怒濤のエキストラ体験記=前編=
(編集人記)
去る10月29日の依頼演奏会の際、欠員が生じた2番フルートパートに対し、維持会員の細越さんにエキストラを依頼しお引受け戴きました。これまで新響の団員が退団後に維持会に入会する事こそあれ、維持会会員が新響の演奏に参加されたケースは皆無だったと思われますので、体験手記の執筆を依頼し、ご快諾戴きました。
今号(練習開始まで)・次号(練習日記と本番)の2回に分け掲載致します。
◆引き受けてしまった!
そのメールは、2017年8月25日に日付が変わったばかりの深夜家でゴロゴロしていた私のスマホを僅かに震わせた。
また通販サイトからの広告かな、とノロノロメーラーを開くと、タイトルに「エキストラ」の文字。しかも送信元は維持会編集人M氏で、「新響の依頼演奏会で2ndフルートをお願い出来ないか」とある。読み進めるうち携帯がにわかに自前振動しはじめる…。
あらゆる管楽器のうち演奏者人口の多さはフルートとクラリネットが双璧だろう。クラリネットの演奏者人口が多いのは、中・高の吹奏楽で木管の主要楽器だから。通常のパート数が多く、しかもソプラノからコントラバスまで広い音域の一族郎党楽器が完備している。これが大量採用に直結している。だが、フルートは中・高の吹奏楽ですら定員枠が狭く席がない。それでも演奏者人口が多いのは、年齢を問わず個人で始める人がいて、ひとりでもそれなりに楽しめる人気楽器だからである。
オーケストラにおいてはフルートの狭き門は吹奏楽の比ではない。正団員はもちろん、エキストラで呼ばれるというチャンスそのものがほとんど無いのに、よりにもよって新響のフルートパートにエキストラ?しかも普段よりお世話になっている大明神(M氏の事。この瞬間に神棚に祭り上げられた)からの「依頼」という名の、事実上のご下命である。当然全ての予定をキャンセルして全身全霊でお引き受けせねば!ぼんやりしていてはいけない。は、早くっ!ソファーからいきなり立ち上がり直立不動でお引き受けするメールを・・・ててててて手が、ゆゆゆ指がっ・・・・・落ち着け自分。
そんなこんなでお引き受けすることになった大役だが案の上、ウマい話にはウラがあった。
後日M氏から招かれた酒席で、練習から本番に至るまでの詳細を聴く。と何と『維持会ニュース』に体験手記原稿を書くというおまけがもれなくついているという。・・・・・あのぅわたくし、名前しか有名じゃない私立大学純理系バケガク科卒ですけど?M氏のような高尚な文章なんて書けません・・・・・エキストラの感想を4,000字で『いいから』?・・・・・何て簡単に言うことだろう。
「…マジですか?」「もちろん。こんなことで僕が冗談言ったことありますか?」「…ないですね…。」「維持会員でエキストラに出る人なんて新響維持会始まって以来初めてなんだから頑張ってください。」「…はい…。」「笛もですよ。フルート3本で目立つ所がある。貴方は日頃何でもないところをポロっとミスする癖があるけど、新響でポロは許されないからね」「・・・・・・」。
夏だというのに、M氏の背後に厳冬荒波日本海が忽然と現れ、なぜか石川さゆりの『津軽海峡冬景色』が聴こえてくる・・・・・いやヴェルディ『レクイエム』だけミケランジェロの『最後の審判』の幻覚と、グレゴリオ聖歌『怒りの日』の幻聴であるべきか・・・・・。
そういえば以前、M氏にF.クーラウの『序奏とロンド』のアドヴァイスを戴いた時、「そこはまだpでしょう?すぐ我慢できなくて日本海の荒波に向かってがなっているような音になっちゃうんだから。もっとため息みたいな虚無感とか悲劇性とかの表現は無いのかね?骨の髄から演歌の人だよねー。」と言われたっけ・・・・とほほ。
こんな厳しい感じの掛け合い漫才が本番まで続くことになろうとはこの時はまだ知る由もない。
◆こんな事になったそもそものはじまり
何故こんな絶大な上下関係があるか含めM氏との関係を語らねばならなるまい…と言っても全く皆さんの想定内であろう。想定外の事があるとすれば、同じ会社だと言うことか(部署は違い、会社では偉い大先輩であるが)。
知り合う以前から社内(因みに社員数35,000人ほどの規模)にフルートが上手い人がいるらしい、という噂は聴いていた。その後会社に音楽団体ができ、産休明けすぐにリクルーターM氏から直接社内メールが来て、その団体に「参加しませんか」とお誘いをもらったのである。
後日M氏の提案により『ブランデンブルグ協奏曲第4番』をご一緒することになり(むろん私が2ndフルート)、ソロヴァイオリンを弾くことになったM氏の大学の先輩U氏の紹介がてら演奏会に誘われ、新響と出会うこととなった。
それは忘れもしない2001年10月13日第175回演奏会。人生を変えたブラームスの交響曲第1番(指揮は飯守泰次郎氏)。
オーケストラが最大の緊張時、音を出す前のわずかな瞬間キキキ…と軋(きし)む奇跡を初めて経験した。そして満を持して冒頭の爆発的和音。まるで音に切り付けられたと感じて思わず息をのんだ。
今年初めの『牧神の午後への前奏曲』のソロのように、今や時に穏やかで微妙な陰影や色彩感のある音色を自在に操るM氏であるが、当時は刃物のような圧倒的な音圧と響きを誇っていた。しかもオーケストラと一体になるべきところは完全に溶け込み、出るべきところで飛び出す絵本のように笛だけが浮き立って来るのである。
こんな笛の音を出す人が、本当にいるのだと衝撃だった。
かつての東欧圏のオーケストラの笛の音のような圧倒的な笛の音は、今考えれば幼少の頃、NHKの音響技師を務めていた父親の縁もあって、テレビからいつも流れていたN響で聴いた宮本明恭先生を髣髴とさせた(・・・・・亡くなったかのような言いようだがご健在で齢80歳過ぎてますますお元気です)。
演奏が終了しても脱力感からなかなか立ち上がれない。でも隣に座っていたU氏はあまり意に介さぬご様子だったのが妙に印象に残る。
ロビーでM氏の顔を見て「凄かったです」と伏し目がちに感想を述べ、そうであろうとドヤ顔をされてしまった時点で、その後今に至る絶対的な上下関係は決定した。それまで自分が出していた笛の音は全く間違いだったという完全な敗北感。自分の矮小な価値観や僅かな自信は一瞬にして崩壊した。生ぬるくて楽しい笛人生との決別だった。
そこからは笛を吹く事は難行苦行と化した。だってあんな音出ないよ。何度泣いたことであろう。本当に苦しい日々を重ねた挙句池袋で宮本先生のレッスンを受けられる事を知り、M氏に相談したところ「音づくりから教えてもらうつもりで是非受けてみたらどうか」、と勧められたのである。
その時初めて知ったのだが、プラハ音楽院で勉強された宮本先生こそそうした伝統的な音の、日本人には稀有の体現者であり、M氏も学生時代から私淑されていて、同じ東ドイツ製の名器を手に入れたりして奏法を研究されていたらしい。入門後のレッスン内容を私からじっくり聴き出した上で、M氏自身も先生の門を敲いた。
宮本先生に師事してからというもの、敗北感・挫折感は輪をかけたものとなっている。60分のレッスンの大半をロングトーンと音作りに費やす事も珍しくない。「もっと勢いのある音を!」と常に言われる。そうした笛の音の価値観と奏法が確かにかつての東欧圏には歴然と存在していて、それを手に入れられるか否かは絶対的な違いなのだろう。
宮本先生との間には更なる壮絶な絶対的師弟関係が存在している。語るも涙の現在進行形でまだ文章にできそうもない。
◆イタリア音楽の本質を形作るもの
今回エキストラの話をいただけたのは私がイタリア人指揮者セルジオ・ソッシ氏(故人)のオペラ団体でモーツァルトのオペラを何度も経験し、歌と一緒に演奏するのに慣れていた事が大きいだろうと勝手に思い込んでいる。一度M氏経由で新響フルートパートのO女史にエキストラに来ていただいた。
しかしヴェルディはオペラの規模(登場人物、合唱編成、オケ編成)が大きいので演奏する機会が無かった。しかも名曲レクイエムである。期待はいやが上にも膨らむ。
ところでイタリア人作曲家と言われて、他にどんな名前が出てくるだろうか。
先にフルートは人気楽器と記載した通り、エチュードも多く協奏曲・ソナタ・室内楽など曲に困ることは無いが、イタリア人作曲家となると筆頭はヴィヴァルディぐらいで、あとはペルゴレージ、ボッケリーニ、ドニゼッティ・・・・・フランス人作曲家やドイツ人作曲家に比べれは作曲家の人数も曲そのものもかなりと言っていいほどで、知られていないし、探すのが難しい。
オーケストラの曲になると更に少ない。交響曲は恐らくほとんど無いのでは?有名なのは次回新響演奏会のレスピーギのローマ三部作だろう。しかしこの曲も交響曲の形式とは言えず、非常にオペラ的である。
イタリアと言えば音楽含めた芸術の都であり、今の楽譜の速度記号・強弱記号や発想記号はイタリア語であり、モーツァルトのオペラだってほとんどイタリア語なほど。音楽大国なのでは?長らく不思議に感じていた。
その謎はパウル・ベッカーの『西洋音楽史』を読んで氷解した(といってもこの本はM氏から頂いたものである)。
この本の前提は「音楽史上の音楽の違いは単なるメタモルフォーゼ(変化)でしかなく、優劣の差はないし、進化している訳でもない」なのだが、第十七章にこんな文が出てくる。
「--(略)--特にモーツァルトの歌劇はイタリアではかつて何の反響も呼び起こしたことがなかった。イタリア人は常に歌い手である。歌うことしか知らない。--(略)--彼ら(十九世紀初めの三十年あまりに現れたロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ)は声楽の上に、器楽と、その演奏上の名人芸とから得た影響を取り入れたに過ぎないのである。かくして歌劇における歌手の主権は十九世紀半ばにイタリアに新しい大家が現れるまで揺るがなかった。その大家とはジョゼッペ・ヴェルディである。彼は三人の先駆者達の音楽を帰納して、その声楽上のベル・カント(肉声の美しさだけを生かそうとする表現法)の観念を越えて、新の人間的ないわば個性的な表現を与えたのである」。
つまりドイツ語圏で発達した交響曲を作曲したか否かで作曲家の経歴を考えることこそ無意識交響曲偏重によるもので、イタリアの作曲家が交響曲を作らないのは歌い手である国民性ゆえ自然な事であり、そこには優劣も進化の有無も無いのである。モーツァルトのオペラでさえ彼にとっての歌ではなく器楽的らしい。歌が入る曲でないとイタリア人作曲家の音楽に出会う機会が極端に少ないのは当たりだった訳である。
極端な論に感じるかも知れないが、前出のソッシ氏も「イタリアではモーツァルトのオペラはあまり演奏されない。だって歌う曲は山ほどあるから。」とおっしゃっていたので大筋で正しいのだと思う。
ちなみにソッシ氏がよくソリストに注意していたのは「1小節の中で重要な音はルバートさせる。ただし1つの音が長くなったら他の音は短くし、1小節の長さは変えない。音楽は休符も含め譜面に指示されたテンポで流れ続けなければならない。ルバートしようとしてどの音も長くしてはいけない。それではカンツォーネだ。」とのこと。指揮も無理が無くスムーズだった。「オーソーレミヨー」の揺れ揺れテンポのイメージが強いイタリア歌曲だがそれはカンツォーネだけで、オペラでは譜面に厳密が価値観らしい。そういえばアバドもトスカニーニも譜面に厳密な気がする。