小松 一彦氏を偲ぶ
時間が経過してしまったが、今年3月30日、指揮者の小松一彦氏が亡くなった。享年65。新響とは15年にも及ぶ長い交流があったが、第207回定期(2009年10月12日:東京芸術劇場大ホール)以後、一切の音信が途絶えていた。小松氏はこの演奏会の直後に倒れ、入院生活を送っているとの情報こそ漏れ伝わって来たが、詳しい病状も復帰の時期も、全く不明なまま時間のみ経過する状況が続いていた。亡くなってから多少なりとも判った話では、再び指揮台に復帰の目処がつくまで一時は回復されていたとの事。早すぎる享年と併せて、殊更にその死が惜しまれる。
個人的にこの訃報に接したのは、亡くなった当日土曜日の夜、新響の練習終了後で、非常に早い情報だった。翌日師事している元NHK交響楽団首席フルート奏者のM先生に、レッスンを終えて開口一番「小松先生が亡くなられました」と伝えると、氏よりひと回りも年齢が上で、N響時代以来の交流もあって、入院以後はその消息を日頃気にかけていたM先生も流石に絶句し、「小松さんはいくつでしたか?残念です。明日あたり死亡記事が出るでしょうね」と言葉少なに語っていたのが記憶に残る。実際に各紙に訃報が載ったのは死去して3日後の4月2日(火)だった。
小松氏と新響との邂逅は1994年の『芥川也寸志メモリアル・コンサートII. 映画音楽の夕べ(2月13日:田園ホール・エローラ)』まで遡る。これは芥川氏が生前、その監修に当たった埼玉県松伏町のホール落成を記念する行事の一環で、そこでは芥川氏が手がけた数々の映画音楽を、その映像を実写しながら実演奏で紹介するという企画で、評論家の秋山邦晴氏の解説を伴った画期的なものだった。
映画音楽でしかも映像との連動となれば、当然ながら秒刻みの時間に制約される。そもそもこうした音楽は作曲される時点で、シーン毎の所要時間を詳しく計り、寸分違わずその時間内に収まるよう作られている。演奏する側は常とは違う「時間」をいやでも意識せざるを得ず、ともすると時間内に演奏する事にのみ関心が向かいがちになる。
文章にしてしまうとその難しさは伝わり難いが、音楽の本質が時間の芸術である事を思い出すべきだろう。各音の「長短」によってリズムが生まれ、そのリズムも作品の開始と終止の間にしか存在し得ない。そしてそのリズムの間に於ける演奏者による「意図的な長短」は、音楽の「表現」と表裏一体である。凡百な演奏は、この時間の制約を忘れ、寸足らずのまま、或いは逆に間延びしたままの音の集積に、せっかくの作品をおとしめてしまう。もちろんこれは映画音楽にとどまるものではない。
初対面の小松一彦氏がこの時新響に見せた指揮の手腕とは、時間に縛られていながら、その制約をオーケストラ奏者に意識させる事なく、且つ音楽としての表現をなし得た事だった。これは放送の現場での仕事によって培われたものだったのだと感じている。
個人的にはこの時演奏した『煙突の見える場所(五所平之助監督・1953年)』の芥川氏の音楽に対し「ここはプロコフィエフ風にやってください」とコメントした事が記憶から去らない。東京の下町(千住にあった「お化け煙突」周辺の)風景と、この音楽との違和感はさて置くとしても、印象にだけは確実に残る(その後何度もこの映画を通してみてしまった)。「(同じ芥川氏の)『交響管絃楽のための音楽』と同じです」とはこの時共に仕事をした編曲者の毛利蔵人氏の言葉。芥川氏は丸3日の徹夜仕事でこの映画音楽を仕上げたというから(秋山氏のその折の解説)、自らの出世作となった音楽と多少似ていたとしても、それは責められまい。秋山氏も既に亡く、毛利氏も40代で鬼籍に入った。
いずれにせよ以後こうした企画は氏の独壇場と位置づけられ、続く1995年7月の第148回定期『映画生誕100年記念演奏会』や2000年7月の『東京の夏』音楽祭での指揮につながってゆく。これらの演奏会では芥川氏の作品にとどまらず、サン=サーンス(映画音楽を書いているのだ)やアイスラー、エリック・サティなどの手がけた映画音楽を、その映像共々披露する事になる。
こうした形で優れた手腕を発揮して新響に新風を吹き込むべき存在であった氏だが、映像を離れ、真に「音楽」のみで我々と向き合う機会は2003年1月の第180回定期まで待たねばならなかった。これは受入れるべき新響の側に理由があったのだ。
最近出版された『ドラッガーとオーケストラの組織論(山岸淳子著PHP新書)』を興味深く読んだ。そこには
「指揮者の仕事はオーケストラと練習の場で対峙する時にこそ存在する。故に聴衆を前にした時点で見えるものは、その仕事の結果でしかない」
という趣旨の事が出てくる。つまり聴衆の立場でいる限り、オーケストラを動かしている現場としての練習の実態を知る事は残念ながら殆ど不可能と言って良いという事で、その通りだなぁと思う。実際その練習の現場に於いて、指揮者という存在は、オーケストラに対し様々な言辞・行動を通じて、自身の目標とする演奏を創り上げてゆこうとする。対するオーケストラの楽員ひとりひとりは、自己の音楽的欲求や見識や、そして取りも直さずその持てる技量とのバランスの中で、指揮者の意図を実現すべく腐心する。
またオーケストラという組織としての目標や「文化」というものも厳然と存在し、それらがまた楽員の価値観形成にも少なからず影響している。もちろんそうしたものを形作り、担っているのは個々の楽員であり、つまり組織と個人が互いに影響し合っているという事だ(新響も50年以上の歴史の中で、当然そうしたものを形成して来ている)。
指揮者はそうした個々人の集団の中に単身飛び込んできて、唯一「自らは音を出さない」存在として、限られた練習時間の中で成果を示さなければならない。そこに求められる方法や能力とはどのようなものか?・・・・ここにマネージメント論や組織に於けるリーダーシップ論などと共通するものをドラッガーは見出している訳だが、興味を感じる方は一読されたい。指揮者という仕事が具体的にどういうものかのイメージは掴める筈である。
極めて単純に言えば、小松一彦氏が初めて関わった当時の新響では、小松氏の練習スタイルはなかなかに受入れられ難いものだったのだ。例えば氏はオーケストラに対して、あるべき音を追求する際、細かく奏法まで指示した。
また、ある一定の音型パターンが繰返される場合に「自然に」生じてしまう「弛緩」を断じて許さなかった。例えばショスタコーヴィチの交響曲を演奏すると、何十小節も同じリズムが続く事が多々ある。こうした時、日本人なら真面目に取組むだろうと思いきや、十小節も続かぬうちにだれ、テンポも乱れてくるのである。「そんなにしつこくしなくても」とか「皆でほどほどの処に落としどころを見つけよう」という「空気」が支配するのだろう。だが小松氏はこれを絶対に許さなかった。「ぬるい!」「ダレる!」と一喝し、何度もやり直しを求めた。
「当たり前じゃないか」と今なら団内の誰しもが思うところだが、これはともすると作品を耳で聴いた印象そのままに、音にしてしまいがちなアマチュアのオーケストラにとって弊害の最たるもので、特にアマチュアとしてのプライドを抱く当時の新響の楽員にとっては、ひとつのショックとして受取られた。また映画音楽のようなきっちり時間内に収めるべく表現する才能は、時に「想定外」の指揮ぶりによって本番に於けるアマチュアの力を引出すタイプの指揮者のスタイルとは対極にあり、音楽的に「冷たい」「つまらない」と捉えられる事があった。
1980年代末から10年以上に亘ってインスペクターや演奏委員長を務めた体験から言えば、新響は発足以来の「文化」を背景に後者のタイプの指揮者に、よりシンパシーを感じており、また指揮者の側にも芥川氏の理念を体現する組織への「理解(配慮)」を基盤に、接しているケースが多かった。つまり新響をなかなか「指導」の対象とせず、練習の必然の結果としての本番を迎えるスタンスから遠かった。故にその演奏は100点もあれば50点もあるというように成否の落差が激しかったのである(それは結局2002年の「オーケストラ・ニッポニカ」の設立まで程度の差こそあれ、傾向として途切れなかった)。個人的な感想を敢えて言えば、小松氏の出現までの新響はアマチュアの屈折したプライドと、それを助長する一部の評価に甘んじ、音楽そのもの・作品そのもの、そして真に指揮者が導こうとするその方法にも、真摯に向き合っていなかったのである(もちろんこうした全てが、現時点で解消されているほどに、新響は進歩していないが)。
こうした弊害の最たるものがフランス音楽へのアプローチだった。当時のアマチュアオーケストラはどこも「聴いた印象」をそのまま音にしていた。これは意外に今でも続けられている事かも知れない。何となく曖昧な発音、明確さを欠く音質で演奏し、常に違和感を拭えぬまま失敗する・・・新響も思い出したようにフランス音楽をプログラムに採り上げ、何かしっくり来ないものを抱えながら本番を迎えては、案の上うまく行かず、その後の反省会では「やはりフランス音楽は難しい」と結論付ける事を繰返していたのだ。
またフランス音楽に限らず、自らの言葉で巧みにイメージを語り、それに合わせた音をオーケストラから引出すタイプの指揮者も世には多い。そうした指揮者に対峙すると、良い効果をもたらす場合がある反面、楽員個々の「言葉に対する感受性」や「イメージを音にする技量」によって、結果にバラツキが出やすいという弊害がある。アマチュアオーケストラの場合、特に弊害が目立つ。これも当時の新響とて例外ではなかった。
このような点が新響団内でも価値観の変遷と相俟ってあるべき姿の論争や確執の原因となっていったのである。これが2000年前後の新響の姿だった。
「オーケストラ・ニッポニカ」の設立によって団内の確執がようやく終息し、晴れて小松氏を定期演奏会(第180回)の指揮者として翌年初頭に迎える事が決定した2002年7月、氏とプログラムに関する打合せに出席した。すると開口一番、「フランスものを採り上げよう」と発言された。しかもドビュッシー・プーランク・ベルリオーズという王道とも言うべき布陣である。ドビュッシー(牧神の午後への前奏曲)は30年ぶり、プーランク(牝鹿)は初めて、そしてベルリオーズ(幻想交響曲)は山田一雄氏と演奏(1989年1月)して、不出来だった因縁の曲だ。だがそれを敢えて採り上げ演奏する事で、「新響も新たな時代に入ったのだ」とのメッセージを発信したいとの願いが、我々にもあり小松氏もまたそれを汲み取ってくれていた。ここに氏の新交響楽団への想いを深く感じ取るべきだろう。
同年(2002年)秋から始まった練習を通じ、新響は初めてフランス音楽への接し方、特にその音とそれを引出すための奏法というものに出遭ったと言える。それはフランスの作曲家らの作品に取り組む際には不可欠と言えるものである。新響は氏の指導を受けることで、初めて本格的にフランス音楽の演奏を実現出来た、と評価しても決して過言ではなく、特に『牧神の午後への前奏曲』『牝鹿』は、今録音を聴いても、それまでの新響には無かった音が現出している事に驚く(『幻想交響曲』は、この曲に対する新響サイドの「トラウマ」から逃れきれていないのが残念だが)。『牧神~』に於ける自分のフルートソロの出来はさておき「これで新響もひとつの壁を乗り越えたのだな」という実感と安堵感が沸々と終演後に湧き上がって来た事を、この演奏会を期に、長年務めた演奏委員長を退任した時の心境と共に思い出す。
その後の共演では、新響が苦手としていた作品や、やろうとして出来なかった「邦人作品」を多く採り上げた。前者の中ではラヴェルの『ラ・ヴァルス』とフランクの交響曲を挙げるべきだろう。前述のフランス作品と併せて、これらを「聴かせられるもの」のレヴェルにまで引上げて戴いた。
また芥川氏の歿後20年となる演奏会で、芥川氏の作品と共に、新響が芥川氏の指揮で日本初演したショスタコーヴィッチの交響曲第4番を再演している事も忘れるべきではない。小松氏は新響に常に配慮し、歴史の節目となる時に、重要な作品を数多く自ら採り上げて指揮している。
後者も重要である。安倍幸明の交響曲第1番・黛敏郎の『涅槃交響曲』『BUGAKU(舞楽)』そして貴志康一の『日本スケッチ』である。これらの曲はかつての新響ではまぎれもない日本人の手になる作品でありながら「邦人作品」の範疇に入らないため、演奏される望みを絶たれていた。
『涅槃交響曲』の演奏を実現するまで15年以上の時間が必要だった。初演指揮者だった岩城宏之氏を迎え、まで2ヵ月を切り、いよいよ練習開始という段階になって岩城氏の訃報が入る(2006年5月)。ここで小松一彦氏に指揮を引受けて戴けなかったら、この曲の演奏は更に延びていた。いや演奏はもう実現しないものとなっていたかも知れない。
演奏会当日、ステージリハーサルが終了した処で氏がこちらに近づき、「『論文』読ませていただいた。これまでの『涅槃~』の解説の中で一番良いものだね」と話しかけてきた。当方の書いた曲目解説を、事前に通読していてくれた訳で、極めて多忙な中で、作品への思い入れだけでようやくまとめた駄文に対する、この上ない「望外の評価」と感謝するほかない。
貴志康一の作品を世に紹介する事は、指揮者としてのライフワークとかねて語っていた氏が、結果的に新響との最後の共演となった演奏会で採り上げた事を、遺された我々はどう考えるべきだろうか?
自らの死に対する予感があったのか?これから新響と長く付き合っていく上で、置くべき最初の「布石」としての選曲だったのか?或いは新響が今後「自国」の作曲家を改めて策定していくための指針とすべきなのか?・・・考えていけば切りはない。だが我々は考えなければならない。
小松一彦氏のような才能と手腕と、そして理解を以ってアマチュアオーケストラと接し、その集団の能力を進展させて行ける指導者にして指揮者は、そう容易には今後現れないだろうとの予感がある。「偉大な」指揮者にはアマチュアと深く接するだけの時間的余裕を今や望めない。才能ありながら雌伏の期間を過ごす若手の指揮者は、やがて世に出る機会を掴めばアマチュアからは離れていくかもしれないとの懸念が常に付きまとう。小松氏の死をきっかけに、新響が必要とする指揮者の何たるかを改めて考え、将来を見通す必要があるように感じてやまない。
夜半、小松氏の振ったフランクの交響曲(第184回定期:2004年1月)を聴く。10年という時間を経て、この曲の演奏を巡る氏の言動や想いに関する記憶が改めてよみがえり、しばし泪やまず。
(2013年12月25日記)