ショスタコーヴィチにおけるファゴット奏者の歓びと苦悩
ファゴットパートの藤原と申します。入団してもうすぐ5年、古参の多い当団ではまだまだぺーぺーの三下ですが、何の因果か今回ショスタコーヴィチ10番の1stを吹くことになってしまい、身に余る重責に日々もがき苦しんでおります。この悶絶(もんぜつ)躃地(へきち)するわたしの様子を見た維持会ニュース編集人(フルート首席の松下氏)から「『ショスタコーヴィチにおけるファゴット奏者の歓びと苦悩』をテーマに寄稿してもらいたい」と依頼を受け(つくづく容赦の無い編集人です)、苦しみに拍車がかかったわけですが、良い機会でもあるので自分なりに考えたことを書き出してみます。多分に主観的かつ不真面目なたわ言ですがお付き合いください。
■ファゴットとその奏者の特徴
ファゴット及びファゴット奏者について、茂木大輔氏は著書『オーケストラ楽器別人間学』の中でこのように書いています。
「…きわめて広い音域を持っており、その音色も変化に富む。このことは当然、奏者の性格に大きな幅をもたせ、多様な側面を持った厚みのある人間像をつくりだす。
もの悲しく、か細い高音はペーソスを、柔らかく深い中音は暖かみを、しわがれた低音は老成した内省的な性格を、それぞれ奏者にもたらし、かん高く苦しげな最高音域の存在は、いざとなったらなりふり構わぬ姿勢を奏者にそなえさせる。
しかし、これらすべての音域に共通するものは、きわめて特徴あるアタックによってもたらされる、とぼけた、ひょうきんな印象である…」
茂木大輔氏はご存知のとおりN響の首席オーボエ奏者であってファゴット奏者ではないのですが、それにしては(失礼ながら)割合的を射た分析です。オーケストラの中で演奏するにあたり、広い音域と多様な音色を持っているということは、様々な役割を受け持たせてもらいうるということであり、これはファゴットの大きな魅力、奥深さの1つです。しかしながら、あの「ぽー」という独特の、脱力系の発音の印象が強すぎるために、ファゴットという楽器は(他にも特筆すべき多彩な側面がありながら)一般的な印象としては「おとぼけキャラ」という結論に尽きてしまう悲しい性のようです。「良い人」は得てして本命の恋人にはなれないように、器用で害のないファゴットは下支えやクッション材、潤滑油として諸々便利に使われても、ど直球のソロを充ててもらえることはなかなかありません。また他の楽器に比べるとあまり大きい音が出ない、音の通りが悪いという性能的弱点もあり、これも作曲家たちをしてファゴットをソロから遠ざけしむる要因の1つです。
■オーケストラにおけるファゴットの役割
結果的に、オーケストラ曲においてファゴットが通常受け持つ仕事は
① 低音(ベースライン)
② 中継ぎ(メロディとも伴奏ともつかないアンコの部分とか、メロディ楽器のハモリなど)
③ たまにソロ
の主に3種類となり、①と②が圧倒的に多いということになります。
もちろんソロ以外の仕事にやりがいが無いかと言われるとそんなことはなく、特に①についてはファゴットの場合、木管セクションにおけるベースという意味合いで非常に重要です。木管楽器の中で演奏上目立つのはオーボエやフルートの1stですが、彼らは2ndファゴットの根音から幾重にも積み重なったサウンドのてっぺんで危ういバランスを取り続ける儚い存在なのです(編集人の松下氏も、フルートなどセクション内のしわ寄せ担当なのだと常々ぼやいておられます)。大学の管弦楽サークル等では、譜づらが簡単だからといってこの重要な2ndファゴットに初心者を充ててしまい、木管セクション崩壊の危機に見舞われるケースがままあります。
また②の中継ぎですが、これは低音が得意というほどでもないし、かといってソロをガツガツ吹きにいく闘志もないファゴット吹きの活路であります。一般的にオーケストラのファゴット(特に1st)はこの「中継ぎ」職にあたる役割ばかりやらされるので、必然的に小器用さ、奥ゆかしさ、メロディ楽器をたてる能力がどんどん磨かれていくことになり、奏者には慈愛の心と自己抑制力が育まれます。ちなみにわたしはこの「中継ぎ」ポジションが最も好きで、クラリネットの3度下でハモっているときが、練習後のビールの次に幸せな瞬間です。要約すれば、①や②の仕事に歓びを感じられないファゴット吹きはオーケストラに向いてないということです。
■オーケストラにおけるファゴットのソロ
次に③ソロについてですが、冒頭でも分析したとおり、ファゴットという楽器は一般的な印象として「おとぼけ」という何を持っても払拭しがたいイメージが他の特色を凌駕しております。ごくたまにソロという僥倖が与えられた場合も、本流のかっこいいメロディではなくて、ボケキャラ、お笑い担当等、いわゆる三枚目の役割であることが多いように思われます(ファリャ『三角帽子』の悪代官役などが典型)。こういった濃いキャラクターの役が割り当てられやすいというのはある意味「おいしい」立場と言えるかもしれません。奏者としても具体的なイメージを持って表現しやすく、かつ主役でない気楽さもあり、割合楽しく吹くことができます。
ではファゴットは絶対音楽においてはソロが全然無いのかと言われれば、実はそんなこともありません。例えばベートーヴェンは何故かファゴットを重用してくれる代表的な作曲家の1人で、薄暗い迷路を彷徨(さまよ)うような独特の長いソロ(交響曲第5番3楽章)や、歓喜のテーマの裏で奏される奇跡的に美しいオブリガート(交響曲第9番4楽章)など、様々な表情をもった魅力的な見せ場を惜しみなくファゴットに与えてくれます(あまりに垂涎の出番ばかりなので、厚遇されることに慣れていない身としては、こんなにおいしいソロがファゴットで本当に良いのかしらと疑心暗鬼になるほどです)。ただしベートーヴェンの場合、いずれのソロにおいてもその性質として「純朴さ」が根底にある印象です。ファゴット本来の音色で、気張らず、朴訥と自然体で吹くのが最も素敵に響くフレーズばかりであると個人的には思います。こういったところ、やはりベートーヴェンは最もファゴットをよく理解してくれている作曲家の1人といえましょう(ファゴット奏者は概ねベートーヴェン贔屓であります)。
また、今回の演奏会で採り上げる橋本國彦の交響曲第2番2楽章にも、ファゴットの大きなソロがあります。これは我がパートのエース、浦氏が担当しますが、まさしく「古きよき美しき日本」といった、穏やかでもの淋しい素敵なメロディです。こういった日本むかしばなし系のフレーズも、ファゴットの飾らない中音域が自然と情緒をかもし出すらしく、ソロとして吹かせてもらえる場合が意外とあります。
■ショスタコーヴィチにおけるファゴット
ではいよいよショスタコーヴィチにおけるファゴットについてですが、不甲斐ないわたしを叱咤するためにトレーナーの寺本先生が合奏中に仰った言葉を借りれば「ショスタコのファゴットは千両役者。おいしいところは全てファゴットが持っていく」とのこと。千両役者とは大層な称号を頂いたものですが、実際のところあながちお世辞とも言えません。ショスタコーヴィチはオーケストレーションの中で、ソロの管楽器に長いモノローグ(独白)を任せることが多いのですが、そういうのがいかにも上手そうなオーボエとかクラリネットだけでなく何故かファゴットまで語り手に選抜してくる、むしろ最も強調したい本音の部分に敢えてファゴットを充ててくるという傾向があります。
さらに困ったことには、それぞれのソロに求められているのが(というかショスタコーヴィチの曲そのものが往々にしてそうとも言えますが)極限状態に近い苦悩、恐れ、痛みなどの先鋭的な表現であり、ファゴットらしい穏やかさ、純朴さ、おとぼけといった性格とはほぼ正反対であるということです。ただでさえ慣れない大量のソロ、しかもどうやら普通に吹いたのでは到底歯が立たず、生ぬるいファゴットらしさから1本ぷっつん切れなきゃならないらしい、ということでショスタコーヴィチにおけるファゴット奏者は苦悩することになるのであります。
なぜショスタコーヴィチは、ファゴットにとって不向き・不慣れと思われる大立ち回りばかりを敢えてファゴットに与えるのでしょうか。ショスタコーヴィチとファゴットに特化した研究というのは(一応探しましたが)見当たらず、かといって今から彼に電話して聞くわけにもいかないので、これは各奏者が自分で考えねばならない問題です。初合奏から2ヶ月弱の間四苦八苦して吹いてみて、わたしとしては、これはショスタコーヴィチが「意外性の魅力」を狙った結果であるという結論に至りました。普段クラスの中で物静かな子がたまに発言すると学級長以上の重みがあるように、いつもおちゃらけているあの男子が急に真面目に迫ってくるとドキッとするように、常時と全く異なる一面を見せられたとき、人はその意外性に魅力を感じるものです。シリアスでドラマチックなソロが得意で、しょっちゅう受け持っているような楽器が吹くよりは、ファゴットがいつもの穏やかな表情をかなぐり捨てて死ぬ気の形相で吹く方が、普段とのギャップも相まって訴求力の高い、濃密なソロになると彼は考えたのではないでしょうか。ショスタコーヴィチにとっては、雄弁な人の小慣れた物言いより、素朴で普段は声の小さい人が珍しく感情をむき出しにして訴える言葉のほうが、彼の本心を乗せやすかったのかもしれません。彼がそこまで考えたうえで敢えてファゴットを選んでくれているとすれば、わたしが今ソロを前にして不器用にのたうちまわっている苦悩自体も表現の肥やしになるわけです。
それから、実はショスタコーヴィチがファゴットのためのソロ曲(およびファゴットを含む編成のアンサンブル曲)を1曲も残していない、という事実もポイントの1つです。つまりファゴット奏者が彼の曲を吹きたいのであれば1人のままではだめで、オーケストラとかオペラに乗るしか無いということです。どうやらこの作曲家はファゴットのそのものが好きなわけではなく、大編成の中のソロ楽器としてファゴットを使うことが特に好きだったようです。ファゴット奏者にとっては、こうしてショスタコーヴィチの書いた旋律を演奏できること自体が意外と貴重な機会であり、これらのソロが、直接的にショスタコーヴィチの音楽を表現できる唯一のチャンスです。とにかく自分の好きなように彼の鈍色のメロディを吹ける、というのはそれだけで奏者として嬉しいことでもあります。
以上好き放題書き連ねて参りましたが、結論としては当然「ショスタコーヴィチのファゴットはつらいけどオイシイ」ということに尽きるわけです。「千両役者」とヨイショされたところで三枚目が急にスターになれるわけではないですが、せっかく引っ張り上げられた檜舞台の真ん中です。普段のファゴットとはぎょっとするほど違うソロで大向うの皆様を小唸りでもさせられれば、ショスタコーヴィチを吹くファゴット奏者としてはこの上ない歓びであります。