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セコバイ弾きの哀愁、そして矜持

小松 篤司(ヴァイオリン)


 1番は、やはり格好が良い。ある都知事は公約に掲げる、「都民ファースト」と。惜しくも大統領の椅子に手が届かなった女性候補者はかつてこう呼ばれていた、ファーストレディと。各航空会社は利用者に高級感を演出する、ファーストクラスで。ある野球チームの監督はかつてインタビューにこう答えた、「そのチームはイチバンです。」と。
 一方で、これが2番となると、何となく脱力感が出てくる。「都民セカンド」、第三者の厳しい目にも到底耐えられそうにない。セカンドレディ、どことなく愛人感が漂う。セカンドクラス、おそらくトップリーダー的な人には利用されない。「そのチームはニバンです。」そういえば、昨シーズン最大11.5ゲーム差をひっくり返された球団があった。
 その他、二軍、二の次、二の舞、二番煎じ、二の足を踏む、二番じゃダメなんですか等、2番にはどうにもネガティブな言葉、表現が多い気もする。
 ところが、殊にオーケストラにおいては、1番のみならず2番までもが、いや2番こそが、輝くことも時折ある。そう、2番だって決して捨てたものではない。そんな2番手奏者(と書くと実力的に劣るにように思われるが、そんなことは決してない、たぶん…)を務めることが多い、バイオリン弾きの私であるが、その魅力等について、以下に独断と偏見と浅い知識に基づいた薀蓄を披露してみたいと思う。


1:セカンドバイオリンについて
 オーケストラ愛好家にとっては常識の範疇であるかもしれないが、大抵のクラシック楽曲において、バイオリン奏者は第一バイオリン(ファーストバイオリン、通称ストバイ)と第二バイオリン(セカンドバイオリン、通称セコバイ)に分かれて弾くこととなる。ファーストという名のとおり、オーケストラの顔たるコンサートマスター率いる花形楽器であるストバイに対し、セコバイはその次の二番目に偉い、なんてわけはない。むしろ、あまり日のあたることのない、中々地味な役割を与えられることが多い。
 そもそも、セコバイとは何なのか、語弊を恐れずに言うのであれば、バイオリンでありながらバイオリンと認識されにくい楽器である。大抵のバイオリニストは幼少の頃、バイオリン協奏曲の優美な旋律を奏でる高名なソリストを目にして、いつかは自分もこうありたいと夢見るものである。少し大きくなると現実を悟りソリストは無理とわかりつつも、オーケストラという集団に新たな可能性を見出し、壮大な交響曲のメロディを華々しく演奏するバイオリニストの姿を想像するのが、世の常であると思う。ただ、そのメロディ等を演奏できるのはバイオリンといってもストバイの方であり、その陰に隠れるセコバイにまで考えが及ぶことはない。すなわち、ソリストやストバイに憧れてバイオリンに興味をもつ人はいても、派手な出番のないセコバイをやりたくてバイオリンを始める人は、ほぼいないといえる。
 幸いにというか、この新交響楽団のバイオリンパートはストバイとセコバイのメンバーが固定されているわけではないため、演奏会ごとにいずれのパートも経験することができる。とはいえ、セコバイに割り当てられたメンバーが毎回ふて腐れてモチベーションも上がらない中で演奏しているのかといえば、決してそんなことはない。実は、セコバイにはセコバイならではのやりがい、楽しさが存在するのである。


2:セコバイあるある
 セコバイ弾きがオーケストラにおいて、普段どんなことをしているのか。以下、あるあるネタ形式でざっと挙げてみたい。


(1)とりあえず「刻み」
 これはざっくりと言うと、オーケストラにいる他の楽器の伴奏のことである。管楽器やストバイ、チェロ等、様々な楽器が華々しいソロを弾く裏で、セコバイは細かいリズムをひたすら実直に「刻む」ことをやっていることが多い。
 一言に「刻み」といっても、中々奥が深い。曲の背景的な役割からメロディの合いの手まで、幅広いバリエーションがある。また、ただ正確にリズムを刻むだけであれば、それは機械にもできるのであるが、オーケストラは自由自在に動き回る、まさに生き物。そして「刻み」は、その生き物の鼓動とでも言えようか。オーケストラの流れ、息遣いに合わせ、正確かつ活力溢れる鼓動を打ち込んでいく役目がセコバイにはある。そのためには、自身の音のクオリティはもちろんのこと、メロディ楽器のちょっとした歌い回し等も含め、オーケストラ全体の状況を瞬時に把握し頭に入れた上で、その場その状況に合わせた「刻み」を展開していくこととなる。
 他にも色々とやるべきことは多いものの、この「刻み」こそが、セコバイに与えられた最も重要な役割であるといっても過言ではない。傍目には単調な「作業」に見えてしまうのかもしれないが(たしかに、何の考えもなしに弾くとそうなってしまうのであるが)、さにあらず、オーケストラの重厚な響きを支えるという大きな醍醐味があり、かつ高度な技術な要求される「音楽的な営み」なのである…と信じ、セコバイ弾きは今日も人知れず「刻み」に熱意を傾けている。


(2)気が付くとみんな演奏している
 では、「刻み」のない箇所で、セコバイは何をしているのか。答えはいたってシンプルであり、大半は休符、お休みである。休みの間といえども侮るべからず、小節数をしっかりと数え次の出番に備えておくのも演奏の一部である、と太鼓を嗜む家人が言っていた、そういえば。
 とはいえ、他の楽器が力強く演奏する中、セコバイだけが長いお休み中というケースはままある。決して落ちた(どこを弾いているか見失った)わけではなく、作曲家の指示に従った結果であるのだが、どういった佇まいでじっと座っていればいいか、毎回軽く頭を悩ませるところである。ちょっとした顔芸でも試してみようかと思いつつも、小心者が災いし、結局は神妙(そうな)面持ちで出番をひたすら待っている次第である。


(3)おいしいところは滅多に回ってこない
 こんなわけで、セコバイに単独の「おいしい」メロディを割り振ってもらうことは、まずもってない。自宅での個人練習は先述の「刻み」を延々と繰り返すばかりであり、家人は何の曲を練習しているのかさっぱりわからず、何が楽しくて練習しているのか理解に苦しんでいることであろう。
 セコバイと同じような役割を担う楽器で、ビオラというちょっと大きめなバイオリン的な楽器もあるのだが、こちらの方が俄然メロディの出番は多い…と思う。なぜなら、ビオラにはビオラしか出せない音色、音域があり、オーケストラの中で映えるのであるが、セコバイに出せる音色、音域は悲しいかな、通常ストバイに割り振られるのである。


(4)団体芸ならできる
 もちろん、メロディ的な旋律をもらえないこともない。大概は、他の楽器とのユニゾン(同一のメロディ)であるが。
 特に、ストバイの旋律のオクターブ下を弾くのが、よくあるパターンである。この場合、客席で聞いたときの印象はどうしてもストバイにもっていかれるのであるが、良いこともある。というのも、バイオリンで高音を繊細、優美にかつ正確に奏でるのは、見た目以上の指南の業。1オクターブ下げた方が、弾くのが俄然楽なのである。カラオケに例えてみるとわかりやすい。サビの部分の高音は音程がとりづらく声もか細くなってしまいがちであるが、1オクターブ下げて歌うこと楽に歌えることもある。これを作曲家の指示によりできてしまうのが、セコバイのお得なところである。
 なお、単独のメロディを弾くことを全く放棄したわけではなく、ときたまおいしい旋律が割り当てられることもある。それはそれで、後述の問題が発生するわけであるが。

(5)そしてメロディは急に振られる
 先ほど、セコバイには「合いの手」的な役割があると書いたところであるが、これがとにかく曲者である。例えば、ここは伴奏だなと思って演奏している箇所で、突如としてメロディや重要なつなぎ(「合いの手」)が割り振られる。または、思いがけないところで指揮者と目が合ってしまい、さぁお前らここからだ的な合図を送られる。
 こういった状況において、まず初回練習等では、とりあえずビビる。事前にちゃんと研究しておけば良いのにという話はさておき、ここで行くのか、的な驚きと不安。そして、案の定情けない音しか出てこない。また、二回目以降に同じ箇所を弾く時は、今度は意識して妙に張り切る。すると力んで余分な力が入り、やっぱり悲惨な音しか出てこない。
 加えて厄介なことに、こういったセコバイの出番は1~2小節等のみの非常に短いフレーズで、すぐさま伴奏に戻ることも往々にしてある。何しろ、「合いの手」であるので。失態を取り返す暇もなく、悶々とした気持ちを抱えながら、オーケストラは無情にも先へ進んでいくのである。
 この伴奏とメロディの気持ち的な切り替えが、セコバイの最も難しいところであると感じている。学芸会で、名脇役の気持ちで演技に入り込んでいた子供が、いつの間にか主役がいなくなり急に自分にスポットライトを当てられても、途方に暮れるばかりであろう。すなわち、その場その場で様々な役割を演じ分ける必要があるのだが、そういった瞬発力や器用さが一向に身についていかないのが、悩みの種である。実生活にも通ずるところがあるのかもしれない。


3:セコバイ弾きとして
 ここまで思いつくがまま、セコバイの魅力等について書かせて頂いた。良い部分のみならず、色々とネガティブな面も書いてしまったところもあるが、無論、基本的にはセコバイ弾きとして、オーケストラでの演奏を楽しませてもらっている。セコバイならではの楽しみ、スリル、色々な発見、そしてやりがいを満喫しつつ、次回演奏会に向けて地道に楽器を奏で続ける日々である。
 次回演奏会では、時折絶妙な存在感を醸し出す、セコバイのいぶし銀的な魅力に気づいて頂ければ、セコバイ弾き冥利に尽きるというものである。そううまくはいかなったかとしても、本原稿の内容を頭の片隅に入れて頂き、セコバイ勢の奮闘に温かい目を向けて頂ければ幸いである。

~第236回維持会ニュース2016.12
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