ファゴットあるいはバスーン ~その秘密と魅力~
■ファゴット奏者の小さな悩み
ファゴットを演奏している者の悩みの一つ、それは楽器の知名度が世間的に低いということです。オーケストラの演奏に接する機会の多い維持会員の皆さんは、もちろんご存知の楽器だと思いますが、クラシック音楽に馴染みの少ない方々には、悲しいながら、21世紀の今日においても浸透しているとはいえない状況です。例えば、楽器を持って近所のクリーニング屋に寄ったとします。「あら、それ楽器? 何をやってらっしゃるの?」と、店のおばさん。「秘密です」とか気取るのもいかがなものなので、一応楽器名を言って説明を試みますが、だいたいは首を傾げられて終わりです。同じ管楽器でも、フルートやトランペットという名前を出せば、おばさんの反応や目の輝きは全く異なるでしょう。ですので、私は一般の皆さんには、楽器をやっていることをなるべくアピールしないようにしています。説明が面倒くさいからです。
というマイナー感溢れる話で始まりましたが、日本社会で有名か無名かは本質的にはどうでもよいことであり、ファゴットがオーケストラや室内楽にはなくてはならない楽器であることは間違いのないことです。あ、言い忘れましたが、ファゴットというのはドイツ語とイタリア語で、英語ではバスーン、フランス語ではバソンです。語源はいずれも「束ねられた2本の木」とのことですが、形状が酷似している兵器「バズーカ砲」も同じ言葉に起源を持つことが容易に想像できますね。
■オケの中で与えられる多彩な役割
外見の特徴は、何といっても長いことです。木管の他の楽器と比べて、圧倒的に長いですが、あれでも楽器の最下部において管がUターンしており、2本に折り畳まれている状態。もし真っ直ぐな1本の管だったら、とても普通の人が演奏できる代物ではありません。あとは、トーンホール(音を変えるための穴)を塞ぐためにキーがたくさん付いていることでしょうか。とにかく管体が長いので、遠隔地のトーンホールを塞ぐための仕掛けが大がかりになります。キーの数も多く、運指は極めて複雑。左手の親指では、何と10個のキーを操作します。などと言うと、他の楽器の方から「信じられなーい」と驚いてもらえることもありますが、要は慣れです。一度に出せる音は所詮一つですから、たいして自慢できることではありません。
それから、発音源にも少し触れておきましょう。ファゴットは、オーボエと同じように2枚の葦材を合わせたリードが発音源となります。2枚でできているので、ダブルリードです。「二枚舌」とも言われることもありますが、多分オーボエの人の方が嘘が上手いと思います。
外見や仕様はさておき、音楽的な特徴は、かなりの低音からある程度の高音まで、非常に広い音域の音を出せることがまず挙げられるでしょう。概ね3オクターブ半近くはいけます。また、ユーモラスな感じから、深遠な表現、心情を吐露するような泣きの表情まで、多彩な音色が出せることも特徴。音域や音色の幅が広いことは楽器の表現能力上、大きなメリットであり、オーケストラではかなり多岐にわたる役割を与えられます。チェロやコントラバスと一緒に低音域でオケを支えることもありますし、トロンボーンやチューバの咆哮に加担することもしばしば。木管のアンサンブルの土台となることもあれば、肉声的な音色を活かして中高音域で存分に歌うソロもあります。
■最も「人使いの荒い」作曲家は誰?
ストラヴィンスキーやラヴェル、リムスキー=コルサコフ、ファリァ、ショスタコーヴィチなどの近代作曲家たちは、楽器の特性を活かした「どソロ」*を書いてくれていて、それはそれで大変ありがたいのですが、ファゴットを演奏していて最も面白いと思えるのは、やはりモーツァルトとベートーヴェンでしょう。「どソロ」は少ないですが、全音符を吹いているだけで心から感動できるような役割を与えられています。いま流行りの言葉でいえば、使い方が「神」なのです。ファゴット吹きは、ウィーンの方に足を向けて寝ることはできません。
ちなみに、ファゴットに関して最も「人使いの荒い」作曲家は誰だと思われますか。私はチャイコフスキーだと思っています。今回演奏する幻想序曲「ロメオとジュリエット」でも、後半から終結部の最後の音まで、1番ファゴットには殆ど休みがありません。金管と一緒の強奏が終われば、今度はチェロと一緒に嘆き、その次は長い木管のコラール。正直、しんどいです。ただ、チャイコフスキーは、何かの嫌がらせで人使いが荒いのではなく、ファゴットという楽器がすごく好きなのでしょう。彼の交響曲には本当に魅力的なソロがたくさんあります。ありがたいです。「しんどい」とか愚痴を言っていると、バチが当たりますね。
■初心者でも「ひと山あてられる」かも
ところで、なぜ私は、わざわざオーケストラで最も知名度の低い楽器を選んだのでしょうか。行きがかり上、その辺のいきさつにも少し触れておきます。
私がちゃんと楽器を始めたのはけっこう遅く、高校に入学してからです。中学の途中から突然クラシック音楽が好きになり、高校に入ったら吹奏楽をやってみたいと漠然と思っていました。ただ、入部する場合、当然「初心者」ですので、中学から吹奏楽をやってきた人たちについて行けるのか、不安もありました。それでも、「まあいいか」と楽観的な思いで吹奏楽部の門を叩いたところ、初心者の私に申し付けられた楽器は、アルト・サックスでした。フルート、クラリネット、ホルン、トランペット、トロンボーンなどは既に「経験者」で埋まっており、サックスだけ希望者がいなかったのです。
そんなわけでサックスと出会い、高校3年間は吹奏楽でサックスを一生懸命吹きました。しかし、クラシック好きの少年としては、「いつかはオーケストラ」なわけです。私も「大学に入ったら絶対にオーケストラをやるんだ」と決心し、オケがなさそうな大学は志望の対象から除外。まあ、大学はどこかに入るとして、問題は楽器です。サックスではオケに入れません。まれにソロ楽器として使われますが、基本は「なし」です。そこで思い当たったのが、ファゴットでした。音域が近いのと、楽器を斜めに持つという構え方が似ていることに加え、高校からやっている人は殆どいないので(当時の九州では、そうでした)、大学からまた初心者で始めても「ひと山あてられるのではないか?」と思ったわけです。
第一志望の大学は力及ばず不合格となりましたが、当時の国立大学は一期校・二期校があり、なんとか二期校の方に滑り込むことができ、晴れて大学生です。その大学のオケには高校の先輩がいたので、入学式前にオケに入部すると同時に、泥酔も経験(今日ではかなり問題となるので、ここだけの話です)。新入部員第一号だったこともあり、全ての楽器を選ぶことができた中で、私は迷わずファゴットを指名しました。元々そのつもりだったので、「迷わず」は誇張ですが、いずれにしても、そこからファゴット吹きとしての人生がスタートしたわけです。
■温厚でバランス感覚に富む人たち
それから今日まで、長い月日が流れました。自分の感覚としては本当にこの前のことのようですが、実際にはかなりの時間です。大学卒業後、新響に入団してから、もうすぐ35年が経とうとしているのですから。
私のファゴット吹きとしての人生も、そう長い時間は残っていないと思いますが、この楽器を選択したことに全く悔いはありません。本当によかったと思っています。音色も大好きですし、オケや室内楽で担う役割も気に入っています。それから、もう一つ挙げるとしたら、仲間でしょうか。高音木管の人たちから見れば多少「ぬるい」のかもしれませんが、ファゴットを演奏する人は、基本的に温厚でバランス感覚に優れた人が多いように思います。私が長い間、新響で演奏を続けてこられたのも、現在のメンバーはもちろん、退団された方も含め、パートの皆さんのおかげであるといえます。社交辞令ではなく、本当に感謝しています。
なんだか「手前味噌」のような流れでコーダに突入してしまいましたが、ファゴット、あるいはバスーンという楽器のこと、以前より興味を持って見ていただけるようになりましたでしょうか。今回のコンサートで演奏する、リスト、チャイコフスキー、ニールセンの3曲。ファゴットだけが目立つ派手なソロはありませんが、曲それぞれに、場面に応じて重要な役割が与えられています。木管のアンサンブルを支えていたり、低弦と一緒に動いていたり、金管一味に加担していたり、多彩な役どころが用意されています。7月15日は、木管楽器2列目のステージに向かって右側、斜め上に突き出た茶色くて長い楽器に是非ご注目ください。
さて、付け足しのようになって申し訳ありませんが、最後にまたファゴット奏者の小さな悩みを紹介して終わらせていただこうと思います。それは、楽器がかなり多くのパーツに分かれ、水がたまる箇所の拭き取りなども行わなくてはならないため、片付けに非常に時間がかかること。練習場から最後に出るのは、だいたい我々です。でも、わざとゆっくりやっているわけではありません。あれでも十分急いでいるのです。そんな我々を温かい目で見守ってくれている(相手にしていないという話もあります)オケの皆さん、ありがとうございます。
*注釈)ファゴットの目立つソロがある近代作品
ストラヴィンスキー:春の祭典、火の鳥
ラヴェル:ボレロ、道化師の朝の歌
リムスキー=コルサコフ:シェエラザード
ファリァ:三角帽子(全曲版)
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番、第7番〜10番