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新響生活50年をふりかえって  =出逢った人々のことなど=

元新響オーボエ奏者 桜井哲雄

*50年前入団、そして昨年退団
 1966年(昭和41年)11月に入団しました。当時団員だったクラリネットの大前研一氏から「来年ソ連に演奏旅行があるのだけど入らない?」と話が有り、オーボエ名人でトップだった井上卓也氏のオーディションを受けました。「もっと練習してください」と言われて入りました。東京文化会館地下のAリハーサル室の練習に初めて参加してびっくりしました。欠席者が多い、開始時間が守られてない、芥川先生の指揮が分からない。呆然として、「演奏旅行から帰ったらすぐやめよう」と思いました。でも、飲み友達ができてしまったので居座ってしまいました。あれから50年経った昨年の11月、後期高齢者になったので退団しました。

*芥川也寸志氏
 私たちの仲間内では愛情をこめて「アーさん」でした。アーさんは新響を立ち上げて、育ててくれた恩人です。1925年から1989年まで、昭和を目いっぱい生きました。享年63歳でした。
私たちにとっても偉い人でしたが、放送局などの業界ではとんでもなく偉い人で、テレビの収録などで放送局に行くと、ほとんど神様で、局の広いスタジオがピリピリしてました。作曲家、タレント、として有名でしたが、音楽著作権協会の立ち上げなど、社会的に立派なこともされました。練習に行くと目の前5メートルの処にその神様が指揮棒を持って立ってるのですよ。凄いでしょう。
数回目の練習中、神様が話の成り行きで私の事を「社長」と呼んだので、その後50年間、新響の中での私の名前は「社長」になりました。このことで一番面白かったのは、混み合う帝国ホテルのロビーで、遅れてきた友人が遠くから大声で「社長!」と叫んだのです。ロビーに居た紳士淑女たちは尊敬の目で一斉に私を見ました。似た話ですが、ビオラのトップの柳澤君は「組長」と呼ばれてました。ビオラ仲間での帰りに電車の中で、女性団員が「組長、席が空きました」と言って座らせたら、徐々に周りからお客さんが居なくなったという話を聞きました。組長だったらベンツだと思うのだが。何かの帰りで全員黒服だったのです。
鹿島の合宿で食後の昼休みにアーさんを交えて10人位で雑談しているときに、つぶやくように「幸せって平凡な中にあるのかな」言われてびっくりしたことがあります。有名人で超幸せなアーさんと思っていましたからとても印象に残っているのです。多分ご長男がお生まれになったことが思いの中にあったかなと思いました。
「もう一度、ブラームスの1番をやりたかった」というのが最後の言葉だったと聞きました。アーさんは名誉職も含めて多くのお仕事をされてましたから、数えきれない肩書をお持ちでした。ご病気ということでそれらの肩書を次々と減らしてゆくことになりましたが、そういうなかで、「新交響楽団音楽監督」の肩書は最後まで残してくれました。

*戸田昌廣氏
 新響は私が入団する10年前に労音の下部団体「東京労音新交響楽団」として生まれました。クラシック音楽が広く聴かれ始めた頃でいろんな音楽鑑賞団体が生まれました。しばらくは良かったのですが、徐々に問題が増えて行き、10年後の1966年3月に独立しました。この10年間、団長だった戸田さんは大変苦労されました。労音は新響を放したくなかったですから、その矢面に立って多量の会議、交渉で仕事も手につかない状態でした。今の新響の幸せは、あの独立時の苦労と、独立後の運営の苦労と、芸術家のアーさんの対応、その他書ききれないほどの苦労のおかげです。
 1980年に退団されたのですが、その後もOB会長としてお世話になってます。近年はトロンボーンをチェロに替えてご活躍です。あれこれと、しかも長期にわたって新響はお世話にはなったのですが、戸田さんは新響に文句は言えません。だって、どうやったのかわかりませんが、コンサートミストレスを嫁さんにしちゃったのですから。

*都河和彦氏
 私が入団した翌年に都河和彦氏が入団しました。当時のアマチュア界はもちろん、プロの演奏家の間でも名の知れた人だったので、「新響なんかに入ってくれるかな?」と噂になってた名人です。演奏面で力を尽くしてくれました。アーさんのわからない棒を心で受け止め、コンサートマスター(コンマス)の位置から発信することで、全体のアンサンブルが落ち着いてゆきました。まもなくアーさんの棒も見やすくなってゆきました。都河さんがいることで特に弦楽器が質量ともに充実しました。外に対しては新響の顔でしたから、協奏曲の独奏者にお願いした、特に弦楽器のソリストの方々とのお話もスムースで、周りに居た団員も楽しませてもらいました。オーケストラ曲にはたくさんコンマスのソロもあるのですが、中でも毛利伯郎先生をお招きして演奏したドヴォルザークのチェロ協奏曲第3楽章。チェロ独奏とコンマス独奏の丁々発止の演奏は一生忘れられません。毛利先生が目の前の都河コンマスを睨みながら楽しそうに協奏してた姿は素晴らしい画像として脳裏に焼き付いてます。
尊敬する都河さんですが、本来この人は、大酒のみで、ヘビースモーカーで、とんでもない人なのです。先日紀尾井ホールで会いました。奥様がおっしゃるには、「このほど数週間酒もたばこもやめたら初めて血液が全部正常になりました」と嬉しそうにいうのです。夫思いの奥様に守られて、従順で、健康で、まともになってる都河はつまらん!入団当時は、こんなに凄くて変な奴がこの世に実在してるのか、と思ったものでした。10年前まで、同じ人種の今は亡き渡辺 達(pf)と3人で飲んでました。
都河さんはAPA(日本アマチュア演奏家協会)の機関誌に何十年も前から随筆を書いてます。面白くて、それだけでAPAに入っている意味があります。最新の3月号では弓の悩みを書いてます。ヴァイオリンは200年前の名器ですが、弓は長年使ってたヴィヨームをやめて2万円のカーボン弓を愛用してる、と書かれてました。数百万円の弓から2万円の弓へ。やっぱり無茶苦茶な都河さんです。彼もまもなく後期高齢者です。

*100人の団員、2000人のお客様
 私は新響の演奏は日本一だと勝手に思ってますが、もうひとつ日本一があります。それは宴会芸です。歌舞伎、寸劇、落語、瞬間芸など、笑い転げます。100人の団員がいろんなことをやって、運営上の仕事も担って新響が続いてます。そのうえ会社勤めもしてるんですよ。素晴らしい人たち、というよりは本当に面白い奴らなんです。僕の自慢の後輩さん達です。
 もっと大事なのはお客様です。私は一人のお客様でもちゃんと演奏できると思ってる者ですが、終わった後の拍手は大事です。私は拍手には敏感です。団員はいつも反応を気にしています。皆さんは社会人ですから褒めてくれます。でもそれを聞く方は敏感で、言葉の裏なんかも考えます。アンケートも含めて褒められることが多いですが、ほんの少し、トウガラシも欲しいです。ほんの少しですよ。じつは一番敏感なのは「批判」ですので。
 新響はいろんな人の参加と支えで60年続いてきました。これからもずうっと続きます。退団した今、私は2000人の一ひとりになりました。支える側になりました。どうぞよろしくお願いいたします。私もいっぱい拍手します。そして七味唐辛子も少々。

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