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「芥川也寸志と新交響楽団」の晩年

松下 俊行(フルート)


 当初こそ恐る恐る自分の体験を書いていたが今や何の遠慮も臆面もなく私的な回想を書くようになってしまった。今回もお許し戴きたい。
 私は新交響楽団が設立された翌年の生まれで、つまりはこのオーケストラとほぼ同年齢であるという事に、迂闊にも最近になるまで気づかなかった。考えるだに恐ろしいが、新響は来年2016年に創立60周年を迎える。この記念すべき年の演奏会企画は何年も以前から団内で取り沙汰されていたにもかかわらず、「60周年」の時期を、自分の人生の行く末と重ね合わせて考えた事が全く無かったのだから、締まらない話である。まぁそれは仕方がない。


◆1987年2月の会合
 新響に入団したのが1982年。25歳目前の時期で、新響は設立以来四半世紀を経ていた事になる。むろんこのオーケストラは常に芥川氏と共にあった。もはや歴史というより神話の時代に入りかけているソ連への演奏旅行や、ストラヴィンスキーの三大バレエ音楽一挙上演。そして創立20周年の折(1976年)には芥川氏の企画力と指導力により、『日本の交響作品展』を挙行し、「芥川也寸志と新交響楽団」として翌1977年にサントリー音楽賞を受賞。どれひとつとってもアマチュアオーケストラとしては未曾有の快挙であり金字塔だった。
 指揮者とオーケストラとは程度の差こそあれ絶えず緊張関係が介在するものだ。だが前述のような歴史を築き上げる中で、芥川氏と新響は長く蜜月時代を送ってこられたのではないかと想像できる。思うにサントリー音楽賞受賞という大きな成果を得てからの数年間が、彼と新響の歴史の中でも充実し活気に溢れた活動を展開した時代だったのではなかろうか。
 だが私が飛び込んだ1982年時点では、団内にはやや異質な空気の萌芽が既にあり、それは時を経るにつれ濃厚になっていったように思える。本来蜜月とは長くは続かないからこそ蜜月なのだ(この齢になれば断言できる)。
 この時期になると、芥川氏という親の庇護の下に未だありながら、無体に背伸びしたがる思春期を、新響というオーケストラは迎えていた。強いて言えば、指揮者としての芥川氏の「音楽(性)」に飽き足らないものを感じ始めたという事もあろう。また団員の世代交替(後でも述べる)に伴い、新響を支えてきた組織の制度疲労に起因する矛盾や問題も表面化しつつあった。ひとたびそうした時期に入ってしまえば、元の「子ども」の時代に戻る事はあり得ない。芥川氏も練習を通じてそれを敏感に感じ取り、常に何らかの苛立ちが介在していた印象が強い。
 例えば氏が音楽監督である事を前提にしたオーケストラの諸制度は、活動の実状から次第に乖離したものになっていたと感じる。管楽器奏者各員の出番(ローテーション)は、各パートの首席奏者が独自に決め、音楽監督が最終的に承認するという形に(少なくともタテマエは)なっていた。だがそれは団の草創期のように芥川氏が毎回の練習に指揮者として指導し、全団員にくまなく目が行き届いて個々の技量を正確に把握出来てこそ初めて成り立つ。130名以上の団員を抱え、且つ氏が指揮をしないシーズンにまで適用できる制度ではなかろう。そして実際、各パート間の情報共有もなく、より有効なパート間の人員配置(残念ながら長く同じオーケストラで演奏活動をしていても、奏者間の相性の良し悪しと言うものは存在するものなのだ)への配慮も行われず、その為初回練習で隣に座った他パートの人と「おや、貴方が今回はこの曲に乗っておいでですか」と挨拶を交わすのが常態で、今考えると笑い話のような光景だ。現在このローテーションのすり合わせは、演奏委員会の重要な職務のひとつとなって久しいから、まさに隔世の感が深い。
 更に団員誰の目にもはっきり目に見える不合理として、芥川氏が「君臨」する練習の場にその理由があった。当時も今も練習への出席率や5分前にはチューニング開始といった基本部分は全く変わっておらず、こうした決まり後とが新響を支える根幹である事に変わりはない。だが当時は氏が指揮台に立つや、あとはどのような時間配分や曲順になるかはこの指揮者の胸先三寸で、管楽器奏者はいつ来るか判らぬ自分の出番に備えてひたすら外で待機し、結果として最後の10分しか出番が無いという事もままあったのだ。


 さすがにこうした練習方法については抜本的な見直しが必要だとの認識が団内に醸成されつつあった。また新響がオーケストラとしての合奏の技術に行き詰まっているのではないかとの認識も急速に浸透しつつあった。「アマチュア」の勢いを失わず、且つ合奏の技術を高めてゆくのは、現在の新響でもはっきり難しい。況して芥川氏は「勢い」を最優先に考えており、これを矯めてまでして合わせる事を、少なくとも積極的には新響に求めていなかった(はっきり言えば否定していた)。
 コンサートマスターにして技術委員長だった白木善尚氏(昨年12月他界。享年58)が主体となり、インスペクターの役職を設けて練習計画の策定や時間配分を芥川氏と事前に確認する道筋をつけると並行して、合奏体としての技術を高める為の方法論が運営委員会の場でさえ議論されるようになった。
 平素より勢いや元気を優先する新響の演奏に対し(主に酒席で)不平を抱いていた私は、考えるところを10ページほどの資料にまとめて合同委員会の席上で呈示した。それが白木氏や初代インスペクターとなったヴィオラ首席の柳澤氏の目に留まり、インスペクターグループの一員に組入れられる事になった。これが1987年の半ばである。
 さて、当時の新響規約を目に出来ないのでやや記憶は曖昧だが、現在の団長の職名は「理事長」と云い、その下に技術委員会や各運営業務を統括し代表する5名の「理事」がいて、「理事会」を構成する。このメンバーが新響側を代表して、音楽監督である芥川氏と意思決定に携わるという制度だった。今回当時の日記を読み返して改めて判ったが、インスペクター制度が始動して間もない時期から、このグループからも理事を出す話が持ち上がり、年末の総会で私が承認された。と言っても、ボンヤリ総会の会場に入ったら開会直前に柳澤氏に手招きされ、「お前やってくれ」と闇雲に言われて気づいた時には承認されていたという経緯。だがとにもかくにも入団5年、満30歳にして新交響楽団の理事になった。今こう書いてみても何か立派そうだ。確かに当時は一介の運営委員に過ぎなかったのだから一種の大抜擢で、我ながら大した出世である(笑)。そして何をやれば良いのかの説明も受けず(説明しない方も問題だが)に引受けたのだから、偏に愚かというべきであろう。
 その最初の理事会に出席すべく芥川邸に赴いた日の事である。1988年2月7日日曜日の晩。新響に飽き足らない私は東京マーラーユーゲントオーケストラ(TMJ)という団体の代表となり、3週間足らずに迫ったサントリーホールでの演奏会の練習とかけもちだった。ソ連という国家もベルリンの壁も磐石と思われた冷戦時代末期(文中の「左傾化」の語も今では想像さえ難しいだろう)、日本はバブル景気で騒々しい時代だ。
 私の日記の当日の条に以下の記述がある。やや長いが引用する。
 
 (前略)・・・・私はと云えば調子の悪い分奏で練習を終えると皆と別れ、成城に向かった。新響の理事会の為、芥川氏邸に集まる予定であったのだ。メンバーは土田・R.K.・白木・北村・S.K.(注:原文はいずれも実名。現在も新響に在籍若しくは故人のみ原文のままとした)そして私の6名である。私は今回新たに理事会の構成メンバーに加えられたインスペクターの代表としての出席である。
 この晩、来年7月のコンサートに際して細川俊夫氏に委嘱作品を依頼するか否かが焦点となった。「広島」をテーマにした人声や録音をも使用したものとする計画について、作曲者自身の言により確認しているが、何せテーマがテーマである。私個人の気分としては、日本の社会状況を考える限り、余り乗り気にはなれないのだ。過度に左傾化した現状を考えると、実にこのテーマはとらえ難いものとなってくる。妙に政治臭が漂い、後に新響の歴史を振り返った時、何やら実にエゲツナイ行動をとったと評価されはしまいかと不安になってくるのである。これは漠然とした不安以外の何ものでもないが、私は一種の胸さわぎを覚える。
 芥川氏もこの点に触れ、団員のコンセンサスがとれることが最重要の由語ったが、同時に何故細川の作品を新響がやらねばならないのかが全く不可解、との旨も明言した。正直な処不快感を拭い得ぬという様子であった。私は我が意を得た(部分的に!!)。確かに細川氏の作品を今とりあげなければならぬ必要は何もないのである。
 会合は10時すぎまで続いた。・・・(以下略)


 芥川氏は翌年1月末に亡くなっているから、この会合は氏の最晩年の時期だった事に思い当たる。更に云えば僅か2ヶ月後の4月24日、芥川氏が保存運動の先頭に立った上野の奏楽堂での演奏会が、新響との最後のコンサートとなった訳だから、この晩に彼が示した新響の活動への不満は、結果として「遺言」とも言える性格のものになった。そして「広島をテーマにした」作品は『ヒロシマ・レクイエム』と題されて翌年7月に委嘱初演されている。だが、それは最終的に第5部にまで膨らんだこの作品の冒頭のふたつ楽章に限られてしまい、初演の記録にも新響の名は残っていない。芥川氏の懸念はある意味で的中していたとも言える。


◆永続すべき組織と個人の宿命と
 ここまでの拙文を読まれた方は、殊更に芥川氏と新響の運営陣が対立する図式を思い浮かべるかもしれない。こうした誤解の発生を最も私は恐れる。
 この晩芥川邸を訪れた6名は、実は私に限らずみな30歳そこそこの世代だった。つまり新響と変わらない「年齢」で、もちろんこのオーケストラの誕生前後の事をなにひとつ体験していない。だがこの世代はそれぞれが学生時代に所属したオーケストラを通じ、新響とは別の「アマチュアオーケストラ」のあり方を体現して来ていた。そうした目に映る新響の実状には、これは敢えてネガティヴな言い方をすれば、疑問やある意味の悪弊を感じる部分があった。また当然ながら新響という団体の活動を今後このようにしていきたいという意慾が根底にあった。そうした将来的な活動の可能性のひとつとしてこの日、委嘱作品の話が俎上に上った訳で、これは我々にとってはあくまで一例に過ぎない。
 芥川氏が毎回企画して1976年から続いていた『日本の交響作品展』は既に創立30周年に当たる1986年に終了していた。新響と言えば邦人作品とのイメージを流布させたこの輝かしい企画も、年を経るにつれそれにふさわしい「作品」や作曲家の候補が先細りとなり、集客や団員の士気を保つ事が困難になっていった。そして団員側からの逆提案で氏の作品展とする事でその掉尾を飾る事になったのである。彼は「自分の作品を新響で演奏したいが為にこの企画を始めた訳ではない」と当初は難色を示したと聞いた。だが作品展の行き詰まりは誰の目にも明らかとなっていたのだ。
 翌1987年には『中国作品展』を芥川氏の提案で行っている。今とは比較にならぬほど中国は「遠い国」で、そこから作曲家や演奏家を招聘するには彼の政治力・影響力が必須だった。これは当初から単発ものであったので、1988年以降の企画に頭を悩ました結果として団員サイドから出てきたのが細川俊夫氏への作品委嘱というアイディアだった。この案は『日本の交響作品展』企画が進行していた時期には到底想定され得ないものだったと想像する。その是非については、この音楽監督の入院による沈黙とその末の逝去によって、永遠に答えを得られなかった。つまり見切り発車の形で翌年実行された事になる。


 組織にとっては、ある時点の条件化では必然だったり最善だったりした事も、時間の経過と周囲の条件の変化によって、やがて弊害が生じて必ず見直しを迫られる時期が来る。創立から一世代30年の時を経て、新響という組織も確かにひとつの転機を迎えつつあった。芥川氏の晩年がちょうどそれに重なりってしまった事は、組織と個人の「寿命」の差異の象徴にも思え、創立から30年間の「芥川也寸志と新交響楽団」の時代に彼が成し遂げたまばゆいばかりの活躍の軌跡を思い起こすとき、尚更の感慨を禁じ得ない。
 30年近い時間が流れ、あの場にいた我々も当時の芥川氏の年齢に近づいた。「還暦」を迎える新響に対し、有限な存在が新響という組織に改めて、何を遺すべきかが問われているとも言える。当時の彼が我々の世代に対して抱き続けた「伝える姿勢」こそに、いま想いを致すべきなのだろうと思うのだ。

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