アラビアンナイトのこと
リムスキイ=コルサコフの傑作、交響組曲『シェヘラザート』を新響が採り上げるとなれば、この組曲のベースとなっている『アラビアンナイト(千一夜物語)』の事を看過する訳にはいかない。だがこれについて何を語ればよいのか?というより、先に白状しておくと、実を言えばこの本を読み通した事が無いのだから、それについて原稿を書こうという試み自体が既に愚かしくもあり、無謀でもあり既にして正気の沙汰ではない。が、せめてこの物語の性格くらいはここで解説しておかないと、読者である会員の方々が次なる演奏会へ足を運ぶ意慾も変わってこようと思われるので、無理を承知の使命感に基づいて、本稿を進める事にしたい。
◆恐ろしく読みにくい書物
僕は文学部の学生としての大学生活4年間の殆どを、オーケストラの部室か大学の図書館で過ごし、教室に顔を出した日数は明確に数えられるような生活を送っていた。もちろん成績は最悪で、オマル・ハイヤーム(12世紀のペルシャの詩人・哲学者)をテーマとして書いたおおよそ150枚の卒論は指導教官から酷評されたが、それでも4年で「出所」し、まがいなりにも就職できたのだから、思えば良い時代だったと言える。そうした中でまぁまぁ読書の習慣だけは何とか身につけたので、それを親に支払ってもらった授業料に辛うじて見合う唯一のものと考える事にしている。
世の読書家と言われる人々に比すれば誠にささやかなものだが、硬軟取り混ぜた読書体験を経て、世の中には「読みにくい本」というものが存在する事も身を以って知った。
分量のある本の頭の方しか読まないのを喩えて「聖書のマタイ読み」の言葉がある。聖書など本来どの福音書から読んでも良い筈だが、書物というものはすべからく表紙から入るものであるとの生真面目に考える人ほど、最初のマタイ伝から読んで挫折してしまう。
『源氏物語』54帖もご承知の通りひどく長くて、これは途中から読むという手立てが無いではないが、まぁ普通は頭から読む。するとやはり途中で挫折する人が古来絶えないと見えて、この場合は典雅に「『源氏』の須磨帰り」などと言う。つまり『桐壺』から読み始めて12番目の『須磨』の辺りで本をなげうつの意で、まぁ光源氏も須磨に都落ちするのを見届けたのでこの辺で・・・との心理が読者に働いてもおかしくは無い。だがまがいなりにも『須磨』まで行き着ければ大したもので、大抵の人は、あの忌まわしき(?)古文の授業で『桐壺』の冒頭を読まされただけで充分にウンザリしているのではないだろうか?・・・・と別に上から目線で読書を論じているつもりは毛頭無く、僕自身も「マタイ読み」「須磨帰り」に甘んじている本は沢山あって、今となってはその累々たる挫折の数々を、改めて踏破して行くのが老後の楽しみという半ば自棄半ば開き直りの心境に陥っている。
『アラビアンナイト』はそうした踏破対象のひとつである。この書名を聞くと『アリババと40人の盗賊』『アラジンと魔法のランプ』などをまず思い浮かべる人も多かろうが、これらはまぁ子供にも読ませられる部類の内容で、且つストー^リーも単純にされて、より親しまれているに過ぎない。ついでに言えばこれらの話は後世の補作の過程で紛れ込んだものとも言われている。
この本の冒頭はご存知の方も多かろう。ペルシャのとある王(シャリーアル)が、自分の妃と黒人奴隷との不貞を目の当たりにした事に起因して極度の女性不信に陥り、奴隷はもちろん妃も殺した後は、未だ手付かずの娘に夜伽させ、一夜明けると殺してしまうようになる。これを毎夜続けて遂には国中に処女がいなくなる(殺されるくらいならどんな醜男やろくでなしとでも早々に結婚して、捨てるべきものは捨ててしまおうと考える生娘も大勢いた筈だ・・・・と僕は考えてしまうのである)。そこで王は大臣に娘のシャーラザット(シェヘラザート)を差し出せと命じる。彼女は一計を按じ、妹と共に王の寝所に入ると千と一夜に亘り、払暁まで王に様々な物語を聞かせ続けて、命を永らえる手立てとする。これが膨大な物語の端緒・・・・であるからして、そもそも徹頭徹尾「大人の」世界の物語である。だから「読みにくい」と言っても、シャーラザッドが夜毎、王の寝所で聞かせる物語の内容が難解な訳では無い。
ではこの本が読みにくい理由は何か?と言えば、ひとつの話が次の話へとどんどん枝分かれしてゆき、脈絡無く玉石混淆とも言える様々な話が無限に拡大して、なかなか収まらないという点にある。シャーラザッドがある晩から語り始めた話を例にして説明しよう。
長く子に恵まれなかった、さる支那の王に男の子が生まれた。当然当代一流の学者がついて教育に当たる。この王子が10歳になった時、その聡明さを扶育官から聞いた王は、テストをしようと考える。ところが教育していた賢者が王子に対し、占いを立てると7日の間無言を通さないと、身の破滅が降りかかると出る。そこで王子にくれぐれも無言を徹底するよう言い置き、自らも姿をくらましてしまう。
その結果、王子は父の質問に何も答えない。父王は失望し怒る。そしてその夜、父の愛妾がこの王子を籠絡しようと迫る(相手は10歳だが、まぁ早熟な時代の話と理解しよう)。相変わらず王子は無言で、勿論拒絶する。女の方は収穫なしの上に、自分の言動が王の耳に入る事を怖れ、先手を打って王子に乱暴されたと讒言(ざんげん)する(ひどい女である)。父親たる王は相変わらず弁明さえせぬ王子を憎み、死刑にしようとする。
・・・・ここまででも実際は充分に長い話だが、問題はこの後からである。王子の処刑を命じられた大臣らが、言辞を尽くして王に翻意を促す。と、それを覆そうとする愛妾。この両者の間で「男と女とはそもそもどちらが不実であるか?」という論争になるが、この論争というのが、具体的にとんでもない男女を主人公とした「物語」で、王に対してこれを語って聞かせ、説得を試みる事になる。つまりシャーラザッドが王に語っている物語の中で、また物語が延々と語られるという劇中劇のような構造に事態は発展するのである。
そして更に重要な事実を申し添えれば・・・・ここに登場する大臣は7人もいる。そして7人の大臣が女の例をそれぞれ挙げると、愛妾の方は単身、その全てに対して男のデタラメさ加減を盛込んだ物語で応じる図式で、単純に考えても、ここに双方合わせて14の「話」が並ぶという訳である。それらがどんな話なのか各々一例ずつ挙げよう。
まずは大臣のひとりが語ったストーリー。
ある王の太刀持ちと懇ろな仲になっていたある人妻が、太刀持ちの小姓(きっとむくつけき太刀持ちの寵童だったのだろう)に目をつけ、自宅に招いて男女の仲になった。するとそこに件の太刀持ちが訪ねてきた。人妻はすかさず小姓を地下室に隠す。その上で太刀持ちを中に入れ、小姓との間で繰広げていた事の続きをしようとする。
するとそこに亭主が帰って来てドアを叩く。女は慌てず、太刀持ちに対して自分を大声でののしりながら家を出るように言い、男はその通りにして家を出て行く。入れ替わりに亭主が入ってきて、何があったのかを当然訊く。女は平然と「不始末をしでかした男が助けを求めて家に飛び込んできたのでかくまった。いま出て行った男はその主人で、『使用人を出せ!』とうるさくつきまとわれたが知らぬ存ぜぬで通し、男は悪態をついて出て行った」と言い、青い顔をして地下室で震えていた小姓を出して、帰らせた。
「アラーのお恵があるでしょう」と平然という妻に対し、何も知らぬ亭主(こうした悪知恵の働く多情な女の亭主は、大抵うすぼんやりしたおめでたい男だ)は「これは本当に良いことをした」と喜ぶ女というものはこれほどに平然とウソをつけるものなのだ(だから王も妾のいう事を鵜呑みにしてはいけない)と訴えた訳だ。
愛妾の方も負けてはいない。
武芸に秀でたある美しい王女に、美男の王子が恋慕した。が、王女の方は軟弱な男は大嫌い。それでも何とか自分と槍試合をして自分が負ければ受け容れようと言うところまで話は漕ぎ着いた。果たして試合をすると王子が負ける。願いは叶わなかった。
王子はこの王女の事が忘れられず、ひと財産全てを宝石に替え、且つ老人の姿に身をやつして王女の館に向かい、庭に控える。王女と取巻きの小姓らがやってくる。小姓のひとりが老人に呼びかけられ、彼と接吻する事(それだけ)と引換えに一番大きな宝石をもらう。翌日も別の小姓が同じ条件で宝石をもらう。それを見ていた王女は、宝石が手に入るなら、うす汚い老人だが接吻くらいいいだろうと、翌日老人のところに出向き、一番良い宝石を求める。宝石を手渡すと・・・・その「老人」は正体を現して王女に飛びかかり、本懐を遂げてしまう。結局このふたりは結婚するに至る。
男など誰しも、このようにあくどい事を平然とするものでございます(10歳の王子も同じでした)と、まぁこう言いたい訳でしょう。
話の出来は玉石混淆ながらこうしたものが7対の14話ずっと続く事になる(因みにここに挙げたふたつは良質な方である。もっとエロティックな話も多々あるのだが、それは『新響維持会ニュース』読者の良識と、編集人の掲げる崇高且つ高邁な方針とは相容れないとの判断から割愛。興味のある人は原作を当たって戴きたい)。そうした14の話と逐一付きあい、しかもその一話一話を真剣に読めば読むほど、いつしかこれはそもそも支那を舞台にして、年端もいかぬ王子の生死がかかっていたはずだ・・・・という肝腎の部分を忘れてしまうのである。『アラビアンナイト』の読みにくさの理由のひとつがここにあると僕は思う。これで多少はご理解戴けただろうか?
◆そして物語はまだまだ続く
結局7人の大臣が展開した弁論とも言える物語と、愛妾による反論によって7日が経過した。そこで王子が初めて口を開いてこれまでの事情と真実を語る。王は怒りの矛先を当然ながら讒言した愛妾に向け変え、処刑しようとする(どこまで行っても短慮な王様だと思うが)。王子はそれを諫め、「様々な考えや思惑が人々にはあるもので、全てはアラーの神のご意志に委ねましょう」などと今ならまだ小学生の癖に小賢しい事を言ってのけるのである(なんで支那の国の話なのにアラーなんだ?という突っ込みはさて置いて)。
周囲はもちろん王も、王子の利発さに感心し讃える。すると彼は「いえいえ。世の中にはもっと賢い人が沢山おります」と言って、その賢い人々の物語をその場で話し出すのである。これがまた長い上にいくつも続く・・・・結局当然だがこの王子が父王の跡を継いでめでたしとなる訳だが、この結末に至るまでに読者は20編に近い枝葉の物語を読まされる事になる。
このひとまとまりの長い長い話は、シャーラザットにして語るのに第576夜から第606夜(バートン版での数え方。各編纂によって大きな異同がある)まで費やしている。という事は、約1ヶ月に亘って夜毎この物語が続いていたという事である。語る方は文字通りの命がけだが、それを聞くシャリーアル王もいささかウンザリしていたのではないだろうか?しかもまだ千一夜ある全体の半分しか進んではいない・・・・。
実際シャリーアル王はシャーラザッドの物語に「じっと」「おとなしく」耳を傾けていた訳ではなく、千一夜の間に彼女に王子を3人生ませている。一夜の相手をその都度殺していた王が、子供まで拵えたのだから、その時点で王は考えを変えており、彼女の命は保障されていた事になるが、そういう矛盾を衝くのは野暮である。この王には同じように女性不信状態にある弟の王がおり、これがシャーラザッドの妹(ずっと姉共々シャリーアル王の寝所に控えていた)を娶って、全てが大団円となる。これが発端に比べて知る人が極端に少ない『アラビアンナイト』の結末である。
ここまでお読みになった方々は「読みにくいと言いながら、それでもお前は結末まで知っているではないか、通読こそしていなくとも、せいぜい第600夜近辺までしっかり読んでいるのではないか」と考えられるかもしれないが、これは「拾い読み」の結果で、実際には第24夜から第34夜まで続く『せむし男及び仕立て屋とキリスト教徒の仲買人と御用係とユダヤ人の医者との物語』という、表題を目にするだに込み入り具合が予測出来る物語で、早々に僕は挫折している。この全編を読破する事は近い将来ライフワークとなろう。齢を重ねる毎に「ライフワーク」が増えて行くのが最近の悩みであるが・・・・。
現代の我々にとって『アラビアンナイト』の世界は、古い時代の説話や神話に共通する「ストーリーの迷宮」とも言うべき性格を持っている。が、これを迷宮と感じ、また書物としての読みにくさを感じてしまうのは、近代以降、論理の一貫性や矛盾の無さと言った整然と体系化された価値観を我々が絶対視している事に起因するのかもしれない。そしてそれがあくまで相対的なものに過ぎず、この世界がそれだけで構成されている訳では決してないのだという示唆を、改めて与えられているようにも思えてくる。
この感覚は19世紀のヨーロッパ人も共有していただろう。そもそも『アラビアンナイト』は18世紀のパリで編纂・出版されたのが最初であり、イスラム圏に厳然と校訂・編纂された「原典」があってそれを翻訳したというものでは無い(そこに「増補」の物語が入り込む余地もあった)。そして編纂作業を経るうちに育まれ、芸術全般が触発されていったエキゾチズムの延長線上に、リムスキイ=コルサコフの交響組曲『シェヘラザート』が生み出されたと考えても良い。
この曲の美しく整然とした佇まいの全容を思い浮かべつつ、『アラビアンナイト』の混沌とした世界に浸るというのも、また一興と言えるかもしれない。