新交響楽団在団44年の思い出-6
編集人より
コンサートマスターを長年に亘って務められた都河和彦氏による回想録を、前年より掲載しております。今回は新響創立50周年を迎えた2006年から退団された2012年までを最終回としてご掲載致しました。
◆創立40周年(1996年)からの10年間-②
03年4月27日のコンサートは高関先生がバルトークの『中国の不思議な役人(全曲版)』を振ってくださいました。初練習の2月8日(土)は午後に娘の結婚式に出席した後、練習に駆け付けたのですが、この曲は私が新響で弾いた数々の曲の中で最も難しかった曲の一つ、との印象があります。このコンサート前の4月8日に新響を何度か振ってくださり、ベルリン演奏旅行にも連れて行ってくださった石井眞木先生が67歳の若さで逝去されるという悲しいできごとがありました。先生の遺灰は遺言により中国の砂漠に撒かれた、と聞きました。
7月のコンサートは飯守先生が湯浅譲二先生作曲の交響組曲『奥の細道』と、ソプラノ独唱に緑川まりさんを迎えたR・シュトラウスの『4つの最後の歌』等を振ってくださいました。シュトラウスの第3曲『眠りにつくときに』で私がヴァイオリン・ソロを担当して緑川さんの伴奏をしたのはなつかしい思い出です。
10月の定期は小泉和裕先生指揮でオフチニコフ氏がラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲』を弾きましたが、どうも両者の息があまり合わなかった、という記憶があります。
私は03年11月末に還暦を迎え、技術の低下、眩暈(めまい)、左肩痛や右腕の痺れ等に悩まされるようなってコンマスを降りて退団しようと考え、04年1月のコンサートで小松一彦先生に安部幸明の交響曲第1番を振っていただき短いソロを担当したのが新響定期演奏会でのコンマスとしての最後の舞台になりました。「退団」の方は「ヴァイオリンのメンバーが足りないから辞めないでくれ」と頼まれ、しばらくヴァイオリンの1団員として残ることになりました。
04年4月の石井眞木没後1周年コンサートでは高関先生がR・シュトラウスの『ばらの騎士』組曲、石井眞木先生の『幻影と死』、ベートーヴェン『運命』を振ってくださったのですが、石井作品が静かに始まった途端、「ガラガラ・ドッシャーン」という楽譜にはない大音響が会場に響き、演奏は中断しました。ビブラフォンの足のネジが緩んでいて山台から転がり落ちたということでしたが、多くの団員が「眞木先生の亡霊が出た!」と感じていたようです。
6月に郡山での特別演奏会がありました。地元のテレビ局が郡山出身の著名な音楽家、作曲の湯浅譲二先生と指揮の本名徹次氏に関連した演奏会を企画、本名氏指揮で新響が少し前の定期で取り上げた『ばらの騎士』、『奥の細道』、『運命』のプロで演奏しました。4月の定期で『ばらの騎士』のヴァイオリン・ソロを弾いたコンミスの堀内真実さんが旅行に参加できなかったので私がソロを弾き、『運命』は岸野ゆかりさんがコンミスを務めました。本名氏は薄皮饅頭で有名な柏屋の御曹司だったので本番の日の朝、会場に饅頭の差し入れがあったと記憶しています。
8月の大久保混声合唱団の伴奏もコンマスが出演できなかったので私がコンマスを務めました。暑い盛りのコンサートで眩暈がひどく、コンサート後すぐに近くの耳鼻科病院に駆け込んでまずい飲み薬を処方してもらいました。12月の大町先生指揮・龍ケ崎第九市民合唱団との『第九』公演では左肩痛で満足に弾けませんでした。この痛みはなかなか消えずもう退団と考えたのですが、ヴァイオリン・メンバー不足ということでまたも退団できませんでした。左肩痛については、翌年4月に新響チェロ団員白土菜穂さんの整形外科医の御主人に治療を受け大分和らぎました。
05年の4回の定期はヴィオラが足りないということで(痛い左肩をかばいながら)ヴィオラを弾きました。1月の小松先生指揮でのレスピーギの「ローマ三部作」の大音響、7月の飯守先生指揮ラヴェルの『ダフニスとクロエ』全曲の難しさが思い出に残っています。
10月は渡邉先生がアナスタシア・チェボタリョーワ女史(1994チャイコフスキー・コンクール最高位)を招いて芸術劇場でシベリウスのヴァイオリン協奏曲とドヴォルザークの『新世界』等を振って下さいました。アンコールでドヴォルザークの『スラブ舞曲』を演奏中、かなり大きな地震が起き聴衆は一瞬どよめき団員はふらつきながら弾いていましたが、渡邉先生は夢中になってタクトを振り続けていました。打ち上げで私が先生に「地震に気付かれましたか?」と尋ねたら「え、何のこと?」との答えでやはり、と思いました。
◆創立50周年(2006年)から現在(2012年)までの6年間
2006年2月、芥川先生の師匠で、新響が数多くの作品を何回も演奏した伊福部先生が91歳で逝去されました。新響は先生の個展を1980年に開いて以来、古稀(70歳)記念(’84)、喜寿(77歳)記念(’91)、傘寿(80歳)記念(’94)、米寿(88歳)記念(2002)とお祝いのコンサートを重ねてきました。ちなみに03年の文化功労者受賞お祝いコンサートは長田雅人指揮・ニッポニカが、卆寿(90歳、04年)お祝いコンサートは本名徹二指揮・日本フィルが開きました。03年の受賞お祝いパーティーでは「昔、出征する兵士を鼓舞する曲を書けとお上に言われて書いたことがある。今回文化庁から電話というので『イラクに派遣される自衛隊員を鼓舞する曲を書けというのだな、困ったな』と考えながら電話に出たら『文化功労
章を受けて頂けないでしょうか?』ということで驚いた」とユーモアたっぷりにスピーチなさっていました。先生の死はまさに「巨星落つ」の感があり、お葬式で香典返しとして頂いた5匹のゴジラの砂糖果子と、先生の筆跡で「伊福部昭作・日本狂詩曲」と書かれた花瓶は我が家の家宝になっています。
50周年記念の1月のコンサートは小松先生がショスタコーヴィッチの大曲、交響曲第8番を振って下さり、4月は高関先生がR・シュトラウスの大曲『アルプス交響曲』を振ってくださいました(私は06年4月から09年1月まで又、ヴァイオリンに戻りました)。
7月のサントリー・ホールでのコンサートでは指揮界の大御所、岩城宏之氏が黛敏郎作曲の『涅槃交響曲』を振って下さる予定でしたが6月に他界(74歳)、昔岩城氏にお世話になった小松一彦先生が1月定期に続き、急遽振ってくださいました。
11月は飯守先生指揮で緑川まりさんたち素晴らしい5人の歌手陣と男声合唱でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』抜粋をコンサート形式で演奏、曲の難しさに音をあげましたが、またまた素晴らしいワーグナーの世界にどっぷりと浸かることができました。
07年7月には山下一史先生が初登場、お得意のブラームスやR・シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』等を振ってくださいました。『英雄~』のヴァイオリン・ソロはコンミスの前田知加子さんが担当して名演を披露しました。山下先生とはそれ以来5回共演、2013年7月にも予定されています。彼が1986年に急病のカラヤンの代わりにジーンズ姿で急遽ベルリン・フィルで第九を振った話は有名です。昨年(2011年)3月の大震災直後の日経新聞の手記には、「仙台フィル本番前のリハーサルの休憩時間に大揺れがきた、ホテル20数階の自室まで階段を登った、翌朝ホテルには食べ物がなく外の屋台で何とか食べることができた、知り合いのタクシー運転手が福島空港まで送ってくれて帰京できた」等の苦労話を書かれていました。また、私は「Daily Yomiuri」という英字紙を愛読しているのですが昨年暮、山下先生の大きな写真が出ている記事が目にとまり読み始めたらびっくりしました。「広島の原爆資料館にはすっぽり抜け落ちた若い女性の髪が展示されているが、この髪の主は指揮者・山下一史氏の母親、博子さんのものである」とあったのです。山下先生の母上は18歳の時爆心地近くで被爆、数日後に髪がすっぽり抜け落ちたそうです。記事は山下先生がベルリンで勉強していた高関先生に合流、一緒にベルリン・フィルのリハーサルを盗み聴き?していたことにも触れていました。
08年4月の定期は飯守先生がシェーンベルグの交響詩『ペリアスとメリザンド』を振って下さり、練習では濃密なシェーンベルグの世界にどっぷりと浸ることができたのですが本番数日前、米イェール大学に出張中だった家人から電話がかかり、「食中毒にかかって入院している。体力が落ちているので迎えに来てほしい」とのことで急遽渡米、折角積み重ねた練習をフイにし、新響にも迷惑をかけてしまいました。
10月の定期は小松先生がエルガーの『エニグマ変奏曲』やドヴォルザークの交響曲第8番等を振ってくださり、9月の合宿は(鹿島が使えなくなったので?)千葉県蓮沼の「小川荘」という民宿を初めて使用しました。オケが練習できるホールはありましたが、駅から遠い、施設が汚い等々、余り良い印象はありませんでした。このコンサートではエニグマが難しかったこと、ドヴォルザーク第8番第4楽章冒頭の野崎・青木のトランペット・コンビによる完璧で見事な演奏が印象に残っています。
09年1月のこれまた小松先生指揮の『芥川也寸志没後20年』のコンサートでは芥川先生の下で20年間コンマスを務めた私に花を持たせようということだったのでしょう、第1曲目の『トリプティ-ク』のコンマスとソロを務めるよう演奏委員会から要請がありました。演奏技術の低下や左肩痛、右腕の痺れ等から固辞したのですが、四方八方からの圧力に屈して引き受けたら、やはり本番のソロはいささか悲惨な結果になりました。これで今度こそ退団、と思ったらヴィオラ首席だった柳澤秀悟氏から「人数が足りなくなったからヴィオラに戻ってくれ」と頼まれ、今回の退団まで3年間ヴィオラ・セクションでお世話になりました。
9月に小松先生とショスタコーヴィッチの交響曲第5番等を携えて小出・新潟演奏旅行に行き、10月の定期も小松先生が振ってくださったのですが、その後先生が急病で入院され現在まで容態が分からず、何とも心配なことです(編集人注:小松先生は2013年3月に死去)。
10年1月は曽我大介氏が初登場してバースタインの『キャンディード』序曲等を振って下さり、翌11年1月はエネスコ、今年10月はガーシュウィンとコープランドなど、今迄新響が殆ど取り上げなかった作曲家の作品を振って下さいました。今後もこれら新分野でのおつきあいが続きそうです。
10月の定期は山下先生が新進気鋭の作曲家、権代敦彦氏の『ジャペータ-葬送の音楽I』を取り上げ、9月の蓮沼での合宿には権代氏も来て下さいました。ハープの篠崎さんが何度か権代さんに作品を委嘱していて舞台に登場する時の衣装の強烈さが印象にあったのですが、合宿参加のため東京駅に現れた時もズボンは真っ赤でした。10年ほど前から新響の弦楽器トレーナーをしてくださっているN響ヴァイオリン奏者の齋藤真知亜氏はここ数年、年に一度「Biologue」と銘打ったリサイタルを開いているのですが、今年6月の目黒教会でのコンサートでは権代氏に「キリストがゴルゴダの丘を十字架を背負いながら登って磔にされる」ことを主題にしたヴァイオリン独奏曲の作曲を依頼、初演しました(お二人ともクリスチャン、ということを初めて知りました)。又ハープの篠崎さんは今年10月オペラシティーで開いた『ハープの個展シリ-ズ40周年記念』コンサートでは今をときめく作曲家、権代敦彦・西村朗・野平一郎諸氏に新作を依頼、作曲者がオケを指揮する、と超意欲的なコンサートを開いたのですが、権代氏は真っ赤なジャケットを着て自作を指揮、ご満悦でした。
11年7月に飯守先生の推薦で登場したアメリカ在住の女性ヴァイオリニスト松山冴花さんのブラームスのコンチェルトは圧巻で、銘器ヴィヨームと名弓トゥルテの相性は抜群でした。団員の総意で今年7月にも彼女をお招きしてサン・サーンスのカデンツァを使ったベートーヴェンのコンチェルトを弾いていただいたのは私の最後の新響定期として良い思い出になりました。
私はここ数年聴力が低下して、広い会場で練習する新響ではトレーナーや指揮者の注意や要求が聞こえづらくなったので(小規模な室内オケの活動では問題ないのですが)、大編成オケでの活動はもう無理、と判断して今年7月の定期演奏会で44年間の新響ライフに終止符を打つことにしました。振り返ってみると、これまで69年間の人生のほぼ3分の2を新響で過ごし、数々の思い出・感動を頂いたことにいくら感謝してもしきれません。多くの団員・指揮者・トレーナー・作曲家・独奏者と知遇を得ることができ、また69年も生きていれば当然ですが、多くの方々との悲しい別れもありました。
日本には数多くのアマチュア・オケがありますが、新響は演奏面・運営面でも常にそのトップを走り続けてきたと思います。これからもずっと、日本アマオケ界の雄としてはばたき続けて欲しいと願っています。(2012年11月30日記)
*2012年末から1年半6回に亘って連載致しました都河和彦氏の回想録は今回で終了です。44年間、新響と共に歩んで来られた軌跡は、新響としても将来に伝えられるべき財産です。執筆戴いた都河氏には改めて感謝致します。有難うございました。
今後この全文は新響のホームページで読む事が可能です。
「これまでの演奏会」http://www.shinkyo.com/02past/ から
「第220回演奏会」以降の「詳細はこちら」に入り、維持会ニュースの欄をご覧ください。