変転と継承と =新交響楽団の「昭和」と「平成」
◆終焉に向かう昭和の光景と「空気」
新帝即位も間近となり、巷間「平成最後の~」のキャッチフレーズが当たり前に流布しているのを目の当たりにすると、昭和の終焉を知る身には隔世の感としか言いようのない感慨が浮かぶ。新響に於いても今回の第245回演奏会が「平成最後の演奏会」であり、その2日後には新たな時代に入る事が確定している。
では「昭和最後の演奏会」は?・・・・と改めて調べてみると昭和63(1988)年10月16日の第121回演奏会(指揮:森山 崇/於:昭和女子大学人見記念講堂)がこれに当たっていた。当時を知る古参の団員でも、この演奏会が昭和最後だったと認識・記憶する人はまずいないのではなかろうか?無理もない。それは僅か3か月足らずの後に訪れた昭和天皇崩御によって「結果的に」掉尾のものとなったのであって、演奏会時点で最後になるとは考えられなかったからである。
この「考えられなかった」・・・・という言葉の中身は微妙で、少なくとも「予期できなかった」の意味ではない。「考えてはいけない」若しくは「考える事が憚られる」という含意だった。そこには天皇の死という、大部分の日本人が経験していない重大事が絡むものだったからである。
この「考えてはいけない」「考える事が憚られる」という空気は、昭和天皇のご病状が悪化した1988年9月以降特に顕著になった。季節は秋である。国内各地の歌舞音曲を伴う祭礼は自粛されたし、学校の運動会や体育祭も無期延期や中止が相次いだ。もちろんこれらは決して強制されたものではない。「どう対処すべきか?」を真摯に考える事なく、半ば反射的に自粛で対応する姿勢に巻き込まれる・・・・国全体が思考停止していたとしか思えない。
この年日産から発売された『セフィーロ』という車のCMについては今もはっきりと記憶がある。助手席から井上陽水が「みなさんお元気ですか?」と語りかける企画だったが、ある時からこの語りかけ部分が無音になった。口パクでは何の意味も無い訳で、このCM自体が他に差替えられてお蔵入りになった。この奇妙さ。「お元気でない人」に対する今でという忖度という事になろうか?天皇のご病状はニュースの冒頭で必ず報じられ、一向に快方に向かわぬ情報が重なるほどに世情を暗くしていったし、それが更なる自粛を生み出す事につながった。
年末が近づくと「年賀状はどうするべきか?」という議論まで起きた。虚礼廃止の風潮が高まる以前の事で、企業間では盆暮の贈答も年賀状のやり取りも盛んにおこなわれていた時代である。取引先との忘年会は相次いで中止。年初の賀詞交歓会はどうなるのか?全く見当がつかない状態だった。そして年賀状に至っては個人的なやり取りにまで波及しそうになった。流石に「毎年誰に対しておめでとうと言っていたのか」という声が上がり、まぁ平常通りに落ち着いたように記憶する。私個人はちょうど喪中(6月に母親を喪っていた)に当たっていたのでこの年賀状騒動とは無縁でいられた。不幸中の幸い?というべきか。
天皇の死によって元号も初めて変わる、所謂「一世一元」の制度は実は歴史も浅い(明治期に制定)。明治・大正期のように世の中が緩やかに流れていた時代はまだしも、果たして現在の社会に適合するものなのか?社会や市民生活に対する有形無形の重大な影響を及ぼす事は、こうした事例を思い出すだけでも疑問として起こりそうなものだ。が、今回の生前退位の議論の中で、昭和末年当時の社会の混乱(その殆どはこれまで述べたように世間全般の「空気」から起こった)についての記憶に基づく声は挙がらなかった。何故だろう?という疑問が今も残る。その記憶に照らしてみれば、「平成最後の〇〇」の濫発にはいささか食傷しつつも、新時代を迎える現在の社会の空気が明るい事は、個人的に救われた気持ちになるというものだ。
◆新響にとっての内憂と外患
天皇陛下のご不例(この語をこの時初めて生きた言葉として用いた)。これ自体が日本国民にとっての内憂だったが、まさにこの時期新響の場合更なる内憂を抱えていた。それは芥川氏の病状が判らなかった事である。この年1988年の4月24日、芥川氏がその保存運動の先頭に立っていた東京藝術大学奏楽堂の移転記念演奏会にて新響を指揮したのを最後に、氏は療養に入り入院(肺がんと診断され手術を受けていた事は死後に知った)。その後の詳細情報は新響にも一切入らなくなった。翌1989年4月の演奏会は芥川氏の指揮と決定していたので、その具体的な企画や曲目を決定すべき時期に差しかかっていたが、何ら決められる事が無い。そもそも出演の可否さえ判らないのである。指揮者がどの練習に参加できるかさえ不明である限り、全体の練習計画も立てられない。だが出演の可否が判らないからといって代わりの指揮者を探し始める決断もできないのである。
現在の新響ならこのように既に出演が予定されている指揮者の健康状態に不安が生じた場合、次の候補を探し出す決定をする事は合同委員会の協議によって可能だ。だがこの当時は違う。芥川氏は新響の音楽監督であって、団内の音楽的決定の全てに氏の承認がいる。その当の本人との音信が不通なのだから我々には対処の術が無かった。そしていつしかこの件は天皇のご病状と同様に「考える事が憚られる」領域に入りつつあったのだった。
そんな状況下に運営委員会を開いても早急に決めて行動しなければならない事に対して為せる事が何もない。途方に暮れて終了後街に出ると、天皇ご不例の最中とあって、街も暗く沈んでいる。さらにこちらは肉親を喪って間がなく、家に帰っても誰もいない状態とあって、昭和63年の秋口以降、全てが息をひそめていた印象しかない。昭和最後の年はかくして暮れていった。
明けて昭和64年1月7日土曜日。年初早々から仕事はトラブルを抱え、この日は休日出勤が予定されていた。気が進まぬまま起き、テレビを点けるといつもと様子が違う。瞬時に「これは天皇崩御だな」と直感した。来るべきものが来た感覚。まずは身支度をダークスーツと暗色のネクタイに変更した。予め社内には「重大事態発生時」の身なりにつき指示の文書が回っていた。おそらく日本のどの企業もそうしたお触れが出ていた筈で、重大事態が何を指すかについても、皆が暗黙の理解をしていたのである。
それはそれとしてもうひとつの懸案事項が急遽持ち上がった。この晩の新響の練習を予定通り挙行するかどうか?である。年明け最初の、そして本番2週間前の練習である。そうでなくとも年末年始の休みを挟むと、それまでの蓄積が目減りしてしまう事が往々にしてあるとあって、是が非でも音を出したい処。インスペクターとして実質的にこのシーズンから練習計画を取り仕切っていたこちらはもう仕事どころではない。メールも携帯電話も普及していなかった時代である。関係者間で連絡を取り合うのも難儀が予想されたが、偶々週末だった事もあってみな自宅に待機していた。そして協議の末に昼までには「予定通り決行」の方針が定まった。
そぞろな気分のうちにとにかく予定の打合せをこなし、会社を出られたのが15:00過ぎ。この時点で既に次の元号「平成」は発表されていたが、私はまだそれを知らずにいた。冷たい雨の降る都心に出るにも電車はガラガラ。所々に半旗や喪章をつけた国旗を目にする。定刻にはメンバーが練習会場である水道橋の『神田パンセ(旧労音会館。今はもうない)』に集まった。が、当然ながら年始の挨拶もなく、何か時節を誤ってひどく場違いな処で、見当はずれの事をやっている・・・・という感覚から抜け出せなかった。寡黙なまま盛り上がりに欠けた練習が終わると、皆そそくさと家路についた。日頃の練習のように終了後に呑みに行く事もせず。そもそも酒を呑もうとしても流石に開いている店が殆ど無かったし、あっても開店休業の状態だったのだ。帰宅後に視るテレビもどこも同じような画面しかない。かつて学生時代にNHK交響楽団の関係者から、天皇崩御の際に備えた厳粛な音楽の演奏を、既に録画済みであるとの事を耳にした事があった。その種の映像も当然何度も目にしたが、事前に収録されたものであるという先入観が邪魔をして、何か空疎な気分が伴っていた。
この日はレンタルビデオショップだけが盛況だったと後に知ったが、不謹慎ながら得心も行った。昭和という時代の終焉がこのような形になる事は想像していなかった・・・・もっともどのような形も想定できなかった訳だが。
平成最初(第122回=これも結果的にそうなった)の演奏会は2週間後の1月22日にサントリーホールに於いて行われた。指揮は山田一雄氏でメインのプログラムは『幻想交響曲』。この曲は新響にとって鬼門のようで、何度演奏してもどこかしらに瑕を残して今に至っている。そしてこの時の演奏は年初からの練習も進捗しなかった事もあってか特に不首尾に終わった感がある。個人的な失敗も絡んでいた。
私はその当時、新響に於けるインスペクターとして練習に関わる実務を引き受けると共に、『東京マーラー・ユーゲント・オーケストラ(TMJ)』という団体の結成に深く関わり、代表(という名の雑用係)を務めていた。指揮者に同じ山田一雄氏を仰ぎ、新響の練習と並行してマーラーの第三交響曲を練習中だった。雑用係だから練習の都度に山田氏とは事前連絡をとり、その日の会場や練習内容について話し合っていた。
これも年が明けてからの練習の事と記憶するから、本番1週間前の時期という事になろうか?日曜日だった。新響の練習を午後に控えたその朝にも山田氏とは連絡を取っていた。その打合せに沿って会場最寄りの駅改札口で氏を出迎える。歩き始めた処で、
「先生、今朝お伝えした通り、今日は『幻想』からお願いします」 と伝えるとやや間があって、
「・・・・ああ~~」
叫びと共に人混みの流れの中ながら頭を抱えて立ちつくしてしまった(このあたりの情景はヤマカズさんの往年を知る人には容易に思い浮かぶだろう)。何とTMJの練習と勘違いしてマーラーのスコアを持って来てしまっていたのだった。仕方なく私のスコアを提供してひとまず練習の形は間に合わせたが、所詮他人のスコアである。練習は低調に終わってしまった。新響にはこの内情は伏せていたが、これは偏に私の責任である。本番の直前になってさえこんな混乱を来しているようでは結果も知れていよう。
当時の新響の演奏は出来不出来の波が大きかった。だが自分の不手際を敢えて度外視したとしても、団全体の気分は未だ昭和の終焉を引きずっていて、平成の新時代への切替えに至っておらず、更には音楽監督たる芥川氏の長期の不在と不明の病状という要素が加わり、少なからぬ影響を演奏に与えていた事は間違いない。
◆芥川氏の死=新響の昭和と平成と=
それから10日と経たぬ1月31日。この日一日の出来事は、30年を経た今も時間単位で記憶を呼び戻す自信がある。
午前中家人から電話が会社に入った。病院からの帰途で、子供が出来て9月下旬が予定日という。この時を含め3人の子を持った訳だが、自分の子が生まれる?現実味皆無の感覚だった。が、とにかく人の親となるからには待ったなしで決めなければならない事(まだ所帯も定めていなかった。)も沢山湧き出してくる。とにかく晩に待合わせて相談という運びになった。
その夕刻17:00過ぎ。外出先に連絡が入り、芥川氏の訃報を知る。病状を知る事も無かった分、突然の死去とのイメージが強く、ショックも大きかった。朝家を出る時には予想もしなかった、新響と私生活上の問題が同日同時に降りかかってきた。言うなれば「公私」の狭間の中でどう対処するか?の回答が容易に出ないが、とにかく帰宅するほかない。飛び乗ったタクシー内のラジオからは芥川氏死去のニュースが流れていた。
繰返しになるが現在とは違い、通信手段と言えば携帯電話やメールではなく固定電話が当たり前。即座に仲間内で情報が共有できるという時代ではない。確実に電話のそばにいられる団員を基点にして連絡を集約する方法で情報をその都度確認する事に決まる。その結果として新響の運営メンバーの大半は芥川邸に向かう段取りを取られていた。
が、こちらは流石に今日ばかりは自分の生活を優先せざるを得ない・・・・という結論に達し、行きつけの店で家人と落ち合ったが。だが個人的な話を進める間にも、何度か新響のメンバーと連絡をとっていて、その都度店を出入りする必要がある。様子を見ていたなじみの店主(女性)より理由を訊かれたので、芥川氏が亡くなった事、その関連の連絡で落ち着けないでいる事を伝える。
「芥川也寸志さんて草笛光子のご主人だった人よね」 「えっ!?」
意表を衝かれた。自分が世事に疎いだけかもしれないが、それにしても我々にとっての彼は、まずは芥川「先生」であり、新響の音楽的決断の全権を握る「音楽監督」の位置づけで、ある種雲の上の人だった。が、世間の人にとっては、作曲家として知られると同時に、テレビでもよく顔を見かけるある種の「タレント」であった。女優との結婚歴が無かったとしても、芥川氏を見る目には全く異なる角度があったのだった。
因みにその草笛光子氏は現在85歳を超えて未だ女優としての生命を保っている。昨2018年初頭から1か月間『日本経済新聞』の『私の履歴書』にこの女優の自伝が掲載されていたので、芥川氏との2年ほどの結婚生活にどの程度踏み込んでくるのかを、個人的な興味もあって毎日読み進んだ。が、結婚生活はすれ違いの連続との話があるばかりで詳細には殆ど触れられておらず、肩透かしの感が残った(これは余談)。
平成元年の1月は終わった。
この月は日本にとっても新響にとっても自分個人にとっても、殊更に寒く暗く、そして長かったという印象が去らない。そこには死の影が貼りつき、その影響は長く尾を引いた。それでも人は日常を喜怒哀楽のうちに暮らし、絶え間なく人生を送っていかなければならない事を痛感していた。先年に母親を亡くして初めて気づいたのは、親が死んでいくら悲しかろうが、生きているこちらは時が来れば確実に腹が減る、という哀しい現実だったので、尚更にそう感じていたのかもしれない。
そしてはからずも個人的に生と死の交錯を経験する日となった平成元年の1月末日を以って新響の「昭和」も終わり、同時に「芥川也寸志と新交響楽団」の時代も幕を閉じた。
これはすなわち芥川氏の謦咳に直に接し、新響のメンバーひとりひとりが、その音楽に対する姿勢や精神を学び得た時代が終わりを遂げ、今後は彼の遺志と精神とを継承しつつ、我々ひとりひとりが芥川氏の唱えた「アマチュアである事」の自覚に基づいて、そのあるべき姿を模索する時代が到来した事を意味した。言うなれば新響に残された氏の遺産を、時代ごとの状況と考え合わせて、「変えるべきもの」と「不変であるべきもの」とに取捨して継承するという宿題を突き付けられた訳だ。そしてここに新響に於ける「昭和」と「平成」との明確な時代区分があると考えざるを得ない。
芥川氏の不在によって全てが停滞していた同年4月1日の第123回演奏会は、2月に入って決定した本名徹二氏の指揮によって、2ヶ月弱の練習期間で危機を乗り切った。この演奏会のひとまずの成功によって、ようやく新響の平成時代は始まったと感じている。
ずいぶんと昔の事になった・・・・。