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『ラプソディ・イン・ブルー』に臨んで

高梨 健太郎(クラリネット)


 維持会員の皆様、日頃ご支援賜りありがとうございます。クラリネットパートの高梨と申します。団員歴は2000年の7月演奏会のシーズンより所属し、途中1年程ブランクありの12年目です。新響としてはまだまだ若い方というのが恐ろしい。他のアマチュアオーケストラですと下手すれば長老です。
 そんな私、今回の演奏会で配られるプログラムの曲目解説も執筆しております。それを知ってなお、『維持会ニュース』担当者は私に「『維持会ニュース』にも何か書きなさい。さもないと(以下略)」と言ってきましたので、書かせていただきます。ちなみに、『維持会ニュース』担当者は、フルート首席の松下さんと言います。皆様が演奏会にいらっしゃる時に、維持会受付に必ずいる背の高い男性です。フルートよりも、同じような色をした別の鋭利な鉄製の何かを持っていそうな雰囲気のあの方です。月夜の晩ばかりではありません。頼まれたら書かないわけにはいかない理由、お分かりいただけますでしょうか(笑)
 クラリネット奏者にとって『ラプソディ・イン・ブルー』を吹けるのは、千載一遇のまたとない嬉しい機会だと言っても過言ではありません。
 まずは、とにもかくにも冒頭のおいしいソロ!しかも、この『ラプソディ・イン・ブルー』という曲のこのソロは、他の管弦楽曲のものと違い、ある程度の即興性が許容されております。つまり、譜面どおりに吹く必要が無いのです。これほど嬉しいことはありません。いつも譜面どおりに吹けずに指揮者に怒られているわけですから。逆に言うと、そこに奏者のセンスが問われるので、ある意味恐ろしい課題を与えられているのですが。
 さらに、有名な割に演奏する機会にめったに巡り合うことができません。それは、ドイツ、フランス、ロシア、イギリスで生まれた、いわゆる王道のクラシック作品ではないから、と考えられます。確かに、マーラーやブルックナーの交響曲のような長大な作品と比べ、気軽に聴くことができる内容です。演奏会で取り上げようとしても、他の曲とのバランスとか、そもそも内容がシンフォニック・オーケストラの演奏会に相応しくない等といった理由で候補に挙がらないのでしょう。
 以上のような理由で、この曲を吹くことができるのは、クラ吹きにとってまたとない、ありがたいことなのです。

 しかしながら、不肖私、この『ラプソディ・イン・ブルー』を最初に聴いた時の感想は、「なんだこの退屈な曲!」というものでございました。音楽史で説明されているような「ジャズとクラシックの融合」ではなく、「ジャズにもクラシックにもなりきれない」ように聴こえました。当時中学2,3年生だった私が聴いたのが、名盤の誉れ高いバーンスタイン/コロンビア交響楽団のCDです。バーンスタイン自身の弾き振りによる、非常に洗練された爽やかな演奏です。
 先日、「初演時のラプソディ・イン・ブルーの再現演奏」を聴きました。そこにあったのは、たたみかけるような強奏、暑苦しいまでの甘いメロディーでした。特に冒頭のクラリネットのソロは、ある程度譜面通りではあるもののチンドン屋をもっと崩したような演奏で、度肝を抜かれました。バーンスタインの演奏を都会の整然としたオフィス、初演時のそれは田舎の寄り合いの宴会だと言えば、雰囲気はお分かりでしょうか。とにかく人間臭い、ともすれば下品スレスレの音楽でした。

 我々が現在聴くこの曲の演奏は、後年『グランド・キャニオン』を作曲するファーデ・グローフェがガーシュウィンの死後、シンフォニック・オーケストラ用に編曲したものです。新響が今回の演奏会で演奏するのはこの版です。しかし、ガーシュウィンが初演当時書いたのは、ジャズ・オーケストラのためのもので、編成に歴然とした違いがあるのです。グローフェの編曲の腕は大したもので、原曲の粗野で猥雑な雰囲気は綺麗に覆い隠され、後に「シンフォニック・ジャズ」と言われるに相応しいクラシックコンサートピースになっています。
 『ラプソディ・イン・ブルー~ガーシュインとジャズ精神の行方~』という本で、長年アメリカ文化を研究していた末延芳春さんという方が、ガーシュウィンはこの曲で、自分の身の回りにあった黒人音楽、ユダヤ系である自分のルーツのユダヤ音楽を盛り込んでいた、と書いています。そうすることで、彼自身の考える「アメリカ」のアイデンティティーを表現したかったに違いない、と考えるのは行き過ぎでしょうか。
 黒人音楽、ユダヤ音楽と書きましたが、具体的には、黒人音楽とは「ラグタイム」「ブルース」、ユダヤ音楽とは「クレツマー」のことを指します。このうち、クレツマーは馴染みが無いと思います。私も知りませんでしたが聴いてみてびっくりしました。基本的な編成にクラリネットが入っていて音楽リードするのですが、これがモーツァルトやブラームス等をして数々の傑作を生みださせたあのクラリネットなのか!と思うくらい個性的、いやもっと言ってしまえば滅茶苦茶な奏法なのです。例えて言うなら、弦楽器や打楽器の伴奏の前で家畜が終始いなないている、そんな感じです。
 初演の再現演奏、クレツマーと考え合わせると、もうこれは真面目に吹いている場合じゃないぞと思うようになりました。飲んで酔っ払ったオッサンがご機嫌に一節唸る、そんな感じが合うのではないかと。
 初演時、練習の合間に楽団のクラリネット奏者が、下から上へ駆け上がる音階をしゃっくり上げるようにつなげて(グリッサンドと言います)吹いてふざけていたところ、それを聴いたガーシュウィンが気に入って採用になり、この曲のクラリネットの譜面にはグリッサンドと書かれるようになったというエピソードがあります。ジャズの即興演奏にも通じますが、要するに「面白ければ、何でもあり」という精神ですね。
 バーンスタインの演奏に退屈してしまった自分は、つまるところこういった面白い要素の臭いをかぎ取りながら、それでも突っ込んだ表現をせず、常識的な演奏にまとめたそのスタイルに違和感を覚えたのだと思います。そして、ある意味非常識な演奏に触れ、そう!こっちだよこっち!という芽が開花してしまったようです。

 今回の演奏会では、私はそんな姿勢でこの曲に取り組もうと思っております。「ジャズとクラシックの融合」といった仰々しい肩書は脇に置き、ふざけたソロでこの曲を開始してみて、皆さんのご機嫌を伺おうと思います。クラシック作品の鑑賞ではなく、お笑い芸人のネタ見せが始まった、そんな感じでお聴きいただければ幸いです。それがお気に召さない方は、最初の1分程度我慢していただければ、独奏ピアノとして今回お迎えした小原孝さんの素晴らしい演奏をご堪能いただけますのでご安心を。
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