ハイドンへのある視点
◆車大工の家
ひとつのエピソードから始めよう。若き日の福澤諭吉(1835~1901)が、江戸幕府の使節の一員として初めてアメリカに渡った折りの事である。彼はかの地で、生まれて初めて馬車というものを目の当たりにして当惑する。後にその時の事を語っている。
所が此方は一切万事不慣れで、例えば馬車を見ても始めてだから実に驚いた。其処に車があって馬が付て居れば乗物だと云うことは分りそうなものだが、一見したばかりでは一寸と考が付かぬ。所で戸を開けて這入ると馬が駈出す。成程是れは馬の挽く車だと始めて発明するような訳け。(『福翁自伝』)
広汎な蘭書を精読する事を通じ、西洋の文物に対する理解は当時の日本人の中でも群を抜いて高かった彼(事実、米国内の生産現場を視察するごとに、その背景にある理論や原理を説明抜きで理解できていた)にして、馬車に対する想像力はかくの如くに働かなかったのである。無理もない。江戸幕府は軍事的理由から、大河への架橋や大型船の建造を禁止するのと同列に、馬車の製造も禁じている(貴人でさえ移動には輿か駕籠を用いた)。それ故に車輪による乗物自体が王朝時代の牛車以降日本には殆ど存在せず、僅かに祭りの山車か運搬に用いる粗末な大八車・・・・程度のもの、しかもそれを馬で曳かせるという発想自体が生まれなかった。これは今考えるとひどく奇妙な事にも思えるが、既に開国期を迎えた日本にあって、殊更に開明的であった福澤先生の脳内さえ支配していたほどだから、一般の日本人にとっての「車」とは到底人が乗って馬が曳くものとの認識には至らなかったであろう。
さて、ハイドン(Franz Joseph Haydn1732~1809)の事である。彼には幼少年期の記録が殆ど無い。この事は後世に大作曲家として記憶されている人々と一線を画している。モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756~1792)のように眉毛が唾で濡れ放題となる事請け合いの神童神話(?)に取り囲まれている訳でも無い。かといって、酔った父親の怒声が突如深夜に湧きおこり、子供の悲鳴共々ピアノの音がいつまでも鳴りやまない・・・・「これって虐待では?」。今ならさしずめ近隣から児童相談所へ通報があって不思議のない逸話があるでもない(誰の事か判りますね)。功成り名を遂げた晩年に至っても当のハイドンが殆ど語らなかった為、どんな子供だったか判らないのである。
その中ではっきりしているのは彼が「村の車大工」の息子として生まれている事実だけだ。
この幼少年期の記録の乏しさと「車大工」の語が合併すると、我々日本人はとかく「貧困」の存在を連想しがちで、挙句にハイドンに対しては、
寒村の一画で、大八車などの修繕で辛うじて生計を立てていた貧しい職人の家から、突如として偉大な才能が現れた・・・・
というようなストーリーを勝手に描いてしまう。少なくとも個人的にはつい最近までそうした想像を当たり前のようにしていた。それは前述の通り日本人にとっての、自動車の出現以前の「車」とその製造に従事する人に対する伝統的なイメージの貧弱さに起因するのだろう。
だがヨーロッパ社会は全く異なっている。古代ローマには馬によって牽かれる戦車があったし、様々な形態の馬車はハイドンの出生以前から広く普及し、ヒトとモノを輸送する手段となって久しい。当然その交通を前提としたインフラとして、舗装された道路が四通八達している。「神童」モーツァルトがヨーロッパ中を巡ったのも、ゲーテがアルプスを越えてイタリアに至ったのも、すべては馬車による旅だった。つまりヨーロッパは既に「車社会」だったという訳。とすれば車産業に関わる業種の規模も裾野の広さも相応のものであった筈で、こうした背景を前提として、改めてハイドンの出自を考えてみると(特に日本人にとって)かなり違ったものになってくるのではあるまいか?そこに「貧困」や「零細」が入り込む可能性は限りなく低い。
ハイドンの生家は今も遺る(記念館になっている)。地域を治める領主の宮廷で使われる馬車の新調や保守・修繕なども請け負っていたというから、御用達の車大工だった訳で、それにふさわしい規模の工房と人数を擁していた筈である。家屋は後世の補修はあるにせよ、日本人の抱く車大工のイメージとは隔絶した構えであり、生まれた部屋と称する一画も、ベートーヴェンハウスの屋根裏部屋とは広さも採光も違う。且つハイドンは12人兄弟といい(何人成人したかは不明)、5歳下のミヒャエル(Johann Michael Haydn, 1737~1806)も作曲家となっている(ウェーバーはその弟子)。確かに血縁者に音楽家は認められないが、兄弟そろって6歳になるとウィーンに出て聖歌隊に入る事で音楽家としての人生をスタートしているのだから、それ以前から並み以上の豊かさの中で当然ながら音楽は身近にあった筈である。才能の片鱗も垣間見せていたろう。だがそれを殊更に外部に喧伝する必要がなかったほどに物心両面にわたってのゆとりがあった、と考える方が自然に思える。ハイドンの作品を通じて流れる「落ち着き」「穏やかさ」というものの源流をそこに感じてしまうのは、聊かうがちすぎだとしても。
◆交響曲(シンフォニー)の成立~ハイドンまで
今でも小中学校の音楽室にあった作曲家の肖像画を時折想い出す。まずバッハとヘンデル(このふたりは共に1685年生まれ)そして次がハイドンだった。明治以来(ちょうど『明治100年』と言われた時代)の洋楽導入がドイツ音楽一辺倒だった思潮を反映し、幼い純真な少年(筆者の事。念の為)にも音楽と言えばドイツ、ドイツ音楽と言えば交響曲!という先入観をいやが上にもすりこませるに充分な装置だった。とはいえ、大バッハが交響曲を遺した訳でも無い。が隣のハイドンに至っては100曲以上も交響曲を書いている。この量的なギャップというものが当時でさえ不可解と感じられた。
調べるとバッハの厖大な作品目録の中で、『シンフォニア』と題された管弦楽作品が1曲だけある(BWV1046a 注1)。これは何らかの祝祭の機会に書かれたものと言われているが、確かにその冒頭からあふれ出る華美・盛大な気分はそうした推定を容易にさせるものを持って いる。バロック時代には『シンフォニア』とは祝典のための音楽だった。
一方でオペラの序曲として演奏される『オペラ・シンフォニア』というものがあった。スカルラッティ(Alessandro Scarlatti 1660~1725)はナポリにおいて、急-緩-急の3部構成的な序曲を既に1680年代から作品に用いていた。これが短期間のうちにオペラから独立し、ひとつの器楽作品のジャンルへと変貌してゆく。「交響曲(シンフォニー)」へ脱皮の第一歩である。これがドイツではなくイタリアで創始された点はもっと重要視されても良い。
ハイドンが生まれた時、大バッハは既に47歳。とすればふたりの作曲家の肖像の間には、本来もう一世代然るべき作曲家のそれが加えられるべきなのだ。事実この間「忘れられた」作曲家たちによる絶えまない交響曲創造への堆積がある。
例えばバッハの息子たち・・・・次男であるC.P.E.バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach 1714~1788)は3楽章形式のシンフォニアとそこにメヌエットを加えた4楽章構成の交響曲を合せて20曲以上書いた。ロンドンで評価を得た末子のJ.C.バッハ(Johann Christian Bach 1735~1782)もシンフォニアを約60曲残している。モーツァルトは8歳の折にロンドンで彼に会い、その影響から3楽章構成の最初の交響曲(注2)を書くに至る。
秀逸なオーケストラを擁したマンハイムを拠点としたシュターミッツ(Carl Philipp Stamitz 1745~1801)の手になる作品(シンフォニアだけで51曲ある)も忘れるべきではない。ここでは詳細を述べる紙数は無いが、彼らによってソナタ形式をはじめとした独立した性格を有する4楽章形式の交響曲はひとつの定型を得るに至る。
同世代若しくは半世代前の数多あまたの作曲家たちによって、急速に形成されつつあった交響曲の土壌。その上にハイドンという種子が落ち、この分野における収穫の時期を迎えた。我々がこんにち耳に出来るのは、その限られた上にも限られた上澄みの一掬に過ぎない。
◆宮仕えの日々と多作
ハイドンは1761年29歳の折から約30年間ハンガリーのエステルハージ(Eszterházy)侯爵家に仕えた。彼の100曲以上(その全容は掴み切れない)交響曲の大部分はこの間に、自ら楽長を務める宮廷楽団の為に、更には特定の演奏機会の為に作曲されている。それは定められた日常業務であり、大バッハが教会の楽長の職務としてその儀式典礼の為に絶えず新作を創造していた姿と変わらない。ハイドンはそうした作曲家の最後の世代だったと言える。
例えばある朝、いつものように控えの間にいる作曲家は、主人から今日は交響曲を5曲作曲せよ(!) と命令される。一晩で城を築けと臣下に無理難題を平気で命じる織田信長のような君主だが、こうした場合の事を彼は後年述懐している。
私は座席にすわり、その時の気分が悲しいか、愉しいか、厳粛かふざけっぽいかにしたがって、楽想を作り始める。ひとつのアイディアが私をとらえたならすぐ、私は全心の努力をもって、芸術の法則にしたがって、楽曲を完成させることにつとめる。
1日に5曲の交響曲を作るなど荒唐無稽の事にしか思われなかったが、ある時を境に考えを変えた。彼の交響曲群の中に特殊な楽器編成の作品が混じっている事に気づいてからだ。例えば交響曲第12番・31番・39番そして第72番の4曲はいずれもホルンが4本用いられており、当時としては異例と言える。作曲家は「いまそこにある」合奏体の編成での演奏を前提に作品を仕上げる事が常態であって、ありもしない楽器を編成に加えて曲を作る事はしない。即座に演奏できない作品は無意味だった。
とすれば上記の4つの交響曲は、通常2人だったホルン奏者に対し、何らかの事情で2人が加わって4人のホルン奏者が揃うという特殊な事情の現出によって「その為に」ハイドンに作品を書くよう指示が下ったとの想像されてくる。
記録によるとエステルハージ家の宮廷楽団にホルン奏者が4人揃った時期は1763年8月~12月と1765年5月~翌66年2月の2度、最長でも13か月間に過ぎない。4つの交響曲はその短時日の期間に、他の作品を多作するのに並行して書かれたと想像するほかはない(交響曲の番号がまちまちなのは、作曲順に番号が付けられている訳では無い為である)。更にこれ以外にも4本のホルンを使っている作品が書かれている事実を知れば、「1日に5曲の交響曲」は流石にオーバーだとしても、ハイドンが目まぐるしく変化する状況の中で、新たな作品の創造を求められていた事だけは、この一例を見ても間違いない処だ。
そして主人にしてみれば、こうした無理難題への解決能力のある音楽家を手元に置いている事はひとつのステータスとなる(他人の能力を量る上での尺度は、いつの時代も質よりまず量だ)。その「業務命令」の内容とハイドンの対応を考えれば、多作は当然の帰結であった。その量以上に重要なのは、仕事の繰返しの中で絶えず創意を重ね、交響曲の洗練されたスタイルを確立した事である。
ハイドンといえど初期の作品にはシンフォニアの残照とでもいうべき3楽章構成の作品がいくつもあるが、それも一定の様式に固着せず、様々なスタイルが試みられている。その様な試行錯誤の繰返しの結果として4楽章 に構成が固まり、且つこの4つの楽章にそれぞれ異なった性格を初めて与えるに至る・・・・従来の交響曲で はシンフォニアの時代同様、楽章ごとの個性は重視されてはいなかった・・・・ハイドン以後の交響曲では余りに当然の要素になってしまったが故に、なかなか彼の創意に気づかずにいるが、これは重要な進化だった。
現代の我々がこの作曲家の交響曲群を見渡した時、例えばベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770~1827)に於ける『英雄』のように、ある作品を境にした特筆すべき飛躍を見出すのは難しい。だがともすると見落としてしまいがちな何らかの特徴が、独創が、工夫が各曲に必ずある。多作の中で培われる進歩とは本来そうしたものだ。むしろ多作を強いられる条件を、ハイドンは奇貨として活用していたと考えるほかはない。
◆転身と成功
1790年にハイドンはそれまでの宮廷音楽家の地位を離れウィーンに移る。間をおかずロンドンのオーケストラを主宰するヴァイオリン奏者ザロモン(Johann Peter Salomon 1742~1815)によって渡英の機会を得。それ以前から既に一部の作品群は出版され、名声は高まりつつあったのだ。
大作曲家の輩出という点ではやや見劣り感のあるイギリスだが18世紀末のこの時期、市民層の形成により、音楽作品は宮廷の奥で一部の人々が享受するものでは既になくなっていた。首都ロンドンは大規模かつ高質なオーケストラを擁した、新作音楽の一大消費地とでも評すべき都市に変貌を遂げている。限られた人々を対象に作品を書き続けていたハイドンにとって、かの地のオーケストラを前提に、不特定多数の聴衆の為に意識して作品を発表する「興行」は、自由人としての恩恵を物心両面で充分にもたらした。つまり彼は市民社会での作曲家への転身にこの時成功したのである。その失敗によって貧困の中で死んだモーツァルトの轍を踏まない幸運を彼は得たという事だ。
この充実の中で合計12曲の交響曲が新作された。現在交響曲第93番から第104番に数えられる作品群である。掉尾を飾る『ロンドン』はその2度目の渡英の折に作曲されている。既に60歳を過ぎていた作曲者。随所に見られる闊達な表現と構成の緻密さに、この都市に活躍の場を得た彼の得意をみる。
言うなればハイドンの交響曲は程よく抑制のきいた「良き趣味」が、人々の支持を得ていた時代の最後の産物なのかも知れない。決して派手さはない。だが彼以前そして彼以後の音楽史全般を頭に入れ、あらゆる音楽作品をひとわたり聴いた上で、改めてハイドンの作品群に目を転じると、改めてその存在の大きさに思い至る・・・・という立ち位置にあるように思える。
彼の完成させた交響曲というジャンルはベートーヴェンに引継がれると、人間感情のより強い発露の手段へと変質を余儀なくされる。『ロンドン』が初演された1795年の時点で、このあまりに人間的な後継者はまだ交響曲を書いていない(ハイドンの影響を強く受けたという第1交響曲が初演されたのは1800年)が、『第九』の初演は、『ロンドン』から30年足らずである。ハイドンが宮廷楽長として30年以上に亘って営々脈々と築き上げた交響曲のスタイルは、その後の同じ程度の時間の推移の間に劇的と言って良い大変容を遂げた訳である。社会構造の変化が、人々の音楽を含むあらゆる慾求を激変させ、それが交響曲の変貌に深く反映している事には論を俟たない。そしてその後の音楽も創作され続けられた・・・・だが、人々の刺激への慾求にはやがて限界が来る。その追求に倦み、疲弊してしまうのだ。これは生身の心身を持つ存在の宿命と言えよう。誰しもここから逃れきれない。
いたずらに奇矯に奔る事も特異な趣味を押し付ける事もなく、内心の辛苦を無理に隠す作り笑いも過剰な謙遜もない。それでいてユーモアもあるし、微笑ましい程度の悪戯っ気も備えている・・・・ハイドンの作品に触れると、どういう性格の人を終生の友人とすべきか?の回答も自ずと明らかになってくるように最近とみに感じている。
注1)有名な3声のインヴェンションは、2声のそれと区別して「シンフォニア」と呼ばれるが、ここでは管弦楽の為の作品に限定している。またこの作品は有名な『ブランデンブルグ協奏曲』第1番に転用(作品番号も同一)されているので、それを聴けば『シンフォニア』の性格を類推する事ができる。
注2)「交響曲」と「シンフォニア」とを区分する定義は非常に曖昧なまま放置されているのが実情のようだ。日本ではハイドン以降の作品に対しては、初期段階の作品で3楽章形式を採っていても「交響曲」としている。本稿でも仕方なくこの実情を前提に論を進める。解りにくい部分があるとすればそれは筆者の思考の整理に帰するものである。
主な参考文献
『福翁自伝』福澤諭吉 岩波文庫
『名曲解説全集』交響曲1 音楽之友社
『音楽史の点と線』岩井宏之 音楽之友社
『バッハの息子たち』久保田慶一 音楽之友社
『西洋音楽史』下 D.J.グラウト 音楽之友社
『音楽大事典』平凡社
『ウィーン音楽文化史』渡辺 護 音楽之友社
*以上の稿は2011年7月第214回演奏会の交響曲第101番『時計』に関する曲目解説原稿をベースとして、大幅に加筆・修正を施し、再構成したものです。