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新交響楽団在団44年の思い出-5

元新響コンサートマスター:都河 和彦


編集人より
コンサートマスターを長年に亘って務められた都河和彦氏による回想録を、前年より掲載しております。今回は新響創立40周年からの10年間のうち、2001年までの前半5年間の部分をご紹介致します。


◆創立40周年(1996年)からの10年間
 1996年1月、飯守先生指揮でワーグナーの楽劇「ワルキューレ」第1幕全曲を演奏会形式で演奏しました。音楽が素晴らしくて先生の熱の入れようは尋常ではなく、歌手も素晴らしく、今でも記憶に残るコンサートです。練習の休憩時、先生に「都河さん、木管と金管の音程、どうしたらいいんだろう?」と話しかけられて返事に窮しました。「ヨーロッパの人達は幼い時から教会で合唱しているから和音感覚が出来あがっているが、日本には教会に行く習慣がないので日本人は和音感覚が欠如している」とおっしゃっていました。今思えばこの時が、飯守先生の新響に対する音程・和音への要求が厳しくなった始まりでした。それ以来、先生が新響の練習に見える度に「一に音程、二に音程、三・四がなくて五に音程」の厳しい指導が始まることになります。
 6月、新潟県小出町文化会館こけら落とし演奏会に招かれ、大町陽一郎先生指揮・魚沼第9合唱団との第九公演がありました。前夜宿泊した旅館にはホルンの大原久子さんの新潟の御実家から銘酒「八海山」がドーンと差し入れられ、多くの団員がへべれけになっていました。また本番当日の舞台練習で事件が起きました。もうリハは終わりと思った4人のソリストが楽屋に帰ったのですが、それに気付いた大町先生が激怒、「ソリストを呼んで来い!」と怒鳴りました。あわてて戻ってきたソリスト達に対する「君達、歌いたくないんだったら歌わなくてもいいんだよ!」という大町先生の叱責に全員が凍りつきました。しばらくしてソリスト全員が声を揃えて「申し訳ありませんでした!」と謝ったので先生も機嫌を直し、公演は大盛況で終わりました。
 7月は6日、7日連続(芸術劇場とサントリー・ホール)で本名徹二先生に「日本の交響作品展」を振って頂きました。早坂文雄のピアノ協奏曲は当初高橋アキさん独奏の予定でしたが都合が悪くなり(8/17に逝去された御主人秋山邦晴氏の看病だったと思います)、高橋さんが著名な作曲家でピアニストでもあった野平一郎氏を紹介して下さいました。
 10月は原田先生指揮でベートーヴェンのレオノーレ序曲3番、交響曲第6番、第5番という超ド名曲プロを初めてのオーチャード・ホールを使って開きましたが、新響が自由席券を出し過ぎ、7月に2日にわたって7曲の邦人作品を振って下さった本名先生を含む200名くらいのお客様が入場できなかった、という珍事がおきました。新響定期はそれ以来、全席指定になったと記憶しています。
 この頃日本の石油業界は斜陽になり会社の早期退職の勧奨に乗ってこの年の暮、28年間勤務したモービル石油を53歳で退職しました。あまり愛社精神が無かった私は「これでもう嫌な上司にこき使われなくて済む」「これからはヴァイオリンの練習をし直し」とルンルンの気分だったのですが、すぐに家人が持ってきた英語翻訳の仕事に忙殺され、ヴァイオリンの技量が戻ることはありませんでした。


 97年1月のコンサートはコバケン氏がスメタナの連作交響詩「わが祖国」全6曲を振ってくださいました。ファースト・ヴァイオリンに難しいパッセージがあり、コバケン氏は「この個所は暗譜するように」と指示されたのですが、50台半ばで記憶力が衰えつつあった私はついに最後まで暗譜できませんでした。


 98年1月、名指揮者渡邉暁雄氏の長男で超長身の渡邉康雄先生が新響に初登場、お得意のシベリウスの交響曲第2番をメインに振ってくださいました。先生にはその後数回振って頂きましたが、くらしき作陽大学の関係でオフチニコフ氏やピサレフ氏、チェボタリョーワ女史といった世界的なピアニストやヴァイオリニストをソリストに連れてきてくださいました。
 7月は飯守先生指揮によるワーグナーの楽劇「ニュルンベルグの指輪ハイライト」コンサートがありました。4日間・16時間にわたる楽劇から先生が約3時間分の7曲を選定して下さったのですが、先生がいささかハイになって当時のインスペクター、日高容(いるる)氏が先生の面倒見に苦労されていた記憶があります。先生が練習の帰りに上着を電車に忘れたので某団員に回収に行ってもらった、演奏会当日先生が舞台用の靴を忘れたのでデパートに買いに走った、本番で曲順が分からなくなった先生がセコバイ・トップだった日高氏に「次は何?」と聞き、日高氏は「森のささやき」と答えた等々・・。またこのコンサートのための5月の鹿島合宿で現コンミス堀内真実さんがオーディションを受け、入団してくれました。プログラムの一つに「ワルキューレの騎行」がありメチャ難しかったので私はいかに誤魔化すかに腐心していたのですが、堀内さんの隣で弾いていた伊藤さんから「彼女は完璧に弾いている」と聞き、次のコンミスは彼女だと確信しました。
 10月には、2年前の96年6月に小出町文化会館こけら落としの第九公演でご一緒した大町陽一郎先生が新響定期に初登場され、シューベルトの「未完成」やR・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」等を振ってくださいました。未完成冒頭の弦の16分音符は普通弓先でデターシェで弾きますが、先生は弓中で跳ばすよう指示されてびっくりしました。「ツァラ」では私が難しいソロを担当しましたが初練習の後、大町先生にちょっぴり褒めて頂きました。その当時「開演5分遅れ」は音楽界の常識でしたが本番後の打ち上げの席で先生が「このオケは練習が時間通りに始まる感心なオケだと思っていたのに、本番は5分遅れとはどういうことだ!」とおっしゃったので団員一同唖然としました。大町先生とは2004年龍ケ崎市での「第九」公演でもご一緒しました。


 99年5月、ゴールデンウィークを利用して4日間の九州演奏旅行があり、福岡と熊本で演奏しました。九州出身の指揮者井崎正弘氏が同行してくださり、当時の運営委員長福島氏の尽力で地元の福岡市民オケとの合同演奏が実現しました(チャイコフスキーの祝典序曲「1812年」)。コンサート後のパーティーで新響対福響の演芸合戦があったのですが、永年合宿の演芸会で鍛えている金管グループの活躍で新響側の圧勝でした。
 7月11日の「芥川也寸志没後10年」コンサートでは予定されていたコバケンが「作曲のため多忙」という理由で指揮を断ってきたため、飯守先生がヨーロッパでの仕事をキャンセルして振って下さり(交響三章、エローラ交響曲、交響曲第1番等)、新響の窮地を救ってくださいました。
 7月17日はエローラ・ホール、18日は芥川先生が保存に尽力された上野公園内の奏楽堂でも先生没後10年の演奏会があり、やはり飯守先生が数曲の映画音楽、エローラ交響曲、交響曲第1番等を振ってくださいました。
 10月、みちのく銀行の招聘でロシアのオケを引き連れて東北地方で時々演奏会を開いていたロシア人指揮者、ヴィクトル・ティーツ先生を新響にお招きし振っていただきました(ヴィオラの奥平一氏が先生の評判を聞きつけ、東北地方でのコンサートを聴きに行って話が決まった、と記憶しています)。プログラムはグリンカ、カリンニコフ、チャイコフスキーとオール・ロシアものでした。小柄な方で指揮は軍隊式、テンポとリズムに大変厳しい方でした。その後、2001年と2004年と2度お呼びし、ラフマニノフとチャイコフスキーを振っていただきました。リハーサルはロシア語だったので、さすがに通訳がつきました。私と同じヘビー・スモーカーだったので携帯灰皿を沢山プレゼントしたら大喜びなさっていました。


 2000年7月30日、紀尾井ホールにおける(東京の夏)音楽祭「映画と音楽」で、又々小松先生と映画音楽のコンサートを開きました。前年入団してすぐコンマスになった慶應ワグネル・オケ出身の田澤昇君が確かサン・サーンスの「ギーズ公の暗殺」で素晴らしいソロを披露しました。残念ながら彼はほんの数年で退団してしまいました。
 8月13日、打楽器パートの上原誠氏が沖縄でシュノーケルの事故で水死、という痛ましい出来事が起きました。まだ40台半ばだったでしょうか。彼は数多くの打楽器、邦人作品、そしてヤマカズ先生の業績に詳しく、自宅は音楽資料の山という音楽学者のような団員で、奇しくもヤマカズ先生と同じ命日でした。
 12月24日、会津にバス旅行して「会津第九の会」とベートーヴェンの第九を共演したのですが、指揮は芸大でトラビス先生の後任になったイギリス人のロックハート先生が引き受けて下さいました。先生は翌01年1月の新響定期に初登場、ウォルトン、ブリテン、ホルストのイギリス物を振ってくださり、翌年1月にも「スコットランド」等を指揮して下さいました。リハーサルは当然英語で、「イン・リハーサル・テンポ」、「イン・コンサート・テンポ」の2語が印象に残っています。


 01年5月、飯守先生が飯守+新響にとって初めてのマーラー(交響曲第5番)を振ってくださいました。先生との練習が始まった頃、成城学園前で「弦楽器トリオ」を経営している新響団員陳さんの店へ飯守先生の紹介ということで若い女性ヴァイオリニストが来店したので、陳さんは「飯守先生のマーラーの指揮はこんな振り方で分かりにくい」と身振り手振りで真似したら、次回の練習から俄然分かり易い指揮に変わった、という伝説があります。そう、彼女はしばらくして先生が結婚なさった3人目の奥様、高橋比佐子さんだったのです。お二人の結婚披露パーティーは表参道近くのイタリアン・レストランを借り切って行われ私も出席しましたが、先生が常任指揮者を務めていた東京シティ・フィルの団員やソプラノの緑川まりさん等多くの音楽関係者が見えていました。
 10月の定期も飯守先生がブラームス交響曲第1番等を振って下さり、2楽章のヴァイオリン・ソロは私が担当しました。翌月の『音楽現代』にこのコンサ-トの批評が載り、某評論家が「絶美のヴァイオリン・ソロ」と褒めて下さいましたが、「絶美」という表現を目にしたのはこの時が最初で最後です。(2012年11月30日記)
             (次号に続く)

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