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西暦2001年の新交響楽団 =マーラーの第5交響曲を巡るある回想=

松下 俊行(フルート)

 10年ぶりにマーラーの第5交響曲を取上げるに当たり、前回演奏した当時の新響を振返ってみたいと思う。


■選曲の「10年ルール」
 演奏会が活動に於ける大きな節目である限り、どこのオーケストラでも「何をやるか?」は運営の要諦のひとつであると言って過言ではない。これを巡って団体内の意見が四分五裂して、ひとたびこじれればそれは組織の存立そのものさえ揺るがしかねない問題に発展しがちである。各奏者は自分ひとりでは解消しきれない、音楽に対する様々な欲求や見識を抱えて、オーケストラの門を敲く。そしてその一員となれば、当然そうした欲求の充足の具体的な方策を、日常の活動に従いつつ模索する事になるのである。「何故そんな事を・・・」と思われるかもしれないが、そもそもこうした欲求無しに、演奏をするという事はあり得ないのだ。

 新響ではそうした不毛且つ根源的な問題を解消するひとつの方策として10年間は同じ曲を定期演奏会にかけないという所謂「10年ルール」を設け、依頼した指揮者との選曲交渉の場でも、厳格に適用されるルールとして定着している(何度も新響と共演した経験のある方々には、周知戴いているほど)。
 例えば前回の定期で取上げたチャイコフスキーの交響曲第5番は30年間で3回しか公式の演奏会にかかっていない。この有名な交響曲をこの頻度でしか演奏していないアマチュアオーケストラというのは、演奏会の回数にもよるだろうが極めて珍しいのではないか?と感じている。新響の場合演奏会は年4回。1回に必ず3曲は難しいから平均して2.5曲(実情はもう少し多いと思うが)として1年に10曲、それを10年で100曲・・・つまりチャイコフスキーのような知られた作品でも、全く知られていない「隠れた名曲」であっても同等に扱われ、他の99曲を演奏した上でないと再演はされていないという事である。こうして考えると改めてこの「10年ルール」が新響の演奏活動に対してもたらしている「曲目の多彩さ」ともいう影響の大きさを痛感せざるを得ない。そしてこれだけ厳密にこのルールを運用して、同じ曲の演奏頻度を極力避けるようにしてさえ、まだまだ演奏した事が一度も無い、数々の優れた作品があるという現実・・・「日暮れて道遠し」の感は常につきまとっている。
 但し、このルールは伊福部氏の作品、そして芥川氏の歿後は彼の作品に対してはやや緩やかな適用にはなっている。新響が特別なつながりのあるこれら2人の作品・・・例えば『タプカーラ交響曲』や『絃楽のための三章』など・・・を、ともすると頻繁に演奏しているイメージがあるのも無理からぬ事なのである。


■2001年の団内模様(ふたつの委員会)
 という訳で今回の定期でマーラーの第5交響曲を取上げるのは、そのルールに厳格な運用の結果にほかならない。前回が2001年4月の第173回定期だったのでまさに10年という時が経過するのを待ち「満を持して」この大作に取組むという事になるが、これだけの時間が経過する間には、新響という組織もずい分と変化しているものだと改めて痛感する・・・というよりも、ちょうどこの10年前が、新響の大きなターンニングポイントだったと個人的には考えざるを得ない。
 当時と比較してこの団体の活動を司る諸々の運営体系を実際に運用し、団体の運営を進めてゆく個々の人々の考え方がこの2001年という年を契機として大きく変転したという事である。

 新響には活動を推進してゆく為の組織として「運営委員会」「演奏委員会」というふたつの委員会があり、それぞれの役割分担を果たす事でこれが両輪となり、活動方針や具体的な方策が、両者によって構成される「合同委員会」によって決定されてゆく(重要事項については総会による承認によって決定)。かつて芥川氏が存命の時代は、「音楽監督」の役職があり、演奏委員会(当時は「技術委員会」名称)のメンバー選出に当たっての人事権を持っていたが、氏の歿後は常に空席であり、その空席を補うべくこうした機構が徐々に整備されて来ていた。簡単に言えば合同委員会の決定権限が強化されたという事である。また演奏委員会は演奏会に於ける団員個々の人事権に限って、握るに至っている。これが芥川氏歿後10年を経るうちに、音楽監督の空席を前提として、新響が行なった組織改革の中身である。この事は後に説明する事に深く絡んでくるのでご記憶されたい。
 この両委員会の構成メンバーの選出方法は全く異なっている。
 演奏委員会を構成するのは各パートの首席奏者に限定される。高度な演奏技量が選出の尺度となる各首席奏者は1年毎に見直され、全団員による投票から始まる一連の厳重な手続きを経て最終的に総会の信任で決まる。委員長はこのメンバーの中から演奏委員会でまず人選される事から始まり、合同委員会の推薦⇒総会の信任の手続きで最終的に決まる。この手続きはかなり煩雑であり、投票から総会まで2ヵ月近い時間もかかり、制度を管理・運営するための膨大な人の手間もかかる。が、個々の団員にとって演奏会のローテーションを管理するという謂わば音楽監督の「人事権」を代行する人々を選ぶからには、各人の「納得」を得る上でもこうした制度を長い時間をかけても、敢えて創始してきた歴史がある。このプロセスを経て首席奏者になる人の数は、当然ながら限られている。
 これに対し運営委員会のメンバーの人選は、まず運営委員長を全団員の投票によって選出する事から始まる。選挙期間が設定され告示⇒政見発表⇒投票・・・という流れで委員長が決まり、そこから委員長の意向によって各運営マネージャーが「組閣」されてゆく(総会で信任)。
 これと並行してこのオーケストラの運営に積極的に関わっていこうとする者や委員長の指名によって「運営委員」が決まる。この運営委員には特別に信任手続きを必要としない。すなわち運営委員会のメンバーは自分の「意思」さえあれば、よほどの欠格条件が無い限り、確実に委員会入りして、その運営に対して深く関わっていく事が可能なのである。
 こうした両委員会の成立ちの違いは、それぞれが果たすべき「機能」の違いに由来するものであるが、その違いが両委員会の性格の差異も決定づけていた。それは例えば構成メンバーの「流動性」に起因するものであったかも知れない。
 演奏委員会のメンバーすなわち各首席奏者の顔ぶれは、若い人材を入れるべく毎年改選を行ってもそうそう変わるものではない(例えば筆者は現時点で、23年間フルートの首席奏者を務めている)。また自パートの人事に対する責任感は、他方で内向きの関心に傾きがちで、本来負っている運営の片翼への責任に対する無自覚さを生み、団全体の運営に対する無関心へ向かっていた事は、当時の状況を振り返ってみるとその一員として、やはり認めざるを得ない。
 それは具体的には「合同委員会」への不参加という形ではっきり表れていた。これは裏を返せば合同委員会の「運営委員会化」という事を意味する。この風潮は新響と深く関わった最後の「部外者」である石井眞木氏との関係が切れた1994年以降強くなったように思われる。


■事後承認とルール無視の風潮
 それ以降2001年当時に至るまで、この運営委員会の主流は、『日本の交響作品展’76』のサントリー音楽賞受賞によって新交響楽団を世に知らしめるにあたり多大な貢献をした人々とその賛同者たちだったと言ってよい。彼らは芥川氏の謦咳にも深く触れ、その歿後は生前の言動を伝えるとともに、その路線の「一部」に過ぎなかった「邦人作品」を更に深耕させていく事で、新響というオーケストラの独自性を確立してゆく方法であるという考えだった。そこでは「演奏会企画」が重視され、選曲するとはすなわち「企画を決めること」であり、その「企画」とは「どのようなテーマを持って、選曲の候補曲中に『邦人作品』を盛込むか?」を考える事に変貌しつつあった。そしてこうした「企画」重視は次第に選曲の「10年ルール」を浸蝕するにまで至ったのである。
 この人々の企画立案の能力と、その実現に向けての行動力には瞠目すべきものがあった。それあってこそ自他共に新響の一時代を築いたと認められていたと言える。例えば1999年10月の第167回定期では、当時ハバロフスクの極東交響楽団芸術監督だったヴィクトール・ティーツ氏を招いているが、この実現のために彼らは文字通り東奔西走しており、それを団員も周知していた。或いは「邦人作品」企画に対する注力もそうである。費やされる時間も労力も到底他の団員の及ぶところではないレヴェルのものであったと断言できる。
 こうした状況が何をもたらしたかと言えば「運営(企画)の専業化」に他ならない。彼らは自負と自信を以って、新響の方向性を決め、推し進める。一方で他の団員は、彼らの行動力を目の当たりにして、「彼らに任せておかざるを得ない⇒任せておけば良い」という依存的な体質に変容した。
 これが更に進み、「行動を起こした者の考えには従うべきである」という風潮が蔓延し始め、団内でも公言されるに至る。「何故ならその行動は、純粋な情熱によるものだからだ(その情熱こそが、新響をアマチュアたらしめる根本である)」が理由として付け加えられた。そしてこれがさらに進行すると、こうして予め組立てられた「企画」に対し、合同委員会で異議をさしはさむ事が事実上出来なくなっていったのである。つまり莫大な予算が動くかも知れない非常に重要な案件であったとしても、誰かがその行動力によって独断専行してしまった事は、合同委員会でも「追認」するだけになってしまった。追認と言っても前述の通り、演奏委員会のメンバーは殆ど欠席で、一方の運営委員会の主流は彼らだった訳だから、こうなると殆どこのメンバーによる「壟断」と言って過言でない状態に陥っていたという事である。
 これは新響の規約が緩やかな規定にとどまり、団員個々の「良識」によって運用されるように作られている事に一因があったと考える。そのような性格の規約でなければアマチュアオーケストラは早晩立ち行かなくなるからである。だが、反面その条文の行間や間隙を突けば無限の拡大解釈も可能である事を意味する。この時点で規約はそうした危機を迎えていた。

 この体制は1996年7月に行なわれた2夜連続の演奏会(第152・153回定期)『日本の交響作品展’96』によって確立したと言えるかもしれない。彼らの主導によって新響創立40周年企画として行なわれたこの演奏会の掉尾を飾る作品として、諸井三郎の「交響曲第3番」が演奏されたが、その僅か3年半後の2000年1月(第168回定期)にも再演されるに至る。選曲に於ける「10年ルール」はあっけなく、いとも簡単に破られたのである。この選曲については遅くとも1999年前半には結論が出ていた筈であるが、新響内での評価も共有されていないこの作品の演奏に関して、空前絶後とも言えるルール逸脱がどのような過程を経て行なわれたのか?については、今もよく判らない。つまり極めて密室性の強い、横紙破り的な決定がなされたとの懸念を禁じ得ないのである。「壟断」の典型的な一例に敢えて挙げたい。

 実を言えば2001年のマーラーも「10年ルール」を逸脱している。前回の演奏は1992年7月(第136回定期:指揮は小泉和裕氏)だが、この2001年は、新響と「マーラーシリーズ」を完結させた指揮者 山田一雄氏の歿後10年目に当たっていた。そして同時にこの指揮者の「埋もれた」作品である『おほむたから』の再演が試みられた。つまり『山田一雄歿後10年』という企画のもとに、選曲のルールは譲歩を余儀なくされる結果となった訳だが、この程度は仕方ないと受け止められていた。何と言ってもこの指揮者は新響にとって大恩ある人だった。そして『おほむたから』・・・これは本来『おほみたから(「おおみたから」とよむ)』と題されたものであるが・・・は、昭和20年(1945年)の年頭に演奏されたまま、50年ぶりの蘇演という事もあり、遺族より自筆スコアを借り受けてそこから改めてスコアとパート譜を起こすという「新響らしい」手作り作業(但し、流石に作業はPC入力に置き換わっており、全員が手書きで譜面を起こすという「美談」は過去のものとなっていた)も伴った。
 だがこのマーラーの交響曲第5番が、10年を待たずして再演が決定された経緯についても、やはり不透明さは拭えないのである。


■技術的衰退
 こうした状況の中、新響全体の技術レヴェルは明らかに後退していたと断言できる。演奏委員会の団内に於ける影響力は相対的に低下し、技術向上のための積極的な選曲案を呈示する代わりに、降りてきた演奏会企画(すなわち選曲)に沿ってその実行に当たっての技術的具体案を練るだけの存在になっていたためである。また企画によって俎上に上る頻度が格段に増えた「邦人作品」は、団員の演奏意慾を確実に下げていた。
 そもそも新響創立40周年企画の一環として、この『日本の交響作品展’96』が決定するまでの経緯に於いても、「邦人作品」に対する新響内の位置づけを含め、議論が絶えなかった。それは新響の根強い成功体験となった1976年の同企画立案に際して芥川氏が提唱した新響にとっての「邦人作品」の定義である、
① 旋律が明確である。
② 調性がある。
③ 戦前・戦中時代の作品である

が、その後20年近い時間を経過する中で、その位置づけに変化を来たしているのではないか?との疑問に根ざしていた。日本の音楽界の実情も社会情勢も激変し、日本人の音楽作品の質も内容もおのずから変わって行く中で「 」付きの「邦人作品」にのみこだわる意味を見出しかねていたといえる。すなわち大半の団員は「邦人作品」への対応に倦み始めていたのである。これは今思い返しても危険極まりない兆候だった。新響に加わろうとする演奏者の殆どは、このオーケストラの技術的な力に自分を寄与させたいと考える。これは今も変わっていない。決して「邦人作品」を否定するものではないが、それが個々人の入団の「目的」とはなり難い。という訳で、企画を推進した彼らの真意は違うところにあったのかもしれないが、結果として個々の団員にとって・・・特に演奏委員会のメンバーにとって・・・「技術的向上の否定」と捉えられる結果を生んだ事は否定出来ない。事実2000年10月の演奏会(第171回定期)に於いて明らかな破綻となって顕れる。

 筆者はこの直後に演奏委員長となった。2001年の年明け以降、演奏委員会の活性化に努めるべく腐心する。同時にこれまで傍観気味に過ごしていた、合同委員会での劣勢だった意見に、委員会としてバックアップした。それは「選曲に対する団員としての(そして新響の技術的向上を実現する見地から演奏委員会としての)意見を一層強く提示すること」にほかならなかった。これから半年ほどの間は、合同委員会は選曲を巡る論争の場となった。両者の主張や議論の推移について、それ以前もそれ以後も見られぬほどの綿密な議事録が毎回作成され、団内への公表前には両者のチェックが必ず入った。この一事を見ても、委員会の雰囲気が量り知られようというものである。半年ほどは一進一退の状況が続いた。ギリギリまで決着がつかず、最後は運営・演奏両委員長間での妥協策が図られた事もある。こうした状況の中で4月のマーラーの第5交響曲は演奏されていた。


■政策論争と転機
2001年8月初旬の合同委員会で、運営委員会サイド(つまり彼ら)から突然新響の体制改革案が提示された。この日筆者は委員会を欠席する事になっており、それを見計らった電撃策だった(と今でも思っている。それまでは必ず委員長間で事前に委員会に諮る内容について連絡を取り合っていたからだ)。それは、
①音楽監督を復活する(具体的な指揮者名あり)。
②音楽監督に対応する組織として、両委員会は統合する。

 という事を主意としていた。その会合の出席者から晴天の霹靂というべき情報を受けて仰天すると同時に、その意味するところを考えた。

 ①については具体的候補者はあるものの、打診がどの程度進んでいるのかは明らかでない。実現の可能性も判らなかった。つまり将来的な①を実現する為に、すぐにでも②の体制改革をして行こうとするプラン・・・すなわち両委員会を統合する事に主眼があり、それは取りも直さず演奏委員会を無力化する意図と読めた(今でもそうだったと信じている)。またこれを実現するためには流石に「運用」で凌ぐ訳にもいかず、大幅な「規約改正」が必要とされた。
 これが公表されると、これまで「邦人作品」路線を疑問視し、両委員会の確執を感じとっていた団員間にも考えを鮮明に表明する風潮が醸成されていった。そうした団員と筆者を含む演奏委員会のメンバーとの会合も頻繁に行われるようになる。事は選曲に端を発したこのオーケストラの「今後」の体制にまで深くかかわるものである。こうした時には様々な思惑から議論が交わされる。だがそこで最も主流になったものは、新響の「演奏主体・技術の向上」に対する危機感を抱く人々であったと言って良い。そして遂にはその流れの中から次期運営委員長擁立へと移っていく、というよりそうしない限り新響の本来の持ち味である「技術力」の保持は、難しいとまで我々は思いつめていたのである。新響団員である限り誰しも、「邦人作品」と向き合う事を否定しない。ただその偏重によって「技術力」が軽視される結果を招いている現状は望ましくない。技術力があればどのような企画も実現でき、且つ新たな人材も集まる。故に将来に向って団員のモチヴェーションを高揚させるべく、選曲の枠も更に拡大すべきである。という考え方である。

 この年11月末の運営委員長選挙は、両派からそれぞれの候補者が擁立され、「政策論争」が起こった。これは例年予定調和的に信任投票で収束する委員長選挙とは全く趣を異にするもので、それ以前に例はなく、その後の10年間にも無い出来事だった。それぞれが政見を述べ、団員からの質問も相次いだ。開票結果も緊迫感の中で公表され、まさに「僅差」で我々の候補者が勝った。その後の新響の方向が明確になった瞬間だったと言える。「新政権」が運営の布陣をすると並行して「選曲ワーキンググループ」を立ち上げられたのはこれまでの流れを一望すれば当然だった。そして翌2002年、彼らは新響を去り、オーケストラ・ニッポニカを設立するに至る。選挙の際は僅差だったが、結局大多数の者が新響に残った。これが「邦人作品」に対する団員の考え方の表れと考えるべきであろう。

 とはいえ、この後しばらくの間は、新響の「企画力」が衰えるのではないか?との懸念が団内に絶えなかったのも事実である。「選曲イコール企画」という呪縛が如何に強かったかの証左だった。だがここ10年の間に、技術的な理由や「邦人作品」定義の範疇外を理由に、それ以前には取上げられなかったあらゆる日本人作曲家の作品…例えば黛敏郎・武満徹・三善晃・矢代秋雄・湯浅譲二・権代敦彦等・・・の演奏を通じ、それが杞憂であった事を知っている。技術力を向上させて新たな人材を確保しつつ、広いレパートリーを聴衆に呈示する事が、聴衆・奏者双方の利益に資するという確信を得て今日を迎えている。

 選曲の持つ重要性はこれまでに見たとおりだ。「ルール」に縛られる必要はないが、団員個々の演奏に対する向上心への希求を無視しては、この組織は成立たないとの認識は、この10年間で団内に深く浸透したと確言できよう。

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