「紀元2600年」祝典再考=イベール『祝典序曲』によせる雑感=
イベールの『祝典序曲』は日本の「紀元2600年」の祝典に寄せられた作品で、同時に贈られた他国の数曲と共に、二千六百年奉祝交響楽団によって昭和15年(1940年)に初演されている。
現代に生きる日本人は、ともするとこの時代に対して「暗黒」「統制」「支配」・・・ネガティヴなイメージ以外のものが抱けず、故にこの祝典の性格も同じようなものとして漠然と捉えるばかりで、今もって関連する一連の作品群と真摯に向合う気力に欠けているように思える。
『祝典序曲』を演奏する機会を得たいま、改めて作品に横溢する「自由な」精神から、祝典の性格や当時の日本社会の実態の見直しを試みる事は、決して無駄ではなかろう。それは我々の視点を改める事に通じるからである。
■干支の話
ベートーヴェンの没年である西暦1827年は、日本では文政10年に当たる。その盛夏の事である。『南総里見八犬伝』を執筆途上だった曲亭(瀧澤)馬琴はある日、最後まで残っていた1本の歯を失った。明和4年(1767年)生まれの彼はこの時61歳(数え年)。既に10年近く前から入れ歯の世話になっていたが、流石に全ての歯を失くした事は一大事だった。日記に彼は書く。
予(われ)、今茲(ここ)に六十一歳にして歯牙皆脱了。故(もと)に復(かえ)るの義か。自笑に堪(た)えたり。(『馬琴日記』文政十年六月三日の条)
ここにあるのは、生まれ変わるべき「還暦」の年に歯を全て失い、本当に生まれたての赤ん坊のようになってしまったわが身を哄笑する老人の姿である。以後、入れ歯との苦闘が前にも増して日記に頻繁に現れるようになる。
だが彼には数年後に始まる眼疾(白内障と言われる)によって、遂には失明に至る運命が待ち受けていた。28年に亘って書き継がれた『八犬伝』の晦渋極まりない文章のうち、その最後の5年分ほどについては、光に閉ざされた苛立ちと絶望に隣り合わせた記憶を頼りの口述によっていた。全ての歯を失ったこの日は、その長い苦難の初段階に過ぎなかったのだ。
改めて断るほどの事でもないのかもしれないが、還暦とは自分の生まれ年の干支に「還る」年の事を指す。
「干支」と書いて「えと」と読み(因みにこれは訓読み。音読みなら「カンシ」)、毎年末年始には新たな年の干支が話題にもなるが、この場合十干(じっかん)十二支(じゅうにし)=十の幹と十二の枝=のうち十二支のみが取り上げられることがほとんどである。本来は甲子(きのえね)や丙午(ひのえうま)の様に十干の部分(甲乙丙丁・・)との60通りの組合せで年(及び日)を表す。十干は万物を形成する元素とも言える五行(ぎょう)(木(き)火(ひ)土金(つちかね)水(みず))を兄(え)と弟(おと)に各々分化したものである。即ち「木の兄(きのえ)=甲」「木の弟(きのと)=乙」の様になる。これを順番に十二支(子丑寅卯・・)と並べる事によって出来る60通りの組合せを指して干支という。つまり干支を「えと」と読むのは十干を構成する「兄弟」の古訓に由来するという事になる。
馬琴に話を戻せば、生年の明和4年は「丁(ひのと)亥(い)」の年だった。61年目に当たる件の文政10年に再びこの干支が巡って来て、飛んだ「再生」の年となった。
干支の発祥は勿論古代中国だが歴史は古く、殷虚から出土される甲骨文に既に現れていると言われるがこれは当然というべきで、司馬遷が『史記』を著すに当たって歩猟したであろう、今は失われた様々な文献には、悉くこの干支が明示されていたからこそ、彼は最古の王朝(夏王朝)に出現した歴代の王に関わる詳細な年代までを特定出来ている。『史記』の完成によって、中国に於ける国家としての歴史とその記述のスタイルは確立したと言って良い。そして歴史を記述するという行為とその編纂のスタイルは、干支による年代の表示と共に文明をもつ社会の証として、周辺の地域にも伝播していく。
詳しい説明は省かざるを得ないが、時代を経るうちに、干支に対して「辛酉為革命、甲子為革令」・・・即ち辛酉(かのととり)の年に王朝が変わり、甲子の年には法律が変わるとの考えが現れるようになる。また、この辛酉から次の辛酉までの60年間を1元とし、21元=1260年(これを1蔀(ぼう)とよぶ)毎に世界的な大変革が起きるという思想=讖緯(しんい)説にも発展した。それは遅くとも6世紀には日本にも伝来していた。こうして特に辛酉と甲子の2つの干支は重要視されるに至り、日本では7世紀以降この2つの干支の年には必ず改元(年号を改める)が行なわれている。
甲子は60通りの干支の筆頭だが、辛酉は58番目。するとこの年に改元された元号は僅か4年で甲子の年を迎えて再び改元される事になる。こうした慣習は西暦661年(斉明天皇7年・辛酉)から1864年(元治元年・甲子)まで1200年に亘って連綿と続いていた。それほどにこの思想が浸透していたという証左というべきだろう。
■神武天皇即位の年代確定
『史記』の完成から800年近くを経て、日本もようやく国家としての体裁を整えるべく、歴史の記述に取組む事となった。『日本書紀』の編纂(7世紀後半~8世紀)がそれである。これは中国の史書に倣った日本初の修史事業というべきものであり、「歴史」ゆえの合理性がそこには当然求められることになった。この合理性とはとりも直さず膨大な伝承を、かの国の史書と共通する時間の座標軸にはめ込んでゆき、整理する作業をともなう。勿論それまでにも干支による記録は各氏族間に点在していたには違いが、全てを天皇家の国家統一に関する伝承を中心に据えた形での時間の再構築が必要となったのである。その原点が神武天皇の即位の年代決定であった。
この困難な作業に従事した人々は、西暦601年(推古天皇9年)が辛酉の年であった事に着目し、重視した。この年には聖徳太子によって斑鳩(いかるが)に都が移されている。因みに12年(甲子)には十七条憲法が定められる。これも上記の「甲子為革令」の確証となったであろう。仏教伝来直後の当時は革新の時代でもあった。
この推古天皇9年を起点として上記の1蔀=1260年を遡った辛酉の年を神武天皇の即位の年と定めたと考えられている。これによって神武紀元の元年が西暦紀元前660年となる訳である。但し、この1260年間に即位した天皇の数は既知のものとなっており、増やす事も出来ないから一代当たりの在位期間が引き伸ばされ、それに伴って恐ろしく長寿の天皇を数多く産み出す結果となった(例えば神武の崩御は127歳。これを初めとして以後崩年がいずれも100歳を超える天皇が続く)。が、その様な不自然さはむしろ初期の天皇を超人化させる一助にさえなった。
現代の我々には荒唐無稽と見えるこうした事象や、考古学的には裏づけのしようのない年代の確定は、讖緯思想に基づいた彼らなりの必然性のある作業の結果だったのである。
■紀元2600年の日本
さて、昭和15年がその神武天皇即位から2600年目に当たる事に着目した日本政府は、この記念事業企画を昭和10年から行なっていた。紀元2600年という区切りそのものには積極的な意味はないし、この年は甲子でも辛酉とも関係はない。だがこの区切りの良い年に、海外に「神国日本」肇国の悠遠をアピールし、国内にあっては他国に勝る歴史ある日本文化の優越を知らしめて国威と民心の発揚を図る必要が、為政者の側にあった。
そして同年11月10日には内閣主催の奉祝会開催を中心として、各地で様々な行事・・・勤労奉仕や観艦式・記念碑の建造などを含む・・・が行われる。万国博覧会の開催やオリンピック(夏季のみならず冬季のそれも)誘致も計画された。
その一環として海外にも奉祝の為の楽曲を委嘱しようとの計画が立案される。「恩賜財団紀元二千六百年奉祝会」と「内閣二千六百年記念祝典事務局」とがこの計画を実際に推進してゆき、次の5曲が日本政府に対して贈られる結果となった。このうち今我々に余りなじみの無いピエッティはイタリア、ヴェレシュはハンガリーの作曲家である。
・イベール:『祝典序曲』
・ピエッティ:『交響曲イ長調』
・R.シュトラウス:『日本建国2600年祝典曲』
・ヴェレシュ:『交響曲』
・ブリテン:『シンフォニア・ダ・レクイエム』
その他3人の「著名な」人々のうち、R.シュトラウスはまだしも、イギリスやフランスのような国々からも作品が寄せられている事と、この祝典の背景となる「戦時の日本」のイメージが容易に重ならないかも知れない。
だが実際にイベールの『祝典序曲』は1940年6月に日本に到着しており、同年12月に歌舞伎座に於いて山田耕筰の指揮により初演されている(ブリテン以外の作品も、指揮者こそそれぞれ異なるが同日に演奏)。その山田耕筰もこの時、歌劇『黒船(夜明け)』を奉祝曲として書いている。同じ目的で創作された中で有名なのは信時潔の交声曲『海道東征』だろうか。菅原明朗は『紀元二六○○年の譜 交声曲-時宗-』を残す。その他歌謡や舞踏の為の作品を含め、数多の楽曲がこの年の為に作られているのである。
『祝典序曲』を耳にする人は、そうした日本国内の様々な思惑や意図とは無縁の、「自由」な感情の発露を感じ取る筈だ。大規模なオーケストレーションと華やかな響き、そしてジャズのフレーズまで登場する音楽的なスケールの大きさ・・・このような音楽が、昭和15年の日本で響いたという事実には、ある種の意外感や違和感が伴う。少なくとも個人的にはそうだった。
そして海外から寄せられたこれらの曲と比較すると、日本人の手になる様々な作品(それは決して音楽に限らない)に対し、いささか狭量な印象が拭えないのは残念というほかはないが、我々が現在抱いている「軍国主義」や「暗黒時代」のイメージにはきっちりはまるように思える。となればその象徴とも謂うべきものが「紀元2600年」祝典であり、これを契機にこの国は更なる暗黒に突き進んでゆく・・・これが戦後日本の一貫した歴史観のように思える。
確かに当時の日本という国家が陥りつつあった国際的な孤立とそれに伴う独善は進行していたし、また祝典と同時期には天皇制の真の「歴史」に関する書籍の発禁措置もとられている。
■祝典の本質
だが最も肝腎な事は、この紀元2600年=昭和15年の時点の日本は、大多数の日本人にとっていまだ「暗黒」の時代ではなかったという点だ。
近年(2010年)に出版された『紀元二千六百年=消費と観光のナショナリズム=』(ケネス・ルオフ著/木村剛久訳 朝日選書872)は、ともすれば「戦後史観」によって、紀元2600年祝典を含めたこの時代に対して現代の日本人が犯しがちな断定や評価に関し、意外とも思える事実をいくつも挙げて反証している。
著者(1966年生まれ)はポートランド州立大学教授で英語圏に於ける天皇制研究の第一人者の評価があるアメリカ人。彼はこの祝典が、民間のあらゆる企業のビジネスチャンスを引出し、特に出版や百貨店や観光(この年だけで1800万人もの人が訪れた国内の皇室ゆかりの地や神社ばかりではなく、当時の日本の植民地へのツアーまで企画され、万単位の民間人が海外各地に出たという)などの興隆を引き出した事実を、史料の裏付けを以って記述する。その上で言う。
率直にいって、多くの日本人がアジア・太平洋戦争中もいつも通り暮らしていたという見方、あるいはナチ政権が非道な犯罪に手を染めていた時もドイツ人が国内旅行を楽しんでいたという見方は、日本人やドイツ人がこの暗い時期にずっと苦しんでいたというとらえ方に比べて、不愉快かもしれないし、そんな事があってもいいのかと思えるかもしれない。同じように、アジア・太平洋戦争が消費主義を抑えるのではなく、それを加速し、消費主義がナショナリズム感情をあおり、ナショナリズム感情が日本人にいっそうの消費を促すといったフィードバック関係が生じていたという事実も、当惑をもたらすかもしれない。だからといって、「戦時の暗い谷間」において、日本では消費主義は押さえつけられ、人々は観光旅行を計画するどころではなく、ぎりぎりの生活を強いられていたという神話を受け入れれば、それで満足できるというものではないのである。
勿論これはひとつの見方であって、拘泥する必要はない。だがその主張は傾聴には値しよう。
この論の前提は、日本人の圧倒的大多数が、「戦中」というと、戦局が本当に悪化した昭和17年(1942年)後半以降の、真に暗黒だった時代のイメージを全体に敷衍させてしまい、消費活動も普通に行えて自由だった、直前までの時代をも暗闇に覆ったままでおり、その視点からのみ紀元2600年式典も捉えている、という事にある。
戦後生まれの外国人に改めて指摘されてみれば確かに思い当たるところが無いでもない。現代の日本人たる我々はこの祝典の実態を殆ど知らず、せいぜい初代の天皇即位を国家の成り立ちとしてそれを祝う事を利用した、為政者による恣意的な「今ある体制とその行為に対する無条件の肯定と賛美」の押しつけ・・・程度に捉えてそれで済ませている。つまりショスタコーヴィチがいう、スターリンによる「強制された歓喜」や21世紀のこんにちに至るも「泣き女」や「喜び組」が演出する独裁者の為の祭典と同一視しているという事である。それ故に祝典に寄せられた多くの音楽作品に対しても、創作者の意向も全く無視された体制側の強制の反映として拒絶するか、或いはショスタコーヴィチの作品のように、その背後にあるものを読み取ろうと試み、徒労を繰返しているかだ。そして祝典から5年後に訪れた帝国の滅亡も相俟って戦後は急速に忘れ去られ、音楽作品に関しては滅多に演奏される事もない事が拍車をかける。
白状すれば筆者も長くそうしたイメージにとらわれ、この祝典に向けられた前述のブリテンの作品や深井史郎の『創造』を新響が取り上げた15年ほど前の演奏会の際(第160回定期1998年1月)、このニュース上にそうした見解を前提とした原稿を書いた事があった(『祝祭と鎮魂と--紀元2600年を巡る二つの作品--』この文中の干支や紀元についての説明は、その際の原稿を一部流用している)。
だが、その祝典が民間の自主的な消費行動を刺激し、況してや海外を含めた旅行熱を現出させた、謂わば絶大な「経済効果」をもたらした一大イヴェントであったとなれば、その位置づけは大きく異なって来よう。そもそも自由な海外渡航(移住も!)を国民に認めている国が、独裁的な体制を維持できるだろうか?我々はこの時代の実態を知ろうとも努めず、考えようともしていない。
こうした当時の体制と社会の「明るさ」とを背景にすると、イベールの『祝典序曲』の持つ自由闊達さが初めてよく理解できるものとなるように思う。そして当時の日本人もまたこれを違和感なく受容できるほどに、個人も社会もまだまだ自由であった事を思うべきだろう。これは日本人の手による同時期の作品だけを耳にし、あの時代に対する固定化したイメージを払拭しない限り、まず読み取る事ができない性格のものである。
是非この作品を真摯に聴いてみて戴きたい。残念ながら前述の通り、実演は滅多に耳に出来ないのだから。
但し、この後の日本が辿った道を我々はさすがに熟知している。本当の暗黒があり、神国日本の滅亡があった。国家としての独善と孤立は滅亡を見るまで自ら止む事は無かったのである。そこには個々の人間の一生と同じく、国家なり社会なりの、人間が形成する限り逃れよう・逆らいようのない盛衰の周期があるように思えてくる。
明治維新から神国日本の崩壊に至るまでの時間は77年。更にその再生から今年2012年まで67年が経過している。馬琴は齢(満)60にして「歯無し」となった。いまこの年齢で全ての歯を失くす人は殆どいないだろう。人の寿命も延びている。だがその人の世の変転や、大は国家から小は数人の組織の消長・栄枯盛衰を見渡してみると、60年で一巡する干支と、その循環の中に再生を求める人間の思考と営みは、個人と集団とを問わず、実は変わっていないのではないかと思えてくる。今年で創立56年を迎えたわがオーケストラとて例外ではないと、自省すべきなのかも知れない。
「紀元2600年」は残念ながら再生とは逆に、帝国の「終わりの始まり」直前の、最後の光芒だったように思える。終末が本当に訪れるその瞬間まで、人はすがるべき何かを求めて、事さらに明るくあろうとするものなのか?・・・『祝典序曲』が現代の我々に訴えかけるものを改めて噛みしめたい。