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『タプカーラ』再考のとき

松下 俊行(フルート)

 『シンフォニア・タプカーラ』を新響が演奏するのは、1979年改訂版の初演を翌1980年4月の第87回演奏会で行って以来、今回で17回目という。40年ほどの間にこれだけの頻度で演奏しているオーケストラは無く、初演に至る由来からみても自他ともに認める新響の十八番(おはこ)と言って良いのであろう。実際作曲者の伊福部氏が初演当初から練習に立ち合っている事もあり、その意図を最も体現した演奏を実現している筈である。あっても不思議はない・・・・あって欲しい(苦笑)。
 だが、そうした恵まれた特殊な環境下で演奏している作品だからこその、敢えて言えば悪弊も頭を擡げないとも限らない。入団40年を超えた私自身も、初演を除くとほぼ全ての演奏を経験する僥倖を得てはいる。だが新響のこの曲に対する向き合い方の特殊性が、ともすれば古色蒼然とした後ろ向きのものになってはいまいか?という不安を覚えてもいる事をまずは白状しておこう。演奏の都度「本当にこのような音・このような演奏で良いのか?」との疑問をかねがね抱いて来た。自分でもなかなか整理がつかなかったその不安の由来を、今回初めて1番フルートを吹く機会に・・・・意外かもしれないがこれまでずっとピッコロを吹いており、フルートは初めてなのである・・・・改めて考えてみた。


◆新響入団のころ
 1982年9月5日は新響のオーディションを受け、晴れて入団を果たした記念すべき日だ。25歳になる直前。今も鮮明な記憶がある。オーディションの事はまた別の機会に詳述する事を考えているので深くは触れないが、現在と違ってそれは練習の休憩時間に行われていた。つまり練習の合間に審査をする首席奏者以外の団員は全て部屋から出され、且つそれまでのセッティングのまま、自分のパートの席にお行儀よく座っているとは決して言えない各首席と指揮台との間に立たされ、ひと夏かけて練習したモーツァルトのニ長調の協奏曲を吹いた。現在のオーディションと違い、演奏を終えても拍手がある訳でもなし、終えていいものかも良く分からない(苦笑)。良い印象はないとあって、いくつかの曲折や軋轢もあったが、とにかく「サブトップ」という資格で入団を許された。本来はトップの席が空くのでその後任を採る事を目的としたオーディションだったから(事前にそう聞かされてもいた)つまりは補欠合格だった訳で、実はこれが後々まで境遇に影響するに至るのだが、とにかく入れば何とかなろうとの一心で対応。浅慮だったのである。
 合格者は次の休憩時間を利用して団員の前で自己紹介の挨拶しなければならない。不合格者は自己紹介の必要もないので帰ってしまうから、まぁ勝ち残りという訳で、オーディション後の練習を聴く事になった。実はこの時初めて新響の音を耳にしたのである。伊福部氏の『日本狂詩曲』で作曲者も来ている。指揮は当然ながら芥川氏。ヴィオラのソロに始まる最初の楽章『夜想曲』は無難に過ぎた。次の第2楽章『祭り』に移る。クラリネットの軽快な走句の後に初めて強奏のテュッティとなった。
「!!!」 驚いた。
「なんでこんなに音が汚いんだ!!」


◆表現意慾と演奏技術
 演奏者とは、常にその持てる技術の壁と向き合い、自分の表現を実現したいという欲求との間に折り合いをつける事を余儀なくされる立場にある。重要な事はこの折り合いをどのようにつけるかである。持てる「技術」と譜面から読取った音楽をこのように表現したいという「意慾」との関係性(バランス)を分類すれば、次の3点に絞られる。
①意慾>技術   
②意慾<技術  
③意慾=技術
 単純な図式である。③が理想との予感は誰しもが抱くであろう。だが特にアマチュアの場合には①か②の状況にある。そして練習を通じて③に少しでも近づける努力を怠らない事がオーケストラの活動姿勢や運営を決定するのである。これは当然個人の次元でも同様で、そうした個人の考え方や努力の方向が、その集積たるオーケストラの演奏を性格づける図式となろう。
 私は学生時代を通じ、②を徹底的に指導された。すなわち「自分の技術の内のりで表現をせよ」という事で、この徹底によって所謂『カラヤンコンクール』優勝(1978年)の形で実証されていた。欧米の音楽大学の現役学生(日本ではこうした学生は「アマチュア」とは見做されないが、彼の地では演奏でメシを食っていない学生は全てアマチュア扱い・・・・少なくともプロではない・・・・なのである)によって編成された複数のオーケストラを凌いでの優勝とあって、②の関係性を疑いの余地なきものと心得ていた。
 個々の奏者のレヴェルでは敵いようがない。だが、例えばバトントスの技を磨く事で4人のリレー競技ならメダルも取れると同様のあり方が、オーケストラにも、否オーケストラだからこそ通用する事をその時知ったのだった。
例えばff(フォルテシモ)の強奏部分があるとすれば、それを演奏する各員は自分の持てる音量の幅の中で対応する。大きな音だからと言って音質が変わったり、況してや音が割れたりする事は許されない。それは既にその者の技術の範囲を超えている事(すなわち①意慾>技術)を意味する。これが自分にとっての「常識」だった。この日新響の音を聴くまでは・・・・。
 新響のサウンドを汚いと感じたのは、このオーケストラが極限まで(そう、極限まで)①を突き詰める団体だったからで、瞬時にそれを感じ取る事は出来た。というのも先述のコンクール以後、その学生オケでも「表現意慾と演奏技術」のバランスを如何にするか?を巡っての議論が起こり、それは当然に運営や指導陣の人選までに影響を及ぼして、半年間に及ぶ事実上の活動停止状態をもたらした事を経験していたからだった。その時は「情熱か技術か」というスローガン?だったが、これは言葉こそ異なるが前述した①か②かいずれを優先するかを選択する議論にほかならない。我々は当然のように②をあくまで推し進め、最終的に①を信条とする連中が別のオケを作って袂を分けたが、当然我々からみて彼らは「異端」の存在だった。故に新響のオーディションを通ってからそうした異端の真っただ中に飛び込んでしまった事に肌身で勘づいたのだ。何を迂闊と言ってこれほどの迂闊もあるまい。芥川氏は「ボテボテのピッチャーゴロでも、一塁にヘッドスライディングする高校野球こそがアマチュアのあるべき姿」と広言し、新響にもそれを求めていると後で知った。せめてオーディションを受ける前に一度くらいその演奏を聴いておけよ・・・・その時になって自分を責めたが、後の祭り。
 とはいえせっかくオーディションに通ったので「異世界」に加わった。大丈夫きっと何とかなる、とけなげにも信じていたのだ。翌年には1番フルートの席にも就いた(一応サブトップなので)。そこで自分の技術の範囲を守ってソロを吹くと「お前の演奏はおとなし過ぎる」という。はっきり「つまらない」とまでいう奴がいる。腹立たしさからどういう演奏なら良い演奏なのかを訊けば、気合が足りない、もっと気合を入れろという。ああ気合ね、案の定・・・・でも高校時代、全国大会の常連だった吹奏楽部で、上級生に散々気合を入れられて来たわが身にとっては、今でも最も嫌いな言葉だ。そこで「どうやったら演奏に気合が入るのでしょう?」と、その中身をもう少し具体的にご教授願えば、要は「音が割れてもいいから音量を上げ、ピッチも上ずるくらいに上げる」。そうした演奏の事らしい。冗談じゃない!
 その瞬間オーディション時の事を思い起こした。そもそも補欠合格になった理由が「音が小さい」だったのだ。この話をしても今では団内の誰も信じてくれないが(笑)、これは正真正銘の事実。「音」といっているものの中味が、彼我で違い過ぎており、話が通じなかったのだと悟った(これも気づくのが遅い)。譬えて言えば、向こうは明日の仕事の事も終電の時刻も関係なく、潰れるまで呑んだその量を自分の酒量と言っているのだ。酒に関しては身に覚えはいくらでもある事ながら、こと演奏に於いてそのようなものを自分の「酒量」とは断じて受け容れられない。ギャップは海より深く山より高かった。
 そしてひと度そんなギャップを悟ると、こんな音につきあう事をしなければならないくらいなら辞めようかと真剣に考え、別のオーケストラ結成にも参画した(今だから言うと、その団体とはいまも高レヴェルに活動を続ける『ザ・シンフォニカ』である)。
 それでも辞めなかったのは、ある時から「自分の技術の範囲内での表現」と言いはしても、ではその自分の現在の「技術」とは一体どれほどのものなのか?と考え始めたからだった。技術の拡充を図る方法の具体性に疑問を持ったのだ。音量もその範疇にある。
 大した技術もないその内のりで、ちまちまと表現して矮小な満足を得ているだけではこれ以上に進歩はない。むしろ異端の環境に身を置いた事を奇貨として、自分の技術の幅を拡げる場と捉えて対応する事を考えるべきでは?それでようやく毎週練習場に足を運ぶ自分に折り合いをつけた。
 そうこうするうちに決定的な一事があった。『未完成』の練習の折の事だから1985年の入団3年目。1番フルートの席にいた。第1楽章の息の長いソロを吹くと、指揮の山田一雄氏が棒を止め一喝。「そこはもっと、切ったら血の出るような音で吹いてよ!」。「注意」ではない。はっきり叱られたのだ。いま新響を振るマエストロは誰しも団員を練習の場で叱る事は皆無だし、当の山田氏ものべつ幕なし怒っていた訳でもない。そしてこちらとしても相応に「気合」を入れて演奏していただけにこれは結構ショックではあった。「切ったら血の出るような音を出せ」って、つまり「お前の音には血が通ってない」っていう意味じゃないか。音に血なんか通うわけねぇだろ!!バカヤロー。呑んで荒れた。
 更に2年後、『ダフニスとクロエ』のソロでは「エチュード(練習曲)みたいに吹いている」と、これまた有難くも手痛いご指摘を賜った。まったくなぁ。いずれにせよこうした事態を経験してこちらも意地になった事だけは確かである。本番までには血の通った音が出、「練習曲」に終わらぬ演奏が出来た事は、自分の名誉のため、敢えて付記しておく(因みに氏とはその後新響以外でも接点が出来、『アルルの女』のソロを吹いた折には当初から賛辞も得て、その後の共演を期待出来る段階に入ったが、直後に亡くなった)。
 辞めずに済んだもうひとつの理由は、新響にも「意慾>技術」のあり方を見直そうとの動きが出てきた事がある。これは新響だけではなくアマチュアオーケストラ全体の気運でもあったと考えている。芥川氏の晩年には新響は技術的に(この技術とは合奏に於けるそれの事)行き詰まり、その打開策を模索していた。そこに高レヴェルの技術を持つ若い世代を迎え、彼らの技術相応の表現を具現化すべき変革は焦眉の急となっていたのである。当方の「信仰」に基づくノウハウの提案も漸く迎えられる土壌が出来たと言える。それまではいくら提議してもその都度無視され続けていたのだった。当時は既に首席奏者になっていたので、インスペクターや演奏委員長としての立場を通じても、その方向性を明確に打ち出す事が出来るようになっていた。
 芥川氏の歿後数年にして、ハバロフスクからヴィクトール・ティーツ氏を招いた時に、その音に対する要求を目の当たりにして気づいたが、芥川氏は旧ソ連(ロシアも未だに伝統を引き継いでいようが)のオーケストラのサウンドを新響に求めていたように思う。それは金管楽器に最大限の音量を要求し、それをベースとして、弦楽器を始めとするその他のセクションにも対応し得る音量を求めるスタイル。これは体格も奏法も異なる日本人にはそもそも無理なものだった。音が荒れる訳である。
 という次第で、その後の変革は必然的に急速に進んだと考えている。意慾と技術のバランスは抵抗なく「意慾<技術」に転換していった。もちろんこれは大局的な流れであり、細部を見れば今もいくらでも問題を見出せよう。だがこれまで述べたような流れを知る身としては、感慨を禁じ得ぬものではある。こうした自分の内側と、取り巻く環境の変化によって、辛うじて新響での命脈を保てたのだと今にして思う。


◆新響と『タプカーラ』の現状
 長々と個人的な新響との距離感と、表現意欲と技術とのバランスの推移について書いたのは、こうした流れの中で頻繁に演奏され続けてきた『シンフォニア・タプカーラ』の現在について言及したかった為だ。正直に告白すると、私はこの曲の演奏に臨む都度、過去の亡霊を見る思いがする。どうした事かこの曲に代表される伊福部作品そして他ならぬ芥川氏の作品に限って、表現意欲が各員の持てる技術を超えてしまって、それを無意識に「是」として憚らない状況が繰返されて来ている。『シンフォニア・タプカーラ』という曲名を目にしたとたん「思考停止」のトランス状態になっているのでは?と考えざるを得ない演奏箇所がやたらとある。簡単に言えば相変わらず音が汚いのである。アンサンブルの観点からも、音程を確認するべき部分からも、音量のバランスから言っても時間をかけてじっくり取組む必要を感じるが、いつもそうはならずに終わる。
 象徴的な話がある。芥川氏が亡くなった直後に行われた1989年5月の追悼演奏会での事だ。新響は『エローラ交響曲』を演奏したが、指揮をした外山雄三氏がリハーサルの冒頭に「新響さんで芥川先生の曲を演奏するのは、ベルリンフィルでブラームスをやるようなやりにくさがあるんです」と語ったのを記憶している。冗談半分の言ではあったが、意外な本音がそこには含まれていたように感じる。これは新響が伊福部作品、とりわけ『タプカーラ』を演奏する場合の、指揮者全般の心根にも通じるのでは?との想像をどうしてもしてしまう。
 「新響だから『タプカーラ』は知り尽くしている筈。自分が殊更に何かを付け加える必要はない。それより他の曲の練習に時間をかけたい」
 「変な汚い音がするけど、伊福部先生直々の指示に基づく、深い意味のある音なのだろう」
などと、明言はもちろんしないが、こうした考えが指揮者の裡に起こっても不思議はないような気がする。如何せん、かつては作曲者が必ず練習に立ち会っていたという、他に例を見ない特殊な団体なのだ(但し、伊福部氏ご本人は新響がどんな演奏をしようが「大変結構です」「お好きなようになさってください」しか言わない人だった)。という訳で指揮者は良く言って「新響にお任せ」、はっきり言うと腰が引けている。つっこみ不足な指揮者の姿勢は当然トレーナーの指導にも反映するから、やはり掘下げ不充分を来たしかねない。
 そして対する新響も殆ど根拠のない「本家意識」を漠然と抱き、先祖返りのようなサウンド・・・・それを芥川氏以来の伝統とでも錯覚していようか?・・・・での演奏を繰り返す。という次第で、指揮者・オケ双方が真摯に作品の詳細を見直す事無くここまで来てしまった感がある。
 恐らくは40数年間に17回、すなわち平均すれば2年に1回という演奏頻度も、作品との対峙に於いてマイナスに働いている要素となっているのではあるまいか?10年間は同じ曲を演奏しないという新響の選曲ルールは、作品に対する良い意味でのリセット感覚をもたらしているように思うが、伊福部(そして芥川)作品については当然の如くこのルールの適用外なのだ。時間をかけ、距離を置いてこの作品を見直す、という機会に明らかに欠けている。これは作品にとっても、新響にとっても不幸な事では?というのが偽らざる(あくまで個人的な)感想である。
 使用している譜面にも大きな問題が内在している。現在団が保管し実際の演奏に使用しているパート譜は、1980年の改訂版初演に際し、作曲者の手書き総譜(スコア)から当時の団員個々が筆写した譜面である。初演に向けての全員参加・手作りの美談とすべきなのだろうが、写譜は相当に慣れた者が行っても誤りを生じるリスクは避けられないものだ。現に演奏の現場でこれまで数々の誤りが発見され、その都度部分的な訂正がなされてきた(が、全てを訂正しきれていない)。
 更に現在流布している作曲家協議会編のスコアは、初演時の元となったスコアとは異なっている。指揮者の手元に置けるスコアは現在これしかない。その為現在指揮者のスコアと我々の手元にあるパート譜には無数といえる異同が存在し、本来であれば混乱を来してもおかしくないレヴェルと言える。「同床異夢」と言ってよいこの状態が表面化しないのも、この曲を巡るオケと指揮者の特殊な関係性に由来するように感じる。
 団所有のパート譜には、改訂直後の初演に向けた練習の場で伊福部・芥川師弟の間のやり取りの結果決定した「改変」・・・・2回ある1拍ずつのゲネラルパウゼの一方を1拍増やした・・・・の跡が刻まれているが、現在のスコアはこの改変後の結果を記すのみなので、パート譜はその経過を刻む文献としての歴史的価値をもつ。とはいえ指揮者との齟齬(そご)必定の状況の譜面を使用し続ける事にはいい加減見直しが図られなければならない性格のものと考えるべきで、 実際個々のパート毎の対応が図られつつあるのが現状である。
 60余年に亘って先人たちが営々と培ってきたものは貴重であり、最大限尊重されるべきで、それを否定するつもりは毛頭ない。
 が、そうした歴史を踏まえた上で、こと『シンフォニア・タプカーラ』の現状については、新響との関係性に於いて、実は緊密な関係あるが故に顕在・潜在いずれにも様々な問題を抱える作品となっている事に、最近になって改めて気づかされた。
 以上に述べた事は当然ながら演奏する側のあり方に属する問題である。聴く人が新響の『タプカーラ』に求めるべきものは当然ながら多様。「芥川也寸志と新交響楽団」時代の『タプカーラ』こそを至上至高の演奏として、「現在の新響」にそれを求めて会場に足を運ぶ人が今も一定数はいるに違いない。が、我々がオーケストラとしてあるべき方向性を追求してゆくと、そこで求められるものとの距離は隔絶する一方になる事を避けられまい。そしてその隔絶を恐れて根拠の薄い「伝統」に従う姿勢にも限界が来ている。
身近過ぎるほど身近にあることで、この作品との接し方に、我々は今後悩み続ける事になるだろうとの予感がある。芥川氏の謦咳に接した団員は現在では20人ほどか?当然今後は年々少なくなっていく。そうした流れの中で何を継承し、何を変えて或いは捨て去らなければならないか?についての結論を迫られている事に真摯に悩み、取組む時なのだ。


 今回新響とのしがらみ?の無い、まさに次世代の中田延亮氏を迎えての『タプカーラ』の演奏が、その真摯な取り組みへの嚆矢(こうし)となる事を切に願う。

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