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小説『仮装集団』と新交響楽団=虚構と現実のはざま=

松下 俊行(フルート)


 仮装集団と聞くと、昨今は11月あたりの渋谷の鬱陶しい雑踏風景を思い浮かべる向きも多かろうと想像するが、これは先年亡くなった山崎豊子氏の小説の題名である。この作家といえば『白い巨塔』をはじめ『大地の子』『不毛地帯』『二つの祖国』『沈まぬ太陽』などドラマや映画になった作品がまず出てこよう。或いは大阪の船場の商家を舞台とした『暖簾』『ぼんち』『女系家族』などの初期作品を愛好する人も多い。だが『仮装集団』の名を挙げる人はなかなか無い。この小説は作家が社会派小説を手がけるステップとなった重要な作品ながら、知名度も低く例外的に映像化もされていない。それは音楽を隠れ蓑にした、特異な実在組織をテーマとした異色の作品となっているからであろう。


 主人公は流郷正之(りゅうごう・まさゆき)という35歳の男。大阪の勤労者音楽同盟(勤音)で演奏会企画を担当している。この勤音が発足したのが昭和20年の終戦から6年目、小説の舞台はその7年後に設定されているから昭和33(1958)年頃で、現実の世界では新響が「東京労音新交響楽団」して発足した直後の時期という事になる。著者はこの小説はフィクションであり、作中の「勤音」は実在する労音(勤労者音楽協議会)とは無関係であることを強調してはいる。が、作品に描かれるこの組織の描写を見れば、労音をモデルとしている事は衆目の一致する処だ。つまりこの小説は新響創立当時の出身母体たる労音内部の政治的状況の変容を描いているという点で、極めて興味深い作品なのである。
僕自身はこの小説を30年以上前、新響入団直後に読んだ。出版社にいる大学時代の友人に、新響に入った事と、この団体が過去に労音との関わりがあった事を話すと「ああ山崎豊子の『仮想集団』だね」といきなり切り出されたのだった。彼は在学中に僕の影響を受け(これは極めて珍しいが事実である)、音楽愛好家となった博覧強記の畏友だが、思わぬ所から労音に関連する文学作品の情報を得た事になる。やはり持つべき友は選ばねばいけない。


 小説は、流郷が企画した『蝶々夫人』のステージ場面から始まる。クラシック音楽とは本来縁遠い勤労者をも対象とするだけに歌舞伎の要素を演出に採り入れる。鑑賞する側の理解と共感を得て、アンケート調査の結果も良好。勤音への入会者は一気に増大して成功裡に終わったかに見える。
 だか、こうした企画とその演奏会の真の成否の評価は後日開催される「運営委員会」による批評会に委ねられるのである。この運営委員会を構成するのは各企業や業界の労働組合の代表者。するとそこで展開される「批評」というものもひと味違ってくるのである。
 例えばこんな発言がされる。
 「今度のオペラは、アメリカやヨーロッパで上演された「蝶々夫人」の流れを汲む単なる恋愛形式のもので終わっている。我々の意図する「蝶々夫人」はそんなものではない。例えば第一幕でピンカートンが蝶々さんと結婚するその日、「未来の妻はアメリカ女性」と唄うところがあるが、あれなど、日本女性に対する人格無視も甚だしく、明らかにアメリカ帝国主義者の被圧迫民族に対する優越的な態度というべきでこういった彼らの思い上がった優越意識は、日本人に影響のある水域で水爆実験をする時の行動、つまりわれわれをモルモット視している意識に共通するものがある!」
 最初にこの部分を読んだとき、苦笑失笑あい混じった笑いを禁じ得なかった。いくら何でもこれはこの団体の特異さを示す為に、作家が敢えてした誇張だろうと考えてようやく納得した覚えがある。そしてそのまま長く忘れていた。


 さて、前回の第232回演奏会のプログラムに掲載された座談会『新響のルーツを探る』は、新響の発足当初から労音から独立する前後の状況に関する当事者の貴重な証言を収めており、個人的には極めて興味深かった。『仮想集団』に描かれた内容は決して虚構ではなかったのだという驚きと感慨を抱くに充分だったのだ。今回本稿を起こすに当たり小説を再読中、前述の発言箇所から座談会の一節が思い起こされた。労音からの独立=新響創立~独立当時、長く運営委員長を務められた戸田昌廣氏の次の談話である。
 私は労音の会員になっていたけれど、組織の中にいても分からなかった。最初に違和感を抱いたのは、ベートーヴェンの第9を東京労音合唱団と一緒に演奏した時かな。その時にまったくピントはずれなことを言ってきたのです。たとえば「芥川也寸志は自分のテンポで振っているけど、こちらは労働者のアマチュアだからテンポなどは話し合って決めてもらいたい」とか。オーケストラではそんな事は考えられないよね。


 音楽作品のテンポを話し合って決める?荒唐無稽な話である。だがこの荒唐無稽な事実を知り、初めて例の作中発言に作家の誇張でも戯画化でもないリアリティが感じられた。『仮装集団』を読み進むと、戸田氏の語られたこの事実が更に深い意味を持っていた事は後述する。
 いずれにせよ共通するのは音楽の、そして芸術精神の不在だ。演奏の良し悪しなど関係ない。あるのは特定の政治思想教化の手段として、作品が有益か否かの価値判断だけだ。
だがそうした中で、学生時代以来の音楽愛好の延長線で勤音に入った流郷正之は、自分のヴィジョンに基づいて企画した演奏会の成功のほかに関心を向けない。彼はひとりこうした議論を冷めた目で見やりつつ、次なる企画への野心を育てる。そしてショスタコーヴィチの『森の歌』を取上げてその実施に向けて動き出す。
 米国を帝国主義と非難する団体なのだから、ソ連建国の讃歌たる『森の歌』の上演は結構ずくめにも思われるが、決してそうではない。勤音では例の運営委員会の承認を要するのだが、
 「今度の『森の歌』を決める時、運営委員会で、『森の歌』は、ショスタコビッチがプロコフィエフやハチャトリアンなどと一緒にソ同盟共産党中央委員会から、資本主義文化の影響を受けて音楽の社会的使命を忘却したと批判される前の作品か、以後の作品であるかを問題にし、ショスタコビッチが中央委員会の批判を受け入れた後の作品だというので、取り上げることになったそうじゃあないですか」


と、勤音会員の会話によってこの選曲の内部事情が説明されている。しかもこの曲はスターリン死後批判が起こると、彼への礼讃部分の歌詞が変更されたシロモノだ。思想が絡むとこうした音楽不在の論議が必ずつきまとう。
 わが新交響楽団の選曲は合同委員会で検討されるが、例えば昨年春に演奏した橋本國彦氏の交響曲第2番を決める議論の過程で、「橋本國彦の交響曲第1番は皇紀2600年を奉祝する目的で作曲された作品であり、天皇制を無批判的に肯定し、ひいては軍国主義讚美につながるものである。新響として取り上げるべきではない。橋本が戦後公職を追われ、戦争協力を自己批判した後に書かれた第2番こそが不偏不党・平和主義?を標榜する新響の演奏対象にふさわしい」との意見が大真面目に呈示されたとすれば失笑を買うだけだろう。幸いこうした意見は無く(あたりまえ)、第1番も新響は20年前の創立40周年の折りに演奏している(曲折はあったが)。自由な選曲・・・・この当たり前の事が出来ない窮屈さは、現在では想像しがたい。


 勤音会員を合唱団に動員した日本語訳による『森の歌』の上演(因みに実在の大坂労音は1954年8月に労音会員の合唱団によって上演している)は大きな反響を呼び、会員数は更に増大。流郷の組織に於ける評価も高まり、やがて企画責任者の地位を得る。だがこの上演を分水嶺として次第に彼を取巻く内外の状況に変化が進行してゆく。
外部の変化は、こうした盛り上がりをみせる勤音の活動に危惧を覚えた財界の動きである。娯楽に乏しい戦後の時期、社員の余暇管理目的で各企業が設置援助している社員の合唱サークルが、この『森の歌』に参加して「ソ連建国万歳、レーニン万歳」を歌い上げる事を放置していられる訳がない。作中では日東レーヨン社長門林雷太(もんばやし・らいた)が、大阪の財界に提唱して労音に対抗する組織結成を図る。当時繊維は花形産業だ。その業界大手の社長ともなれば財界への影響力も大きかろう。
 実在の団体として「音楽文化協会(音協)=1963年4月設立=」がこれに該当するが、設立はこの小説の舞台よりもう少し後だ。だが作中では豊富な資金力にあかせて一流演奏家を招聘し、硬軟合わせたプログラムを低廉な会費で提供。短期間のうちに勤音と熾烈な競争を繰広げる存在に成長するのである。これは目に見える敵だ。流郷は対抗すべく、勤音内部の様々な抵抗や制約を受けながらも、ヒロインを勤音会員から公募するアイディアを打ち立てて、「創作ミュージカル」の実行に奔走する。
 勤音内部にも変化が兆し始めていた。全国組織結成を期に政治色が急速に濃厚となる。勤音の顧問となった文化人を参院選に推そうとする処から始まって、「人民党」の支配が強まり尖鋭化してゆくのである。そしてこの党の路線を反映する形でソ連から中共(中華人民共和国)への傾斜が明白になってゆく。
 流郷が提案した勤音の創作ミュージカルを決定する委員会でも党の息のかかった幹部から、
 「勤音のミュージカルは、会員の主体性を生かすところに最も大きな意味がある、その意味で現代の中国が一つの歌舞劇を作るのに、一人の作家、一人の作曲家に任せきりではなく、大衆討議にかけて、大衆が納得するまで何度も修正しながら完全して行くという創造方法を、われわれも学ぶべきだと思う」


との発言が出る。前述の「『第九』のテンポは話合いによって決めてもらいたい」という労音合唱団員の声と軌を一にしている。またシナリオ作家の人選では「~のような修正主義者では会員は承知しない」という声が上がる。
 だが流郷は演奏会にかける企画として目ぼしいもののない中国歌舞団や、人民党の影響下にある日本の民俗芸能集団の公演案を歯牙にもかけない(実際これは失敗する)。結果、組織内の中ソ対立の図式の中では「親ソ」とみなされてしまうのである。更に彼はソ連の著名なヴァイオリニストを招聘して苦心の末コンサートを挙行する。これが彼にとって致命傷となった。


 この様な組織内部の路線の変化については、当時の新響の立ち位置を含めた労音の実態として、前述の戸田氏が座談会冒頭で簡潔・的確な説明をされている。
 当時のソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)はスターリンからフルシチョフの時代になり、スターリン批判を行って平和共存へと路線変更をしたんです。それが原因で平和共存路線を受け入れられない中国とソ連が喧嘩をはじめました。当時の中国はソ連のことを「修正主義」と呼び、ソ連は中国共産党のことを「教条主義」と呼んで、互いに非難し合っていました。一方日本の共産党は中国寄りで、社会党はソ連寄りでした。・・・・(中略)・・・・労音の中では共産党が勢力を握っていたので、新響はまさに共産党の文化サークルだったのです。


 このように現実の労音は日本共産党の支配が強まり、親中共への転換が進行しつつあった。小説の中で描かれる、勤音から人民党に資金が密かに流され、組織が急速に党に侵食されてゆく不気味な動きは、中ソの国家間対立に端を発する代理戦争が、末端の組織にまで浸透していた顕れという事になる。
 こうした末に行われた勤音の運営委員選挙では親中共派が多数派となって実権を握り、流郷が手がけていたソ連関連のプログラムは全て中止となるに至る。
 勤音の人民党による支配が明確となった情報を得て、音連の後援者たる関西の財界関係者が会合をもつ。その席上、膨大な信徒を擁す、さる宗教団体も更なる信徒獲得の為に音楽鑑賞団体を設立する計画が話題に出る。それを聞いて門林は言う。
 「なるほど、そうすると、音連も勤音も、新しく出来る宗教音楽協会も、みんな音楽以外の目的のために音楽鑑賞団体をつくって人集めをしているわけで、これからは三つ巴の乱戦というわけやな」


 この第三の団体は現実には創価学会が母体となった「民主音楽協会(民音)=1963年10月設立=」なのだが、考えるべきは「音楽以外の目的のために」みなが団体を拵えているという門林の本音であろう。その目的は三者三様だが、音楽はその目的に至る手段に過ぎない事が、ここで明白になる。
 音楽を愛好する。それだけが流郷の原動力だった。が、この組織内でそれを純粋に保つ事は最早出来ない。全てが政治的に色分けされてしまい、否応なくその奔流の中に身を投じざるを得なくなる。これは労音に於ける芥川氏の場合も同様だったと言えまいか。戸田氏のお話、
 芥川先生が共産党ではない方向へと動き出しはじめたのです。上野の東京文化会館に練習場が移ってからすぐの頃、芥川先生は長期間アメリカへミュージカルの勉強をしに行き、「南太平洋」や「回転木馬」などの楽譜を持ち帰って来ました。帰国後に労音の事務局へ行ったら「なんだ、アメリカかぶれして」と、とても批判的な言葉を聞き、えっ、と驚きました。労音の中ではだんだんと芥川也寸志が邪魔になってきて、何とか彼を労音から追い出す手はないかと思い始めたようでした。


 芥川氏の姿は流郷と重なる。芥川氏が変わったのではない。労音が変わったのだ。組織の目的が変わり、その手段としての音楽が、変質を求められたからに他ならない。「共産党の文化サークル」たる存在だった新響にも決断の時が来る。
 労音をとるか、独立して自力でやっていくか。その結果、自分から飛び出すのはやめよう、ぎりぎりまで待とうということになりました。結果的に1966年3月に追い出されるという形で独立したのです。


 流郷も突然左遷され、事実上勤音を追われる。委員会への出席状況の悪さ、東京への頻繁な未承認出張と経費の多さ、勤音主催の創作ミュージカルの公募ヒロインに手を付けた事(おいおい)、そしてライヴァルたる流郷を音連へスカウトしたい門林社長との面談(密談だが漏れていた。門林が故意にリークしたとの憶測も可能だろう)・・・・現在でも仕事は出来るが協調性のない一匹狼的なサラリーマンがはまりがちな陥穽だが、こうした理由は日頃大仰な理論を振りかざす集団からすれば取るに足らぬ矮小なものばかり。が、殊更に政治的信条を持たぬ流郷に対してはこれで充分だった。余りに呆気ない突然の解任である。
 山崎豊子氏は『白い巨塔』を書くための取材に取りかかるまで、大学の医学部が6年制である事さえ知らなかったという、まことしやかな逸話をどこかで聞いた事がある。文字通り一からの緻密な取材によって巨大な作品に仕上げて行く作家だが、その人にして、『仮装集団』は書きにくい小説だった事を「あとがき」で述懐している。労音側も音協サイドも、ある時期から取材に応じなくなった為であるという。それは音楽鑑賞団体を装いながらも、真の目的を他に秘めた組織の性格が、作家の旺盛な取材力により白日の下に暴かれる事への警戒の顕れに感じられる。
 山崎氏の取材資料の中には新響の労音離脱の記事も含まれていた。小説執筆の時期とは合致しないが、執筆の途上、芥川氏にも取材の手が伸び、作中の流郷の姿に反映されているのではないか?この想像に無理はないだろう。


 この小説から改めて痛感するのは、音楽という芸術が持つ「危うさ」である。個々の音は本来何ものをも表現し得ず、且つそれ自体には何の意味もない。それを編み上げてひとつの作品に仕上げ、意味あるものとする。我々はそれを聴いて創作者の意図に従って理解する。だが理解の対象となるその意図は他の媒体に比べ遥かに伝達の力は脆弱と言わざるを得ない。それは操る人々の思惑が介在する余地となり、様々な「仮装」の道具として利用されてしまう宿命を負っている。
 『仮装集団』が書かれたのが1965年。新響労音離脱の前年である。新響の独立は、労音という組織の政治色を社会に認知させるひとつの象徴となったが、労音以外の団体設立がそれ以前である事を思えば、既にこの組織の過度な政治色は鮮明となっており、利害に障る組織に危機感が醸成させていた。新響の独立はその流れの行き着いた最後ともいうべき時期に当たる。まさにぎりぎりだが、英断・勇断だったと言える。


 それから半世紀の間にソ連は崩壊し、中国は資本主義経済を部分的に導入して米国並みの格差社会に変貌している。この政治情勢の変化によって労音もあり方の変更を迫られ、それに伴って他団体の様相も変容した。
 だが今もどこかで音楽が仮装の手段として利用され続けている事だけは間違いない。そして「オーケストラ」という形をもつ集団さえ、いつの間にか音楽を仮装手段としないとも限らない事を、我々は常に銘記すべきなのだろうと思う。

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