新交響楽団在団44年の思い出-4
編集人より
コンサートマスターを長年に亘って務められた都河和彦氏による回想録を、前々号より、掲載しております。以下に新響創立30周年からの10年間のうち、1989年1月の芥川氏死去後の部分をご紹介致します。
◆創立30周年(1986年)からの10年間-2
(1990年=芥川先生歿の翌年)4月には高関健先生が初登場、ショタコーヴィッチの交響曲第1番とブラームスの交響曲第1番を降ってくださり、コンミスは高関先生と桐朋音大時代の顔なじみで後にプロのヴィオリストに転向した長谷川弥生さん(音楽評論家長谷川武久さんのお嬢さんで、チェリスト長谷川陽子さんのお姉様)が務めました。ブラームスの最初のリハーサルで、第4楽章中盤のpoco fの指示がある弦のユニゾンの個所で高関先生が「弦の皆さん、ここは力一杯思い切り弾いて下さい。でないと一生後悔しますよ」とおっしゃったのを今でも覚えています。高関先生とは現在まで20年を超えるお付き合いになり、色々お話しましたが「桐朋時代、堀米ゆず子さんとカルテットを組んでいた」とか、「ベルリン・フィルでヴィオラのエキストラで弾いていたら、借り物の弓を折ってしまった」等のエピソードが印象的でした。
10月は原田先生が教え子の漆原朝子さんを招いてシベリウスのヴァイオリン協奏曲を振って下さいました。漆原さんはその年、私が勤務していた会社の「モービル音楽賞」を受賞、授賞式では原田先生共々彼女を祝福しました。2011年10月、小淵沢での『リゾナーレ音楽祭』で彼女と久しぶりに再会、この21年前の思い出話をすることができました。
‘91年1月には伊福部門下で芥川先生の弟弟子の作曲家石井眞木氏が新響の指揮台に初登場して松村禎三、自作、伊福部作品を指揮して下さいました。石井先生にはそのあと数回振っていただき、’93年には新響をベルリンへの演奏旅行に連れて行って下さいました。このコンサート以前の新響の演奏会場は東京文化会館、サントリー・ホール、新宿文化センター等でしたが、このコンサートで初めて前年10月にオープンした池袋の東京芸術劇場を使い、以降この会場を最優先で使うことになります。
新響には団内結婚のカップルが大勢いらっしゃいますが、この頃私共夫婦はヴィオラ団員の内田吉彦さんから「結婚するので仲人をして欲しい」と頼まれました。お相手は慶応ワグネル・オケ出身でヴァイオリンの明美子(はるこ)さんで新響ではなく弦楽合奏団の「アンサンブル・フラン」の団員だったので、「彼女が新響に入ってくれるのなら引き受ける」と条件を付けました(職権乱用ですね)。式は3月に一ツ橋の如水会館で行われ、披露宴で新郎新婦と私共仲人はカルテットを演奏しました。明美子さんは約束通り翌年新響に入団、まもなくコンミスに就任しました。
又この頃、新響のパート首席決定に関する「民主化」がありました(何年のことか記憶がなく、記録も見当たらないのですが)。私の東大オケ後輩で長田浩一君というオーボエの名手が入団してきて、ほどなくオーボエ・パートの首席になったのですが(1988-1996在団)、来年度の各パートの首席を決める「技術委員会」で「パート首席を技術委員会が“お手盛り”で決めるのはおかしい、団員の投票制にすべきだ」と発言したのです。私が入団する前はどなたがコンマスやパート首席を決めていたのか知りませんが、各首席による「技術委員会」が組織されてからは技術委員会でパート首席決めるのが慣例になっていました(例えば、「オレのパートに○○が入団したが、オレより上手いからトップを譲りたい」とか「××パートは現トップが一番だからこのままで行こう」とか、いわゆる密室で決めていました)。長田氏のこの発言に各トップは虚をつかれましたが、ごもっともと皆が納得し、各パート・メンバーによるパート首席投票(コンマスは全団員による投票)のシステムが出来あがり現在まで継続しています。プロ・オケはコンマスやパート首席を決めるには定められたルールによるオーディションを行っているようですが、新響以外のアマ・オケはどのように決めているのでしょうか?
‘91年4月、新響にとっては初の外国人指揮者となるアメリカ生まれ、スイス国籍のフランシス・トラビス先生が初登場しました。新響団長の土田恭四郎氏のお兄様が芸大教授で、芸大指揮科教授として赴任してきたトラビス先生を新響に紹介して下さった、と記憶しています。R・シュトラウスの『ドン・ファン』と、私にとって初めての作曲家スクリャービンの交響曲第2番等を振ってくださったのですが、すべての弦パートの譜面に自分でボーイングをつけてくださっていたのには驚きました。英語でリハーサル、というのも新響メンバーにとって初体験だったはずですが、トラビス先生がゆっくり、ハッキリしゃべってくださったので大部分の団員はついていけました。当時チェロ・パートのジョン・ブロウカリング氏がNHKTVで英会話の講座を持っていてトラビス先生と新響を番組で取り上げ、私の『ドン・ファン』のソロがTVに流れました。先生とは何度か食事をしましたが健啖家で、あの指揮のエネルギーはここから生まれるのだ、と痛感しました。
7月の定期はヤマカズ先生がフランクの交響曲等を振ってくださいましたが暑い盛りで、高齢で体力が落ちた先生がリハに通われるのは大変で、コンサート直後の8月13日に79歳で逝去されました。翌’92年7月のヤマカズ先生の追悼演奏会はヤマカズ、カラヤンのもとで勉強した小泉和裕先生が振ってくださいました。小泉先生はその後新響を10年間、7回振って下さることになります。
‘92年1月、トラビス先生にベルクの『ヴォツェック』より三つの断章と、シューベルトの交響曲第9番『グレート』等を振っていただきましたが、ヴォツェックのソプラノは芸大大学院生だった橋爪ゆかさんが見事に歌いました(20年後の2012年9月、飯守泰次郎指揮・読響が二期会創立60周年記念公演でワーグナーの『パルジファル』を4夜公演したのですが、橋爪さんが『クンドリ』役として2夜登場、素晴らしい歌声を響かせていてうれしく思いました)。この打ち上げパーティーで私が「トラビス先生のシューベルト第4楽章のテンポが速すぎて私は右肩を痛めた。医者に行くので治療代を払ってほしい」とスピーチしたら「その請求書は天国のシューベルトに廻しておくよ」とユーモアたっぷりに切り返されてしまいました。
4月11日のコンサートでは石井眞木先生の発案で新響が新作を公募、応募作品の中から石井先生が芸大生夏田昌和氏の『モルフォジェネシスーオーボエとオーケストラのための』を選び、夏田氏自身の指揮で初演しました(オーボエ独奏は柴山洋氏)。
このコンサートの約2週間後の4月24日に私は20歳の長女を事故で亡くしたのですが、数日後の自宅での通夜・告別式にはトラビス先生初め、多くの新響団員が弔問に来て下さいました。
10月には原田先生が、やはり私が10年前NYで知遇を得た野島稔氏をソリストに、ブラームスのピアノ協奏曲第1番を振って下さいました。見事な演奏でしたが打ち上げの席で原田先生が「実は数日前、野島氏から『(この曲はすごく手を広げないと弾けない曲で)猛練習していたら手を痛めてしまって弾けない』という電話があった。こんな難曲の代役はおいそれとは見つからないので何とか頼む、と拝みこんだら痛み止めの注射を何本も打って今日演奏してくれた」と明かされたので、ゾーッとし、それから野島氏に深く感謝しました。
11月にはトラビス先生指揮で東京駅丸の内口構内での「エキコン」に出演、ベートーヴェンの『第九』第4楽章等を演奏しました。
‘93年1月にはトラビス先生が『シェラザード』を振って下さり私がソロを弾いたのですが、重要なハープは私の幼馴染で今や日本ハープ界の大御所、篠崎史子さんが客演してくださいました。このコンサートの模様をクラリネット団員の進藤秋子さんの友人のセミプロカメラマンが撮影してビデオを私に下さったので、トラビス先生を我が家にお招きして鑑賞会を開きました。
4月の演奏会には、飯守泰次郎先生が得意のワーグナーとブルックナー(交響曲第4番)で新響に初登場、あっという間に多くの団員が先生の音楽の虜になりました。今年で19年目のお付き合いになり、2013年4月にも25回目の共演が予定されています。
9月、石井眞木先生の引率で『ベルリン芸術週間』に参加、ベルリン・フィルの本拠地「カラヤン・サーカス」で伊福部先生のマリンバ・コンチェルト(独奏は安倍圭子先生)、石井先生の『交響三連作 浮遊する風』」等の邦人作品を演奏しました。この演奏会にはダルムシュタット在住で当地の歌劇場で活躍していた石井先生旧知の岩本忠生(チェロ)・瀬尾麗(ヴィオラ)ご夫妻がエキストラとして参加して下さいました。ご夫妻とは今でも交流があり、毎年帰国の折には我が家で室内楽を御一緒しています。又、新響のチェロ団員石川嘉一さんの友人でベルリン・フィルのチェロ首席だったオトマール・ボルヴィツキーさんには車で町を案内してもらうなど大変お世話になりました。この演奏旅行には80年に退団した家人もエキストラとして参加したのですが、石井先生が選んだハープ奏者早川りさこさんは、東大オケ指揮者として私共がお世話になり仲人もしてくださった早川正昭先生のお嬢さんということを旅行中に知り、びっくりしました(彼女は2001年、N響に入団しました)。
’94年1月、新響事務所を矢来町から十条労音に移転」と創立50周年年表にあります。新響の事務所は、’69年に神田から新宿区須賀町、’76年大久保駅前、’84年矢来町と引っ越しを重ねてきました。これらは事務所兼楽器置き場として使い、練習は主に東京文化会館の地下リハーサレル室を使っていましたが、十条労音には音楽ホール、楽器倉庫、幾つかの小部屋とレストランがあって、ホールがやや狭く音響が悪いものの使い勝手が良く、道路拡張で立ちのきが決まった今年(2012年)7月まで20年近く使用してきました。新響は練習時、2,3人の保母さんに頼んで団員のお子さん達の保育をお願いし、若いお母さん達が練習に打ち込める制度がありますが、十条労音の小部屋を使えるようになったのでこの保育制度が導入できたと記憶しています。7月から事務所が護国寺に移転しましたが、今後保育制度がどうなるか心配です。
‘94年は伊福部イヤーでした。先生の傘寿(80歳)を記念して4回の演奏会でそれぞれ伊福部作品を取り上げました(日本狂詩曲、交響譚詩、日本組曲、シンフォニア・タプカーラ)。
2月、エローラ・ホールで(埼玉県)松伏町依頼の『芥川也寸志映画音楽特集』のコンサートがありました。構成・司会は新響が音楽資料等でそれまでお世話になってきた音楽評論家の秋山邦晴先生、指揮は新響初登場の小松一彦先生でした。小松先生は十条労音での初練習で「出してしまった音は消しゴムで消せないんだからね!」などとキビシイことをおっしゃっていました。コンサートでは『五瓣の椿』『八甲田山』などの映画のシーンを舞台後方のスクリーンに投影しながら芥川先生の代表的な映画音楽10曲を演奏しました。
同年5月、東京都からの依頼で三宅島への3泊4日の演奏旅行がありました(私は仕事が忙しくて参加できませんでした)。指揮のトラビス先生は空路でしたが、海路だった団員は悪天候で船が揺れて大変だったそうです(三宅島の火山が大爆発し、全島民が避難したのは6年後の2000年8,9月でした)。
‘95年1月16日の定期でトラビス先生がベートーヴェン2番やファリャ『三角帽子』等を振ってくださった翌日早朝、阪神・淡路大震災が起きました。新響の演奏会が17日だったら開催できなかったことでしょう。当時、ヴァイオリン団員がとても多く、ファースト・ヴァイオリンは10プルト(20人)だったこと、コンサート後、芸大退任が近かった先生が団員10人ほどを巣鴨の芸大官舎に招き、奥様が手料理を御馳走して下さった思い出があります(そして3/20にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きました)。
同年7月16日、前年の秋山・小松コンビで『映画生誕100年記念』と銘打った定期が芸術劇場で開かれ、サン・サーンス、エリック・サティ、武満徹、芥川也寸志等の映画音楽を演奏しました。武満作品(『弦楽のためのホゼイトレス』)に対する小松先生の的確な指示が印象的でした。秋山先生は翌96年に亡くなられましたが、小松先生とのお付き合いはその後2009年まで続くことになります。
2週間後の7月30日には飯守先生がブルックナーの交響曲第8番をサントリー・ホールで振ってくださいましたが、第2楽章スケルツォで事故が起きかけました。ダ・カーポしてまだ楽章が終わっていないのに先生の棒は明らかに「終わり」を告げていたのです。私は心臓が止まる思いでしたが、思い切って次を出たらすぐに何人かが追従、先生もすぐに棒を振りだして何とか無事に終わりました。
これら2週間しか空いていない2回の定期演奏会の背景は、芸術劇場とサントリー・ホール両方とも取れてしまい、どちらかキャンセルするとホール側の心証を悪くするだろうから両方使ってしまえ、ということだったようです。 (2012年11月30日記)
(次号に続く)