新響・昔話1=傘寿を過ぎたOBの独り言=
編集人注
今号より、1966年に新響が労音からの独立した当時から団の運営に携わって来られたOBの戸田昌廣の執筆による「新響・昔話」を連載致します。どうぞご期待ください。
【日本のうたごえ祭典】
今から60年程前、1960年頃のはなしです。その頃東京では’60年安保闘争(日米安保条約改定反対)のデモが盛んで、連日国会周辺ではデモ隊で賑わっておりました。私は国鉄(現・JR)に勤めていて20代の前半でしたので、労働組合の青年部員として恰好のデモ要員でした。
10日に1回位デモへの順番が回ってきたと思いますが、勤めが終わってから大きな労組の旗を以って日比谷の野外音楽堂での集会に参加し、その後国会周辺へのデモ行進で盛り上がって新橋・銀座とどなりながら(シュプレヒコール)歩き、数寄屋橋で流れ解散、と言うことをやっておりました。
そんな世相の’60年の1月に私は新響に入団しました。その何年か前から労音(勤労者の音楽鑑賞組織)の会員になっていて、月1回の例会(音楽会)に行きクラシック音楽に親しんでおりました。
東京労音には会員による自主サークルとしてオーケストラがある事は知っていましたが、職場にジャズ・バンドがありそれに熱を入れて腕を磨いていたわけです。
オケに入ったものの、楽器はトロンボーンなのでまるっきり出番が無く、ダラダラとしていたように思います。
ところがその年の12月に新響が千駄ヶ谷の東京都体育館(現・東京体育館)で行われた「日本のうたごえ祭典」への出演に加わってビックリ仰天!それからオケに嵌まることになってしまったのです。うたごえ運動についてはよく知らなかったのですが、その以前より若者を中心に全国的に活動していて、私の職場にも時々アコーディオンを持った運動員が来て、少人数のグループでロシア民謡等を唄っているのを横目でみていたような気がします。
都体育館で行われた「日本のうたごえ祭典」はうたごえ運動の全国大会で、日本各地区から選ばれた代表グループが一堂に集まって交流する・・・・という音楽会で、最後に新響の出番となりアンコールでうたごえ運動のテーマソング「祖国の山河」**①を作曲者自身の指揮による大合唱で終わるというプログラムでした。
とにかく会場に居る全員が出演者で、観客や聴衆は誰もいないわけですから全員合唱はすごい音の洪水で、今になってもあの時のショックは忘れられません。指揮者はオケに背を向け会場全体を相手にし、大して大きくなかった新響はセンプレ・フォルテッシモで悲鳴をあげながら終わる、という行事でした。
記録によると、この「祭典」への出演は’59年~’64年迄あったとありますが、’65年から労音との組織問題が起こり“うたごえ運動”との縁は途切れてしまったわけです。
**①(備考)
合唱曲「祖国の山河」は、1953年の第1回
“日本のうたごえ祭典”のために創られた平和組曲「日本のうたごえ」の終曲で、作詞:紺谷 邦子 作曲:芥川 也寸志 です。
(追記)
この次は、中・ソ間のケンカが巡り巡って私たちの趣味の世界にまで押し寄せて来て面食らった、労音問題に触れてみたいと思います。