新響・昔話2=傘寿を過ぎたOBの独り言=
編集人注
新響OB戸田昌廣氏による『新響・昔話』第2回です。今回のテーマに関しては以下に、より詳しい状況が著者本人によって語られています。またそれに触発された拙稿も合わせてご参照ください。
第232回演奏会プログラム「座談会新響のルーツを探る」
第233回演奏会維持会ニュース「小説『仮装集団』と新交響楽団」
【労音からの独立とは】
ソ連がスターリンの死後(1953年)、1917年のソヴィエト革命以来の政治路線を修正した事により、毛沢東の共産中国といざこざが始まり共産主義の世界がぎくしゃくしてきました。
この揉め事が日本にも伝播して、国内の革新政党間の関係がおかしくなり、当時青年層に盛んだった文化活動等の活動方針にも対立が生まれ、純粋・単純な音楽活動と思って参加し享受していた労音の内実が露わになって来て、そうだったのか・・・と、世間に大ショックを与えたのが私達の労音からの独立騒動だったのです(1966年)。
当時私達は"東京労音新交響楽団"と称して団員の技術レベルによって第1・第2・第3の三つのオケと吹奏楽団の四つのグループがあり、総勢250名位の団員と4名の指揮者により各団が独自に活動しておりました。
活動は別々でも東京労音の組織内グループですので、運営ルール・楽譜・備品・大型楽器等は共通で4グループと労音事務局とで運営委員会を以って安定した運営が出来ていたと思います。
ところが、各団が順調に活動していた1965年、労音より4団体へ組織改革の提案があり、それからの約1年の間、楽器を持ってオケで音楽に親しんでいる団員にとってはピンとこない労音からの問題提起に付き合うことになったわけです。各団の運営委員は労音と議論する中で、その改革内容が音楽以外のところにある・・・ということが分かってきたのですが、多くの団員にとってはそんなことはどうでも良くて各団とも通常の活動をしていました。
結論から言えば、このオケの創始者であり指導者である芥川也寸志氏の政治姿勢が労音側と異なってきて邪魔になり、それなりのすじから排除するようにとの指示があったのでは、と理解するに至りました。この間芥川氏自身からもこれはごくごく政治的な問題だから論点を間違わないようにと言われておりました。
1966年3月にこの問題にケリを付けるかたちで、第1・第2のオケと吹奏楽団は労音から離れ、第3オケはまだメンバーも少なく力量も弱いので労音の中でやって行く、と各団の総意にて独自の道を歩む事になり今日に至っております。この時、第1オケ(今の新響)からは2名が労音の主張に賛同して去りました。