フルートの知られざる憂鬱
常にオーケストラの中央にあり、煌めく楽器を駆使して珠を転がすような音色(たぶん)を聞かせる楽器。華やか以外の形容が難しい印象のフルートの世界にも、人知れぬ憂鬱の種が潜んでいる。楽器の宿命的な特性と、それによって培われる奏者の人格との関係について、同情を買う目的でやや詳しく説明してみたい。
◆息を吹き込む話
『ハムレット』にこういう一節がある。
嘘をつくくらいやさしいよ。こうして指と親指で孔(あな)を押さえるだろう、そして息を吹きもむんだ、そうすれば、美しい音色がでる。(第3幕第2場)
嘘をつく難度は人それぞれだが、その他はその通り。孔を塞いで息を歌口から入れる。これはリコーダーの話だが、フルートを演奏するのも行為としてはこれで全てであって、これ以上でも以下でもない。孔を塞ぐのはもちろんだが、歌口から息を入れるって・・・・・そんな事は管楽器(木管楽器)なら当たり前だろう!と感じる向きもおいでだろう。でも実は違う。
オーケストラに居並ぶ楽器群は、みな独自の発音源を有している。弦楽器ならその名の通り弦だし、金管楽器なら親からもらった自らの唇、そして木管楽器のうちフルート以外は「リード」という振動体を有している。つまりこれが発音源となって楽器の管体に音を与える。このリードは演奏者の身体に直接接触しているので、演奏する者は確実にその振動を体感出来る。
フルートはというと、こうした発音体は備わっていない。あるのは歌口という径10mmをやや超える程度の穴だけである。そしてこの穴の一方に下唇を乗せ、穴の反対側の壁に向けて息を吹き込む事で、音を得ている。実のところ長年フルートを吹いていても、無限に繰返されるこの行為の、一体何によって音がもたらされているのかを理解、どころか実感さえ出来ない人は多いのではないか?と薄々予感している。かくいう僕もそのひとりである。
音が出るからには振動するなにものかが必ずやある筈である。が、それが何かが解らない。例えば管内の空気が振動しているのであろうと想像はできる。だがその振動がどのような過程を経て起こるのか?はよく解らない。フルートのような楽器を指して「無簧(むこう)楽器」などという分類がある。この簧とは振動体すなわちリードの事を通常指す。
そして理屈はわからないがうつろな穴に向けて今日も息を吹き込んでは、出る音に一喜一憂する。こうした行為を長年繰返すうちに、フルート奏者は自ずと人生や世の中のありように懐疑的とならざるを得ず、虚無的な人生観に到達しがちである。貴方の周辺に見え隠れするフルート吹きもきっとこんな人間である(はずである)。
確固たる発音体を有する他の管楽器群は、管の一端にあるその音源を息によって発音させれば、管本体の機能によって変化増幅されて、他の一端からその結果としての音が発せられる。この増幅の最後のひと頑張りをもたらそうと、金管木管の違いを問わずその音の出口を拡げて指向性や拡散効果を期するような構造になっている。この先端部分を通常「ベル」という。楽器によってはこのベル部分の形状に工夫を凝らし、音色や発音に変化を加えようと意図されているものもあるが、それとてその部分から音が出る事が前提となっている。先人の工夫は実りその効果は絶大である。
ところが明確な発音体を持たぬフルートの場合、このベルに該当する部分は「足部管」と名づけられているに過ぎない。何故ならフルートに於いてはこの管の末端部からは殆ど音が出ていないからである。音は例の歌口の処から理由もわからずに出ているだけだ。
マーラーの作品ではオーボエやクラリネットは構えた楽器を上に向け、ベル部分から発せられる音の指向性を活かし、これらの楽器の音をより強調する手法が時折現れる(ホルンなどは奏者を後ろ向きにして演奏させる事までやる)。ベルを持たないフルートには何らなす術もなく、勢いよくベルアップする周囲の楽器に対し「何も臆面も無くそこまでやらなくとも・・・・・」とは思いつつも、永劫回帰仲間入りできないわが身に、一抹の寂しさを感じているものなのである。そしてやおら背筋を伸ばし、胸を張って「こちらとしても精一杯音を出しております」という姿勢(もちろん何の効果も無い)を大仰に示してお茶を濁しているのが実状で、フルート吹きがマーラー嫌いになるとすれば、果たしてこんな処に遠因があるかも知れない。
そもそも懐疑的な性格は、周囲からの孤立感が深まるに従い、このようにして更に被害者意識を増幅させるに至る・・・・・フルート奏者の人格は形成されてゆくのである。
◆孔をふさぐ話=運指=
フルートの音域は3オクターヴを超えるから、単純に考えれば約40種類ほどの音が出せる事になる。これらを出すためには胴体にあいた孔を開閉して調整する。この開閉は10本の指でそれぞれの孔を担当させる訳だ。標準的な楽器の孔の数は12個。これを10指で賄わなくてはならない上に、右手の親指は楽器を支えるためだけに存在していて他に何もしていない(笑)ので、その他の9本の指で全ての孔の開閉が可能なようにキイのシステムが考案されている。因みに右手親指の役割はオーボエもクラリネットも同じで、楽器の保持に専念。例外はファゴットで、この指に10個以上のキイの操作を課しているのである。どうしてこういう事になってしまったのかは知らないが、「生まれ変わってもファゴットだけはやれないだろうな」と、個人的には諦念に近い感慨を常に抱いている。
驚くべき事にフルートの基本的な指遣い(運指という)は14種類しかない。つまり隣り合った指を順番に離していく事によってほぼ得られるこの14の運指を覚えさえすれば、明日からといわず老若男女を問わず3オクターブを超える音をフルートで出せるようになるという誠に喜ばしい現実が待っている。リードの心配をしないで済むという特長と考え合わせると、フルートという楽器は金管楽器にむしろ近い。
フルートは強く吹くと(音量を上げると)音程が上ずり、弱く吹くと下がるという宿命的な特性がある。これにはまず歌口に吹き込む息の角度を変え、本来吹き込む息の「半分」を目安にしている管の中に入る息の量で調整するという事で対処する事になる。すなわち音量を上げるに従って管の中に入る息の量を増やし、音程を下げる(上げる場合にはこの逆)。この微妙なさじ加減を誤って不用意な音を出すと、飯守先生あたりからすかさず「音程!」と呪詛のお言葉を頂戴する事になるので、それはそれは神経を使うのである。
ただこうした息の加減で音程を作る場合、弱く吹いて音程を上げなければならない(或いは強く吹いて音程を下げなければならない)場合に様々な制約が生じる事がある。こうした場合の対応策として変則的な運指、いわゆる「替え指」が必要となってくる。
或いは全てのキイを押さえる運指と、それらを全て離す運指の音の組合せのトリルは、正規の運指では物理的にも音楽的にも不可能なので、そこには「トリル運指」という特殊な替え指が存在する。これは他の木管楽器でも事情は一緒。
フルート奏者とはこうした事を蔑ろに出来ぬ人種で、そうした替え指の集大成として「運指事典」というものが出版されている。他の木管楽器でこうしたものが出版されているとの話は聞いた事が無い(あるかも知れないが)。フルートの替え指ほど単純でない事が理由かもしれないとは思う。いずれにせよそこには音程調整やトリル運指の他に様々な重音(すなわち3~4個の音からなる和音)を出す運指など、あらゆるものが網羅されていて、オーケストラの作品でも出くわす機会の多い特殊なトリルなどは、この事典なしには対応し得ず、これはこれで役に立っている。
だが実際の演奏の現場では、この事典にある運指だけでも足りない。自分の奏法・・・・・というより癖や、使っている楽器の特性に合わせ、自分なりの替え指を日頃から準備し、適切に使うという事がどうしても必要になる。身につけるべき運指の数は無限にあり、比べて人生は余りに短い、のだ(苦笑)。
そもそも替え指によってもたらされる音の殆どは、単独では凡そ音楽として使いものにはならない。他の一連の正しい音との間に挟んでこそそれは生きる。冒頭のハムレットの言葉と符合しないでもないが、すなわち替え指とはある種の「嘘」であって、他の真実と綯い交ぜにしてこそ初めてその一連のストーリーをより本当らしく見せる機能を持つ。最も一般的に使用されている教則本である『アルテ』は、その最終の第3巻の殆どを替え指のための練習曲に充てているが、これなどさしづめ「上手に嘘をつく」ための練習に他ならない(幸いな事に、大抵のフルート奏者はこの最終巻に行き着く前にどこかで挫折する)。「嘘も方便」を地でゆく話であって、不条理といえば不条理極まりない。
そしてそうした不条理を忘却するために、特定の替え指を知らないが為に正攻法で挑んでは練習で苦労したり本番で失敗したりする他のフルート奏者の姿を目にしては、「馬鹿正直は時に罪悪だよなぁ」などと言って内心ほくそ笑みつつ僅かばかり溜飲を下げているのが、フルート奏者の偽らざる姿なのである。
◆楽器の話=材質=
フルート以外の奏者は、隣で演奏する同パートの人の持つ楽器が、自分の楽器とは異なる材質で出来ているかもしれないなどという事を、恐らく生涯夢想だにしないだろう。余りに当たり前の事だからで、それは平穏な人生を意味している。
だがフルートは全く別世界だ。今シーズン演奏するマーラーの交響曲に出ているフルート奏者4名の楽器は木管あり14金あり銀製ありと全くバラバラだが、こうした事は特に統一する意思を明確に出さない限り奏者各人の自由に委ねられるし、それが普通という感覚がこの世界にはある。考えてみれば不思議な事だ。
パリ管弦楽団の往年の首席フルート奏者であるミッシェル・デボスト氏はこんな事を書いている。
「黒魔術が流行している」と物理学者や音響学者はいって、周囲の音響条件すなわち空気、および管の形状とサイズしか重要でないと反論するだろう。管の材質だって無視される。
でもわれわれフルーティストは、フルートに使われるさまざまな材質のあいだにはひとつの世界があって、これはたんに値段の問題ではないということをよく知っている。(『フルート奏法の秘訣』)
材質によって音色が変わる・・・・・という科学的な根拠は無いとされている。が、これはどうであろう。例えばフルート以外の木管楽器で金属製の楽器がまがいなりにも存在するのはクラリネットだけである。これさえ滅多に目にしたり音を耳にしたりする機会は無い。オーボエやファゴットの金属化はとうの昔に断念されていよう(そもそもそういう発想がない)。そうした楽器に「金属化」が進まないのは、逆説的だが金属管にする事によって本来の音色が変わってしまう事を恐れている事が理由ではなかろうか?だとすれば、材質と音色には一定の関係がやはり認識されている事になる。
フルートの場合、管の材質には様々な金属が試されてきたが、近年は洋銀・銀・金・黒檀(要するに木管だが、この分野にもかつては様々な素材が試された)あたりに落ち着いた感がある。だが特に金と銀については細分化が急速に進行して「収拾がつかない」状態に陥っていると見るべきだろう。
例えば銀。これは元々規格が決まっていて純度は925/1000すなわち92.5%が基本だった(残り7.5%は銅)。僅かにドイツの古い楽器に一部900/1000の純度のものがあった程度。だが今や純度は950/1000や953/1000や958/1000果ては997/1000というものまで現れた。なぜ953とか958のような中途半端な純度のものがあるかというと、これは冶金技術の未熟だった時代(19世紀後半)に造られたフランスの名器の材料を分析した結果としてはじき出された純度という触込み。この時代の名器には人気があって、今でも現役として使用されているので、それを発展させたモデルというものが商品として価値を認められているという現実がある。
だが、そうしたこだわりを具現化したものを含め、商品の選択肢としては非常に拡大されたものの、何がどう違うのか?はこの問題によほど強い関心を持つ人以外には恐らく永遠に解らないだろう。
更にここに管厚というもうひとつの要素が加わる。この銀の場合、管体の厚さは0.33mmから0.46mm程度まで5段階ほど規格がある。これと上記の材質と組合せると、これはもう混乱以外の結果を予想できない(こうして極めて単純化して状況を説明しているだけで頭が痛くなる)。もちろんこうした選択肢は金製の楽器にもあって、当然お値段にもはね返ってくる。
それでも・・・・・そうした混乱の極みともいうべき選択肢から、各人は自分が今後つき合っていくにふさわしい伴侶を選んでいる。フルートを吹く人々というのは、よほど根気が良いのかこだわりが強いのか、或いは真逆で全く何も考えてないのかものごとに無頓着なのか、思い切りが良いのか付和雷同しているだけなのかよく解らない部分がある(恐らくは自分でも解っていない)。
大抵の場合、息を吹き込んで鳴るまでの抵抗感や持った時の感触で最終決定している。もちろん世の中には「音色」を評価基準にしていると高言する人は絶えないが、楽器本来の音色が「試奏」程度の短い時間で出せるという錯覚を起こしているという共通点がある。
仲間の誰かが新しい楽器を入手したとき、或いは初対面の同好者に使用している楽器を確認するとき、それがどんなものなのか?を理解するのに、フルート以外の管楽器であればどこのメーカーのどういうモデルかを聞けば大体はそれで済む。ところがフルートの場合全く事情が異なるのだ。しっかりした楽器を造っていながら全然聞いた事のない個人的な工房というものが常に生まれている一方で、規模も販売網も確立している専門メーカーが世に出しているモデルの数は数知れず、その型番を聞いたところで実際には何も判らない。故にメーカーを聞き出すのと並行して、先記の材質(それが翡翠や象牙やヒトの大腿骨でないとどうして言えよう)から管厚や歌口の形状やメカニズムの仕様など逐一を聞き出し、ようやくにそれがどういうものであるかを頭の中で思い描ける状態になる。極めて厄介な話だが、フルートを吹く人々というものはこうしたネタを絶えず探し回っている厄介な存在だから、何ら苦ともしないのである。
一定以上の規模がある楽器店のフルートの売り場は、貴金属店のそれと同じ雰囲気を持っているし、各楽器に付いている値札の数値も概ね100万円単位(!)で同じようなものだ。僕は現在、昨夏ネットオークションで落札した銀製(925/1000)の楽器を使っていて、富裕層で構成される新響のパートメンバー各位の、目も眩まんばかりの錚々たる楽器に比べて、桁違いに安いところに落ち着いている(苦笑)が、ここに行き着くまでの紆余曲折やいま家に転がっている楽器の数々については、周囲の人々の広く知るところとなって久しい。先述のデボスト氏も言う。
いずれにせよフルートというのは、あけすけにいえば、ひじょうに金のかかる配管工事以外の何ものでもない。
確かに「配管工事」に金をかけ過ぎた自覚がある。フルート以外の楽器であれば、今ごろ郊外にこぢんまりとしたマンションの1室くらい手に入れていたかもしれず、老後の様相もまた違うものになっていた可能性は否めない。
フルートという楽器とつき合ってゆくに伴う憂鬱は絶えないのである。