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バソンの軽重を問う

浦 美昭(ファゴット)

 維持会会員の皆さま。いつもお世話になっております。
 私はドイツ式ファゴット歴45年で、新響では33年間もお世話になっております。
 7年ほど前から日本においてバソンと呼ばれているフランス式バスーンを勉強する機会に恵まれました。世界中でほとんどのシェアを占めているドイツ式(またの名をヘッケル式)のファゴットと絶滅危惧種とまで言われている少数派のフランス式(またの名をビュッフェ式)のバソン。バソンの会の一員であり新交響楽団で(おそらく)バソン吹き第1号の私がバソンの名を世に広めるべく書き綴っていきたいと思います。

 私のバソンとの出会いは、ファゴットを始めて間もない高校生のころ、中学生でありながらプロのオーボエ吹きを目指していた弟の勉強用にとサン・サーンスのソナタ集のレコードが我が家にはありました。その中のバソン吹きの大家モーリス・アラール氏の演奏を聴いた私は「なんじゃこりゃ!」と叫んでしまいました。まるでテナーサックスのように聴こえるファゴットとは異なるバソンの音色に驚いたのです。それから何十年も経った還暦も近づいていたある日、大学で一緒にファゴットを吹いていた後輩が今ではバソンを吹いていることを知りました。私は何かに導かれるようにCDを買いあさり、その音色に魅せられ、彼と連絡を取り、楽器店を紹介してもらい、家族の許しを得てバソンを購入しました。まるで苦いふき味噌が大人になってから美味しく感じられるように、若さゆえテナーサックスに聴こえていたバソンの音が、還暦近くまで齢を重ねたことで得も言われぬ心地よいものに変わったのでした(最近買い求めたふき味噌が美味でした)。

 まずは簡単にファゴット(バソン)の歴史について書きたいと思います。なお、ファゴットというのはドイツ語(またはイタリア語など)の呼び方で、バソンはフランス語です。楽器の名前は国によって呼び方が異なりますが、日本ではドイツ式をファゴット、フランス式をバソンと呼ぶことが多いです。今から何百年も前、モーツアルトやベートーベンの時代、18世紀から19世紀はじめころのファゴットはキーの数が2~5個くらいのバロックファゴットから発展したものでした。この時代にはまだドイツ式もフランス式も存在しませんでした。
 19世紀は木管楽器の世界においてさまざまな発明がなされ、大きく発展した時代ですが、バロックファゴットからの発展の流れは緩やかなものでした。19世紀の中頃、ヨーロッパ全土でほぼ完成したフランス式バソンが演奏されていました。
 一方、ドイツ式ファゴットは1923年のファゴット奏者アレメンレーダーの論文から始まります。革新的な改良の末、ファゴットの普及が始まったのは、それまで独自のファゴットを使用していたウィーン・フィルがドイツ式に変えた1870年ごろです。その後ドイツはもちろん、アメリカやヨーロッパ各国にドイツ式は広まっていきました。フランス以外で最後までバソンで頑張っていたイギリスも、1930年代にトスカニーニ率いるニューヨーク・フィルの演奏旅行が大きな契機となりドイツ式旋風が巻き起こりました。フランスでも1960年にカラヤンが音楽監督に就任したパリ管弦楽団でファゴットに乗り換えるなどしています。

 さて、Wikipediaによる数年前までのバソンの記述には誤りが非常に多く、それが世の中に広まってしまってしまい、惨憺たる状況にあるといえます。今(2023年3月)では訂正が入っており、間違いは大幅に減っているようですが、すでにあの有名なコミック『のだめカンタービレ』にも悪い影響を与えてしまっているようです。微力ながら世にはびこるバソンへの誤解を払拭していきたいと思います。


1.フランス式のバソンは音が小さいから4本で吹いている?
 Wikipediaから引用してみましょう。

 「バソンは音量があまり大きくないことから、ベルリオーズのように1パートに2本重ねて4管として使われることが多い。」

 恐らく音が小さいと言っているのはドイツ式ファゴットと比べてとのことだと思うのですが、ベルリオーズが『幻想交響曲』を作曲したのは1830年です。これに対してバソンの製作会社ビュッフェの工房設立は1825年(バソンを作り始めた年は不明)、ヘッケルが工房を設立したのは1831年です。ドイツ式ファゴットが完成するのは1870年ごろと言われているので、当時のファゴットの音量が小さかったことを言うことはできても、バソンの音が小さいとは言えないはずです。
 ベルリオーズ先生に直接聞いて確かめてみましょう。

 「ファゴットは通常2つのパートで書かれるが、大きなオーケストラは常に4つのファゴットを備えているため、不自由なく4つのパートで書くことができます。さらに良いのは最低音声部を倍管にして低音を増強する3つのパートにすることもできます」
(ベルリオーズ著 "A Treatise on Modern instrumentation and Orchestration" 110ページより)

 楽器の音の大きさ云々とは仰っていませんねえ。また楽器・古楽研究家の佐伯茂樹著『ピリオド楽器から迫る オーケストラ読本』(39ページ)にはこのように書かれています。

 「シャブリエの狂詩曲《スペイン》はベルリオーズの《幻想交響曲》と同じように、2管編成で書かれているにもかかわらず、ファゴット(バソン)だけ4本使われている。おそらく、これは8フィートのベースラインを重視したルイ王朝時代から続く伝統なのだろう」

 たしかにバソンはファゴットより音量が小さめですが、2本を4本にしてもたった3dBしか大きくなりません(筆者の仕事は騒音などの音関連の技術職です)。Wikipediaの記述を修正願いたいものです。


2.バソンの音色はホルンに似ている?
 これもWikipediaの記述から起こる誤解です。モーリス・アラール大先生のバソンの演奏を聴いてホルンに似ていると思う人なんていないんじゃないでしょうか。Wikipediaでは「音色がホルンに近く」と書いてありますが、別の箇所には「指揮者のジョン・フォウルズは、ヘッケル式ファゴットはホルンとの音の同質性が高すぎると考え、ヘッケル式が優勢であることを1934年に嘆いた」と書いています。(英語版は後者のみ記載あり)ドイツ式のほうがホルンに音色が似ているそうです。こちらも修正を希望します。


3.「キーが多く完成度の高いファゴット」
 バソンの知名度を飛躍的に高めてくれた「のだめ」ですが、同時にたくさんのニセ情報もばら撒いてしまったようです。本当かどうか数えてみました。
 キーにはトリルキーや速いパッセージのための替え指キーなどもありますので、押えることのできるすべてのキーを数えてみましょう。
  バソン:22キー(ビュッフェBC5613R)
  ファゴット:23キー(ヘッケル41i)
 う~む、ファゴットの方が確かに多いですが、あえて言うほどの違いは無いと思うのですが。写真はファゴットとバソン(の下部、右手の親指で押える個所です。ぱっと見、バソンの方が広々としているので、これが「キーが少ない」という話になってしまったと考えます。この部分のファゴットはキーが多いというよりタンポが多いですね。

  
楽器の下部:左が現代ファゴット、右が現代バソ 


4.バソンはバロック時代からほとんど変わってない?
 歴史のところで述べたように、バロック時代のファゴットはキーが2〜5個くらいです。
 フランス式バソンが完成した頃にはキーの数が15個ほどになっています。
 バロックファゴットとバソンがほとんど変わっていないのかどうか比較をして調べてみましょう。写真をご覧ください。ね、ぜんぜん違うでしょう。緩やかに発達してきたといってもバロックファゴットとバソンはこんなに異なる楽器なのです。
 
モーツアルトの時代の7キーの楽器 バロックファゴット
・材質は楓
・最低音のB♭キーは通常は「開」
・キーの数は2~5個


 
現代のバソン
・材質はローズウッド
・最低音のB♭キーは通常は「閉」
・キーの数は20個以上

 
5.バソンを使っているのはフランスの一部のオケだけ?
 バソン奏者がいるオケは、フランス以外にもあります。ベルギーや日本です。忘れていけないのは日本。静岡のプロのオーケストラには何と三人もの日本人バソン奏者がいるのです(「のだめ」連載時にこのオケは設立されていない)。なお私はバソン用のリードをイギリスのバソン奏者から購入しています。ということはイギリスでリードを作って売っているんだからオーケストラのバソン奏者も少数ですがいるのかも知れません。


6.バソンはフランスの伝統楽器?
 「のだめ」ではマルレ・オーケストラのファゴット募集オーディションにポール君がバソンを引っ提げてやってきました。オーディションではファゴット募集にもかかわらずバソンで受けたポール君、指揮者の千秋先輩ら審査員の聴いた演奏は素晴らしいものでしたが、他の審査員からファゴットで募集したのでとバソンでの採用に難色を示されてしまいます。それに対して審査員のコンマスは「フランスの伝統楽器なんだから、守れるのなら守ったほうがいいんじゃないのか!?」とポール君の採用に前向きです。バソンはフランスの伝統楽器なのでしょうか。
 時は19世紀中期、まだドイツ式ファゴットが発明されたばかりの頃、フランス式バソンはヨーロッパ中で演奏されていました。フランス式と呼んではいますが現在主要メーカーがフランスにあるので便宜上フランス式と呼んでいるのであって、かつては敵国イギリスのBoosey & Hawkes社もバソンを作っていたほど広まっていたのです。フランスの伝統楽器だったらイギリス人は死んでも使わなかったに違いありません。
 ところで、現フランス国立フィルの首席バソン奏者であるフィリップ・アノン 氏はこのように言っています。
「私は1977年にファゴットを始めたのですが、フランスのファゴット・コミュニティでは、(バソンからファゴットへ)変更した人たちに対して憎しみがありました。彼らは裏切り者とみなされたのです。忘れてはならないのは、1945年からわずか30年後、反ドイツの怨念が、特に戦争で苦しんだ教授たちの間でまだ強く残っていたことです」
フランス人にとってバソンが伝統楽器なのかはわかりませんが、守りたいと思う気持ちは間違いではないのかもしれません。


7.ファゴットとバソンが並んで演奏するなんて考えられない?
 「のだめ」で、アルマオケの首席ファゴットはドイツ式を吹いています。ポール君はオーディションに合格してもファゴットに乗り換える気は無いので、バソンとの混成パートになってしまいます。実際キーシステムが違うため運指は微妙に異なり、乗り換えは簡単ではありません(最近バソンを吹き始めた筆者の感想です、逆もまた然りと考えます)。
 コンマスはポール君の採用に前向きなのでこのように言いました。
  コンマス:「ファゴットの中にバソンが一人いてもいいんじゃないか?」「できなくはないだろ」(汗
  千秋先輩:「できなくはないでしょうね」(汗
 二人が汗をかきながら「ファゴットとバソンが一緒に出来ると言ってはみたものの本当に出来るのだろうか」と苦悩の声が聞こえてきそうですが、心配はいらないようです。
 1960年ごろ書かれたイギリスのファゴット奏者アンソニー・ベインズ博士は『木管楽器とその歴史』でこのように述べています。
 「これら2種類のバスーンはいずれも完璧なものではなく、お互いに音色も同質ではないにもかかわらず、共用するとかなりうまくいくのは奇妙なことである。イギリスのオーケストラではしばしば共用されているのを見受けるが、一般に最良の効果が得られるには(もちろん奏者にもよるが)ビュッフェを上声部に使い、ヘッケルに下を吹かせると、よりよいといわれている」
 バソンとファゴットの混成は現代のオーケストラでもベルギーやフランスで見ることができます。


8.バソンは本当に絶滅危惧種なのでしょうか。衰退の一途をたどるのでしょうか。
 誤解を解くなんて偉そうなことを言ってまいりましたが、バソンが衰退の一途をたどってきたことに間違いはありません。アメリカでは1953年、モーリス・アラール氏のおじであるレイモンド・アラール氏がボストン交響楽団を引退しました。スペインでは1980年ごろまでにはフランス式をドイツ式に持ち替えています。ブラジルでも1987年にはノエル・ドゥヴォらのバソンセクションが引退や乗り換えによってバソン戦線を突破されてしまいました。前出のベインズ博士は両楽器を演奏した経験からこうも言っています。
 「2種類の楽器を比較してみると、運指法からはどちらが決定的にまさっているということはいえない。ヘッケルの長所は音域の最高部から最低部まで〈ピアノ〉から〈フォルテ〉まで、音色がオーケストラ内で一様に〈効果的〉であることで、この楽器では音を強いたり、鼻音のようにしたり、ぼてぼてさせたりすることなしに、明瞭で効果的なものにするためのリードを手元に揃えておくことは比較的容易である。フランス式の楽器で、これに相応する結果を間違いなく得ることは決して不可能ではないが、はるかに困難である。この型の楽器はリードのちょっとしたむら気にも敏感で、完全条件を備えていないリードだと直ちに露見してしまうような弱点が各音域にいくつかある。これがヘッケル式が自国以外でも成功を収めた本当の理由で、つまりオーケストラ奏者にとって生活が楽になるというわけである。」(『木管楽器とその歴史』所収)
 私がファゴットとバソンの両方を吹いてみてわかること。ファゴットは博士が言っているようにすべての音域で音程と音色が安定していて、低音が気持ちよく鳴り(ブリブリ吹けます)、中音域は憂いを奏で、高音域では透明感があり、どの音域でも他の楽器とよく合う音色です。一方バソンは、(私がへたくそなのかもしれませんが)いくつかの音が安定しません。(音程と音色)そして低音域は鳴りづらくて苦手です。でも高音域は倍音が豊富で吹いていて気持ちいい!ファゴットとバソン、優劣はつけられません。私はどちらの楽器もそれぞれの個性があって大好きです。


9.バソンの未来
 バソンは無くなってしまうのでしょうか。ファゴットがドイツ式だけになってしまったらオーケストラの世界はどうなるのでしょう。ヘッケル式を演奏するアメリカの演奏家は、世界中のオーケストラの地域差がなくなってしまったことを嘆いています。またジュリアード音楽院の元学長は同様の見解を示し、音の均一性は良い目標ではない、国籍やオーケストラによって異なるサウンドが欲しいと述べています。

 そうです、絶望するには早すぎます。日本にはプロのバソン吹きは私の知る限り少なくとも5人はいます。アマチュアも数十人もいます。海外でも2つの著名なオーケストラのプロのファゴット奏者が、ファゴットのみのアンサンブルにバソンを再び取り入れることに強く関心を寄せているそうです。一人目は、ニューヨーク・フィルハーモニックのキム・ラスコウスキーです。ニューヨーク・フィルの同僚にバソンを披露した後、彼女はこう言ったそうです、「ファゴットセクションは、チューニングが合っていれば、私が吹いても構わないと思っていますよ」と。またニューヨーク・フィルに加え、ケルン・フィルハーモニー管弦楽団も2016年にバソンを2本、ファゴットセクション用にドイツキーシステムにカスタマイズしたものを発注したそうです。

 伝統的な製法でバソンを作ってきたビュッフェ社も、最近ではクロワッサンキーやU字管など新しい技術でバソンを吹きやすく改良しています。またセルマー社から独立した技術者デュカス氏はヘッケル式の運指で演奏できるバソンを製作しています。前述のケルン・フィルはこの楽器を購入したようです。これによってファゴット吹きは以前に比べてバソンに転向しやすいかもしれません。かつてバソンしかなかった1900年ごろ、アメリカではドイツ式ファゴットが入ってきたときファゴットに慣れないバソン吹きのために、バソンの運指に似せたファゴットが作られたこともあるそうです。近い将来、多くののファゴット吹きがバソンの音色に魅せられてバソンに転向することがあるかもしれません。それが筆者の願いです。

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