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新響のチラシを作っています

今尾 恵介(打楽器)


◆ヤマカズさんの揮毫による『大地の歌』
 2019年に還暦を迎える私が新響に入団したのは1983年の8月。23歳のことである。この1月に244回を数える演奏会も当時まだ101回。山田一雄先生のマーラーの第2番『復活』と柴田南雄「北園克衛による3つの詩」というプログラムであった。まさに全身これ音楽といったヤマカズさんの鬼気迫る棒との出会いは鮮烈で、これまで新響で演奏会を100と数十回を馬齢とともに重ねてはいるが、初めてのあの演奏会は今も記憶が鮮明だ。
 チラシのデザインを担当した最初は入団の翌年であるが、本欄への寄稿にあたって久しぶりに古いチラシのファイルを探してみたら、私の第1作は1984年7月、そのヤマカズさんでシューベルトの未完成とマーラー『大地の歌』を演奏した第108回演奏会のようだ。今ひとつ確信が持てないのは、それ以前の演奏会のチラシが見当たらないからで、その理由が自分の担当でなかったためか、それとも単に保存しなかったか今となっては不明である。
 白地に『大地の歌』と墨痕鮮やかに入った縦書きのタイトルは、実はヤマカズさんご自身の筆によるものだ。どこにもクレジットが入っていないのは、ご本人から「くれぐれも書・山田一雄などとは記さないこと」と釘を刺されていたからである。わざわざその部分に傍線か傍点が振られた手紙を担当者に見せてもらった。その躍動感溢れる書は、私など素人からすればひと目見て立派な書家の作品であったが、ヤマカズさん一流の韜晦であろう。バラしてしまったが、とっくに時効だからお許しいただけるだろう。


◆出版社で学んだアナログの版下製作
 当時、私は小さな音楽出版社に在籍していた。その頃、御茶ノ水駅近くの神田駿河台にあった『パイパーズ』という管楽器専門出版社で、若造社員である私は書籍の荷造りから伝票起こし、問屋さんへの納品から返品整理に加え、小さな記事の取材から執筆など、よろず承っていた。その中で版下(はんした)製作の仕事も引き受けている。
 版下という言葉は印刷業界でも今の若い人は知らないかもしれないが、印刷物の版を作る、いわゆる原版だ。文字を打ち込んだ写植の印画紙を台紙に貼り込んだもので、写真やイラストなどの扱い、色の指定(モノクロの場合はグレーの度合)などの加工指示を書き込んだトレーシングペーパーをこれに重ねて印刷会社に持ち込む。
 そう、写植という言葉も今では説明が必要だろう。これは「写真植字」の略で、原稿の文字列に赤ペンで書体と大きさ(級数)を指定したものを業者がその通りに打ち込み、印画紙に焼き付ける。原稿も当時は手書きである。これを当時は駿河台下の猿楽町の写植屋さんに持ち込み、印画紙に焼き付けてもらった。大小さまざまな出版社が集中する神田には家族経営などの小さな写植屋さんも多く、他にも書籍の箱を足踏みの機械でパタパタ作っていた箱屋さんのこともふと思い出した。あそこの親爺さんはまだ健在だろうか。
 写植屋さんでもらってきた「焼きたて」の印画紙を台紙に貼り付けるのだが、その際ペーパーセメントという専用の糊を使う。有機溶剤なので有毒で刺激臭があり、緑色の缶には換気に留意せよという注意書きに「長く吸うと、たとえば気が狂うなど……」と、それこそ刺激的な注意書きがあったのを覚えている。
 版下に線を引くのはロットリングという製図用のペンで、太さによって0.1ミリ、0.25ミリなど何種類か常備していた。このペンは少し放置しておくと乾燥で目詰まりを起こし、インクが出てくるまでお湯に浸けては振るなど苦労したこともある。またこのロットリングを定規にぴったり付けすぎると定規の下にインクが流れて汚れるし、線の引き始めは太くなりやすいので、運ぶ手のスピードの制御などコツが必要だった。
 この版下仕事は同社でバイトしていた大学3年生頃から始めているので、実は大学の定期演奏会のチラシが私にとっては「作品1」である。1984年の段階で、会社でどこまで担当していたかは覚えていないが、月刊誌『パイパーズ』の本文の他に、広告代理店が入っていない楽器店の広告版下なども多く手がけたもので、場合によっては店に成り代わってキャッチコピーを考えたり、店側が持ち込んだ原稿を見栄え良くするため書き直すこともあった。
 ちなみに入社して最初に行くことになった取材は埼玉県の陸上自衛隊朝霞駐屯地。ここで起床や食事、消灯の際に鳴らすラッパ隊の皆さんから話を聞く仕事だった。カメラマンとともに緊張して訪問したが、隊長さんは非常に協力的でほっとしたものである。昔むかし自衛隊がまだ出来たての頃、食事ラッパに乗せて歌われた「〽ヤンキーのおかずはキャベツにコロッケ、自衛隊のおかずはキャベツだけー」という替え歌を教えてもらったのが頭に今も焼き付いている。日米の食事の質にかなりの落差があった頃の話だ。


◆芥川也寸志=新響の頃のチラシ
 新響でチラシを任された経緯については忘れてしまったが、版下製作の経験者だったので必然的だったのかもしれない。それ以前は新響でもプロのデザイナーに依頼していたようで、入団した頃の『復活』のチラシもそうだった。最初の頃は私の担当も毎回ではなく、たとえばショスタコーヴィチの交響曲第4番を日本初演(「アマチュア初演」ではない)した1986年7月の第111回のチラシはデザイナーによるものであった。指揮は芥川也寸志さんで、当時3日間の合宿にもたしか全日程参加され、この曲にかける熱意はひときわ大きかったのを覚えている。
 私が毎回担当するようになったのは第115回(1987年4月)からで、この回は『中国作品展』と銘打ち、李煥之、呉祖強、朱践耳という中国の作曲家の作品とチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲というプログラムであった。ソリストには上海音楽院の学生、左軍さんをお招きしている。
 私の担当するチラシとしては初めて2色(墨+茶色)を使い、日本画家であった私の祖父・木村華邦が描いた『中国風景』をまん中にあしらった。ラーメン丼などによくある柄で縁取るというベタなデザインなので今見ると赤面してしまうが、思えば当時のカラー印刷は高嶺の花であった。新響から予算を制限されてやむなく、というよりは小出版社に勤めていた私の過剰なコスト意識だったのかもしれないが。
 第119回(1988年4月)はオール・ファリャ・プログラム。チラシではメインの『三角帽子』にちなんで、全体が黒地のまん中の真っ赤な正方形の中に、私が描いた三角帽子のイラストをあしらった。インターネットのない頃だから、図書館かどこかへ行ってその筋の本を探し、三角帽子がどんなものであるか描き写したものである。本番の演奏で芥川さんは実に楽しそうに振っておられたのが記憶に残っているが、それが新響では最後の演奏会になってしまった。翌年1月に逝去されている。その4月(第123回)は追悼演奏として芥川さんの『交響管絃楽のための音楽』の第2楽章だけを指揮者なしで演奏したが、それからちょうど30年後にあたる2019年4月(第245回)には、<没後30年>として芥川さんの『オーケストラのためのラプソディ』を演奏する。もうそんなに経ったかと思うと感慨深い。
 没後1周年にあたる第126回はヤマカズさんの指揮で『追悼・芥川也寸志』と題する演奏会だった。芥川作品のみの演奏会で、チラシには音楽家を撮る大家として知られた木之下晃さんの写真を大きくあしらい、芥川さんが生前折に触れて強調された「音楽はみんなのもの」という言葉を最上部に掲げた。昔のチラシを改めて1枚1枚見てしまうと、それぞれの演奏会にまつわる思い出が尽きないのだが、本稿の趣旨から外れてしまうのでこのあたりで切り上げよう。


◆色を決める難しさ
 私は1991年に9年ほど勤めていたパイパーズを辞め、フリーライター兼編集者として独立した。最初はライターの仕事など来るはずもなく、多かったのが書籍編集の請け負いである。たとえば『地球の歩き方』(ダイヤモンドビッグ社)のフランス編を全部レイアウトしたり、当時の運輸省労働組合の機関誌の割り付けなども行った。その傍ら、いろいろな出版社に「地図に関するこんな文章を書いているので、よろしければ使ってください」といった内容のダイレクトメールを送りつけ、幸運にもいくつかの会社から仕事をもらった。
 子供の頃から熱を上げていた地図の楽しさを世に紹介したいという思いから、できればそちらの方面の仕事をしたかったのである。最初に拾ってもらったのは小学館の『サライ』という雑誌(現在は「気になるバス停」を連載中)、その後は幸いにして地元のけやき出版から『地図の遊び方』という単行本を上梓する機会があり、それ以降は幸運にも仕事は途切れていない。
 版下製作上の苦労といえば、まず色である。新響のチラシでは2色(墨+特色など)から3色の時代が長いが、当時はアナログなので、色の見本帳を参照しながら指定を行った。ときに色校正の刷り上がりがイメージ通りでなく、その段階での変更はリスクを伴ったが、思い切って変更して成功することもあった。しかし必ずしもうまくいくとも限らない。
 その後はセットインク(藍・赤・黄・墨のカラー印刷用)の4色をそれぞれパーセントで指定する方式に変えたのだが、10パーセント刻みで掲載された色見本帳を購入、それを睨みながら悩む場面も多かった。難しいのはたとえばオレンジ色で、バランスが少し崩れると赤系または茶系のどちらかに転んでしまったりするので厄介である。紙との相性もあり、色校正で鮮やかに見えても本番の紙だと沈んでしまったりもするから、完全に満足できた回はそれほど多くない。


◆アナログからデジタルへ-イラストレーターの導入
 これが大きく変わったのが、デジタル化である。プロの世界では「イラストレーター」というパソコンの画面上でデザインするソフトを使うのが当たり前になった頃も相変わらず印画紙を貼り付ける方式を続けていた私であるが、徐々に版下用品が店頭から姿を消し始め、入手が難しくなってきたこともあり、デジタルに弱い私もさすがにそちらへ乗り換えることに決めた。アナログの版下をいつもの印刷会社に持ち込んだ際に、「今ではこういう版下を見たことのない若い社員もいます」と言われたほど、私は前時代的だったのである。
 最初にそのイラストレーター(略してイラレ)で作ったのは、第222回演奏会(山下一史指揮・シュトラウス『ツァラトゥストラはかく語りき』他)であるが、イラレの入門書などを購入して傍らに置きつつ、えらく長い時間をかけて四苦八苦して作った覚えがある。まずは初心者でもできる「長方形ツール」に色を付ける方法だけを使い、テキストデータで作った曲目やチケット関係の細々した内容をイラストレーターの画面上の版下に流し込むのだが、そもそもA4のワク(トンボなど)を作ることからして難問だった。書体も従来気に入っていたものが選択肢になく別に選び直したが、太さやバランス、詰め打ちの方法も最初は勝手が違いすぎて戸惑うばかりであった。
 文字の詰め打ちというのは、同じサイズの文字であっても漢字と平仮名、アルファベットでそれぞれ構造が違うので(たとえば「み」と「く」、WとIの横幅は大きく異なる)、同じように字を配置すると見栄えが悪い。このため写植の時代では写植屋さんに「字間2歯ツメ」とか「ツメウチ」「ツメツメ」などと指定し、彼らのセンスに任せていた。それでも、大きなタイトル文字などでバランスが気に入らなければ、カッターで字と字の間に切り込みを入れ、ピンセットで印画紙の表面だけを剥がし、要らない余白を削除して詰め、ペーパーセメントで貼り直すという面倒な作業もあった。それがイラストレーターなら画面上で簡単に詰め打ちできる。最大のメリットは色のパレットから直接ピンポイントで選ぶことができ、何度もやり直しが利く点である。実験的な色使いも簡単にディスプレイで確認できるので、かつてのように4色の組み合わせを思い描いてドキドキしながら色校正を待つこともない。


◆外国語表記の難しさ
 曲目や日時などには英文表記を併記しているが、これにも難問がある。以前なら各国語のアクセントや発音記号の扱いは写植屋さんでうまく対応できないこともあり、パンフレットなどから切り取って貼り付けるなどという非常手段もやった。特に出現頻度の低いチェコ語(ドヴォルザークDvořákのRの上の∨印など)やポーランド語(たとえばルトスワフスキLutosławski)などはアクセント記号等の扱いが悩ましい。しかしそれも昨今ではインターネットで検索すれば珍しいアクセントもコピペで対応できるので本当に助かる。直近では2019年4月の第245回のチラシ。バルトーク(BARTÓK Béla)ではÓというアクセント付きの文字を用いるが、小文字はいくらでも出てくるのに、大文字はなかなか見つからない(新響では英文表記の人物の姓は大文字のみとしている)。それでもハンガリーの音楽関係サイトでなんとか発見したので対応することができた。
 ここ10年ほどは、掲載内容について新響団員のメーリングリストでチェックしてもらっているので安心感があるが、特に外国語表記については団内に英語、ドイツ語、フランス語の専門家がいらっしゃるので助言を仰ぐことができてありがたい。私たちは音楽という共通項で繋がってはいるが、それぞれ平日に従事している職業はさまざまなので、こういう時にその多様性が発揮されるのだと感じる。


◆失敗談、そしてこれから
 最後に失敗談を。1990年7月の第128回演奏会は東京文化会館で『新世界』と『ローマの松』というプログラムだったが、なんと開演時間を忘れてしまったのである。刷り上がってきた時には青ざめた。「14時開演」というゴム印を急遽作ってコンサートサービス(今もチラシの配布ではお世話になっている)にお送りしたものである。それからもう一つは何回か忘れたが、フランクの交響曲。「ニ短調」のところを「ニ長調」とやってしまった。そんな曲があったんですねと誰かに皮肉を言われたが、こういう大きなタイトルなどは意外に「魔物」がひそんでいて要注意なのである。印刷会社に救われたこともある。団員のメーリングリストでのチェックも通り抜け、私も読んだつもりでスルーしていたのがある年の7月の演奏会。ところが英文表記だけAprilになっていたのを印刷会社の担当者が発見してくれた。
 30年以上もやっていると、時には以前とそっくりな色使いやデザインになることもあり、どうしてもマンネリは否めない。そろそろ次世代のチラシを担う新響の若手が現れるのを期待しているので、もし団から「選手交代」が指示されればすぐ替わるつもりである。そうでなければもうしばらくは担当することになりそうだが、毎回いろいろな点で反省しつつ、終着点のない「良いチラシ」を目指し、自分なりに試行錯誤を繰り返していくことにしよう。 

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