもとの人の心へ無事帰ることを願ってやみません。