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回想の『春の祭典』

新響フルート奏者  松下 俊行

改めて数えてみると、この曲を演奏会の本番として演奏するだけで今回が12回目となると知った。なかなかの回数と我ながら思わないでもないし、更に言えばこのうち新響で3回。残り9回は大学生時代の僅か2年間で演奏している(そのほかにレコーディングやTV番組出演での演奏もあった)。とあれば40年以上も以前の我が学生生活は、ほぼこの曲と共に過ぎたと言えようか。 その因縁浅からぬ『春の祭典』にまつわる記憶を、この機会に書き留めておこうと考えた次第。興味関心あらば暫しおつきあいください。

◆『春の祭典』への途

 高校時代の3年間は、全日本吹奏楽コンクールの全国大会出場に血道を上げて燃焼し尽くした。最も何でも覚えられる時期にもかかわらず「勉強」の2字は我が辞書から完全に消滅し、卒業後は当然浪人。だがそれでも飽き足らず早々とふたつの市民吹奏楽団に籍を置いた。うちひとつにはオーディションさえあった。吹奏楽団では珍しかったがその筈で、ここは例の全国大会一般の部の常連団体。そこに敢えて挑んで入団したのだから、未だコンクールへの執着があったという訳だ。愚かというべきである。  その団体のトロンボーン奏者のひとりに、早稲田大学交響楽団(ワセオケ)の団員がいた。たぶん演奏会の打上げの席での会話だったと記憶する。彼から「ワセオケは再来年ドイツに演奏旅行に行く。ワセオケのフルートはあまり上手くないから(本当にそう言ったのである)来年入れば、海外でステージに乗れるよ」という重要な情報を得た。その人は大学4年生で、実はこの年にもあった渡独のチャンスをワセオケとして見送る決断に至った世代だったとは後で知った。今考えてもこの言葉の意味は大きかった。これが『春の祭典』なる作品との長い長い付き合いになる岐路だった訳だが、その時は当然想像もし得ない。だがモーツァルトもハイドンもベートーヴェンとも無縁の吹奏楽の世界、そしてその中におけるフルートの存在感の希薄さに物足りなさを覚えていた事もあって、オーケストラに活路を見出すべしとその場で決心したのだった。単純そのものである。これが1976年の話。念のために申し添えるが当時の「ドイツ」とは断りが無い限り西ドイツの事。ベルリンの壁崩⇒東西ドイツ統一は10年以上も先の事だ。  翌年何とか大学に滑り込んだ。となればあとはもうワセオケに入る事しか頭にない。早々に(もちろん入学式前に)入団手続きを済ます。そこで改めて翌年のドイツ行きの事を確かめると、何だかみな歯切れが悪いもの言いをする。1978年9月に開催されるカラヤン在団主催の「第5回国際青少年オーケスト大会(通称「カラヤンコンクール」)からの招待状は確かにワセオケに届いているものの、正式に参加する事はまだ決まっていないという事が判った。向こうが(しかもカラヤン様である)わざわざ招待してくれるというのに断る道理などあるのだろうか?と単純に考えていたが、  ①行ける/行けない(経済的・時間的に)  ②行きたい/行きたくない  ③行くべきである/行くべきでない というようなざっと数え上げてもこれだけの思いが個々人の中で錯綜し、自分でも整理がつかない状態の中で、120人もの団員の方向性を一致させる必要があったから、そう一筋縄ではいかないのだという事が次第に理解出来るようになった。このオーケストラはその後定期的に行なうに至る海外公演の度に、前段階でこの議論が延々と続くようになった。ある種の宿痾といえる。

◆本当に演奏できるのか?

これとは別個に、我々は『春の祭典』のような難曲をコンクールという大舞台で破綻なく演奏できるのか?という不安が団全体を覆っていた。「アマチュア」を対象にしているとはいえ、他の参加団体は音大の学生によって構成されていると知る。欧米では音大生といえども、仕事にしていない限りアマチュアなのである。このあたりの概念は日本と異なっている。またコンクールであるからには相手が誰であろうが優勝しなければ無意味である(「優勝するために行く」というコンセンサスはそれ以前に得られていた)。その為の戦術として、OBにして音楽監督の指揮者山岡重信氏から『春の祭典』そして自国の作品として石井眞木氏の『響層』の選曲を必須とする条件が提示されていたのである。この2曲に加えて参加団体共通の課題曲である『運命の力』序曲・・・本当に出来るのか?夏休み中の合宿1週間は毎晩飲み会(いま考えてみれば未成年の時期であるが、当たり前に飲んでいた。世の中全体が今では想像も出来ぬほど緩かったのだ)でこの議論が繰り返されていた記憶がある。実は吹奏楽とは違ってオーケストラとコンクールとは親和性が無く、故にそこに参加する事自体に抵抗を覚えるメンバーも多々存在したのだった。こちらはコンクールで叩き上げてきたから想像もできなかったが。  個人技倆に帰する懸念も多々あった。例えばこの曲冒頭のファゴットソロを吹ける奏者がいなければ話にならない。学生オケは原則として4年でメンバーが一新するので、必要とされる時に適任者がいるかどうかは偶然に期待する他はない。そもそも当時はファゴットなる楽器に触れる機会がまずもってない状態だった。オーボエもそれに近い状態で、この2楽器が国産化されるようになるまでにはまだまだ時間を要した。故に他の管楽器を経験した者が大学に入ってから「転向」して始めるケースが大半で、それで1~2年後には『春の祭典』のソロを吹けというのは、わがフルートで譬えるなら街の音楽教室に通い始めたばかりの初心者に『牧神の午後への前奏曲』や『ダフニスとクロエ』のソロを、短時日のうちに吹けるようにしろというようなもので(因みにこの2曲は新響のオーディションにも出ます)、凡そ正気を保つことは困難だろう。だがファゴットという楽器は常に優れた奏者に恵まれているようで、この時のワセオケでもこの問題はクリアできた。それにとどまらずこの曲の難度に堪え得る技術を持ったファゴット奏者5名が揃ったのだから、当時としては奇蹟と言えた。  同様の事はヴィオラにも。第2部の前半に6人の奏者によるSoli(ソリ=ソロの集団=通常ここを「ろくソリ」と呼び、難所として名高い)があり、これも頭を痛める問題だった。この楽器も大学オケに入った事を契機に始める人が多かったのだ(もちろんヴァイオリンからの転向者や出向者もいる。その人らを核としなければパートは成り立たなかった)。大学オケに限らず、ヴィオラというパートは前出のファゴットと並び、今でさえどこのアマチュア団体も人材難を抱えており、員数合わせにすら苦慮する。況してやこの難所のSoliに対応できる技量をもつ奏者を6人揃えるというのは至難の業なのだ(新響は全く問題ありません、ご心配なく)。とにかく猛練習で対応する他に手立てはないがその重圧から、渡独に反対する声はこのパートから強かったと記憶する。もちろんこれらに限らず、程度の大小を問わずどのパートも技術的問題は抱えていたのだが。

◆特殊楽器たち

 所謂「特殊楽器」の確保も喫緊の課題だった。代表的なのはまたしてもファゴット。コントラ・ファゴット2本をどうするか?だがそれ以外にコール・アングレもバス・クラリネットも2本ずつ要る。ワグナー・チューバも2本それにバス・トランペット、ついでに言えばアルト・フルートも。現在ではこれらの楽器はそれぞれ個人で所有している人がいくらでもいるし(新響では上記の楽器のうち、バス・トランペット以外は団で所有済。維持会のお蔭です)それを当然の前提として結構簡単に?『春の祭典』を選曲してしまうが、40年以上前の当時は全てを借り物で賄うほかはない。しかも本番の数日前からだけ本物を借りれば済む話ではなく、毎回の練習に使用でき、且つ海外にも持って行けなければ意味はないのだ。コンクールに出るのだから!  結局この難問の解消にはN響にかなりの部分を依存したと当時の状況から想像するが、詳細はわからぬままとにかく楽器は揃っていった。  とにもかくにも、こうした課題をひとつずつ潰して条件を整え、秋口には総会を以ってコンクール参加が正式に決まる。反対者らもオケ全体が抱える問題が解決すると、外濠が埋まったと観念したのか、ほぼ全員が参加に転じた。が、残された時間は1年を切っていた。 

◆スコア探しの旅に出る

 コンクールに向けて各パートの布陣(ローテーションという)が決まったのはその年明け1月下旬だったと記憶する。『春の祭典』のピッコロのパートが巡って来た。つい数週間前の定期で『魔笛』序曲の2番フルートでオーケストラデビューを果たしたばかり。そこからいきなりストラヴィンスキイのパートをもらった事で、音楽史の上で150年にも及ぶ時代をすっ飛ばし、当然その間の多種多様な作品に触れる機会を逸した。その後を考えるとプラスばかりには働かなかった気がするが、ポッと出のオケ初心者が1年経たぬ間に先輩らを差し置いて重要な役割を任されたのだから、贅沢を言っている場合ではない。またそんな事を考えるヒマもなかった。 まずスコア(総譜)を手に入れて曲の構成を俯瞰し、他のパートとの細部に亘る関連を頭に入れなければならない。複雑なリズムの絡みは、最後は身体で覚えるにせよ、頭で理解する事を前提とする。その為スコアは楽器と同等に扱われるべき必須の道具なのだが、この入手が困難を極めた。どこにも品が無いのである。現在では何種類も出版されているし、ネットで注文すれば翌日にも手に入る。だが当時は基本的に、版権を持つブージーアンドホークス(Boosey & Hawkes)社が出している1967年版のみ。もちろん配布されたパート譜もそれに依るとあって、東京を筆頭に首都圏にある主だった楽譜専門店・楽器店に電話で在庫を問い合わせる。他に手立ては無かった。だが、本社のあるイギリスから遠く離れた極東の島国のそのまた一角で、120人もの人間がいちどきにこのスコアを求めたのである。誰がそんな事を想定しよう。という訳で問い合わせに対し「ありません」「半年待ち(!)です」という空しい返事を繰返し耳にする結果となった。 そんな中、歩き回った末にほかならぬ東京のど真ん中で入手できた!これはいまこうして思い出しても奇蹟と感じる。しかも事前に電話をして在庫なしの返事をとうに得ていた店で。何の事はない。繰返される問合せに嫌気がさしたのか、相手はろくに調べもせずに無いと返事をしていたのだ(と想像する)。これは社会に出てからあり得る話として理解できた。同時に自分で足を運び、自分の目で確認する事の重要性を学ぶ機会ともなった訳で、このスコア探しの旅によって人間的にも(最初で最後の)大きな成長を遂げたのであった・・・・・・。その総譜はもちろんいま手元にあり、今回のシーズンも活躍している。2400円の値札が今も残る。これより安い値段で新品を入手している人がいれば教えて欲しい。

◆何が難しいのかに直面する

演奏の困難さにはすぐに直面した。それが具体的にはどういう内容なのか?自分の関わったピッコロ2本による、ある掛け合い部分を例にして、煩を厭わずに説明してみる。煩雑を感じる方は次章まで読み飛ばしてください。問題ありません。 まず1拍(4分音符)の長さを3等分する。楽典上「三連符」というものでこれ自体は日頃頻繁に登場する。 次にこの1/3になった音それぞれを更に4等分或いは3等分する。そしてこの最初の1/3の長さに中で1番ピッコロが音を4つ入れると、続く1/3の中に2番が3つの音を入れる。そして最後の1/3にまた1番が4つの音を演奏する。これで1拍。同じようなパターンが2若しくは3拍続けて1小節。これが何小節も続く。仮に1拍が1秒だったとすると、その1/3でそのまた1/3ないしは1/4の長さ(つまり速さ)がどの程度のものになるかは計算できる(実際の演奏ではもう少し1拍が速い設定だが)。これはリズムに限っての話で、当然この細分化された音は高さがそれぞれ変わる。運指の問題も音の移り変わりのタイミングも障害になる。が、この2本のピッコロが隙間なく、重なりもせずこの掛け合いを緻密に続け、あたかも1本のピッコロが破綻なくひとつの旋律線を、一定のテンポで演奏しているように聴かせる必要がある。この困難さは直面してみないと理解できない。 しかも他の楽器はこれとは全く無関係なリズムを奏しているから、周囲に合わせようもなければ、また合ってしまうとそれは間違いであるとの結果にもなるから始末に困る。だが・・・・・・極めて遺憾なことだが、この部分は冒頭のファゴットのソロが始まって5分と経たぬうちにわが身に襲いかかってくるのである。『春の祭典』というと変拍子をまず思い浮かべるだろうが、それはまだまだ遥か先の話。冒頭部分からこんな難題をクリアしなければならない。 実はストラヴィンスキイは既に『火の鳥』でも『ペトルーシュカ』でも程度の差こそあれこうした書法を駆使している。作曲年代順に演奏して経験を積んでいれば対応の仕方もあっただろうがいきなり『春の祭典』でこうして向き合い、前途の多難さをひしひしと感じる事になった。いま新響ではこの部分が問題になる事は無い(本当に大丈夫なのか?との懸念がないでもない)が、当時の我々は当然ながらこれらをひとつひとつ切り崩していかねばならなかった。「日暮れて道遠し」の想いは絶えずつきまとった。いま同じような事をやれと言われても途方に暮れるだけであろう。  

◆あわや止まりかけた話

 岩城宏之氏がメルボルン交響楽団を指揮して『春の祭典』を演奏した折に、オーケストラを止めてしまった時の事を書いている(『楽譜の風景』岩波新書 黄版250)。同氏が振り間違いを犯した事が原因で、その根源には暗譜の際の譜面改訂の問題があった、との流れになっているので、作品の難しさによって停止してしまった訳ではない。だが『春の祭典』にはそうした停止リスクがつきまとっているのでは?とのイメージを抱かれても不思議はない。それほどに複雑なシロモノなのだから。  余談だが岩城氏には渡独直前のワセオケが『春の祭典』の指導を受けた事があった。空調の余り効かぬ大隈講堂で、例によって全身汗みずくになっての指揮だった事と、その明快な振り分けと緻密な分析に驚いた記憶がある。上記の本が出版されたのはそれから10年以上も後の事だから、メルボルンの件は知る由もない。  演技なり演奏なりが中断してしまうという事態は、当事者にとって最も恐ろしい出来事で、オーケストラでそれが発生すると、往々にして集団パニックに繋がってしまう恐れがある。そもそも「止まりかける」或いは「ずれる」とか出るべき音が出ない「落ちる」というような状況になっただけで、恢復の難しい動揺が発生するのがオーケストラというものなのだ。 40年を超える新響団員としての経験の中で、本番で演奏がストップしてしまった経験は1度だけあった。この時は打楽器がひな壇から落ちてしまうアクシデントが原因で、しかも曲(石井眞木氏の交響詩『幻影と死』)が始まってすぐの段階だったので、指揮の高関健氏は躊躇なく演奏を止めた。そして聴衆に対して似たような事例・・・・・・実は例のカラヤンコンクール本番でワセオケが同じ石井氏の『響層』を演奏した際に作曲者から借用したドラが床に落ちた。高関氏はこの時会場に居合せていて目の当たりにしていたのだった。片やこちらはこの時演奏の最中。床に振動が伝わって来たが演奏が止まる事はなく、「今日はやけに打楽器が気合を入れてやっているな」程度の認識だったが・・・・・・を引き合いに出して話を始め、打楽器が旧に復するまで冷静に対処、冒頭から演奏を再開して無事に終えた。改めて調べてみると2004年4月の事である。 これとは別に「止まりかけた」事は何度かあった。こちらの方がよほど心臓に悪い。例えば山田一雄氏による、芥川也寸志没後1年の追悼演奏会の折の事。『交響曲第1番』の、よりにもよって最終部分で指揮者とオケのテンポがずれて混乱。この混乱とは詰まるところ「どこが次の小節の第1拍かがわからなくなる」という現象である。ヤマカズさんも混乱してますます棒がわからなくなるという悪循環に陥り、まさに失速寸前!最後の音のタイミングまで危なかったのではないか?ほかならぬ芥川さんの作品に於いての事件だ。当時技術委員長(現在の演奏委員長)だったので、その後の原因究明に奔走した記憶がある。1990年、30年も以前の話か。 そこで『春の祭典』での話ある。カラヤンコンクールの翌年5月、その優勝(紙幅の都合で書かなかったが優勝した。『春の祭典』の選曲と演奏が奏功した事は間違いない)によってフランスのエヴィアンで行われる音楽祭に招待され、2週間ほどの行程での公演とレコーディングを果たす。当然ながら『春の祭典』は付いて回り、連日移動しては演奏という状態さえあった。年度変わりによって世代交代が進みメンバーも一部入れ替わった。すなわち優勝時の布陣ではなくなっていたという事で、演奏のレヴェルも変質していたのだった。学生オーケストラの宿命である。 それは1979年5月7日、チューリヒのトーンハレに於ける演奏会で起こった。 『春の祭典』第2部「いけにえの踊り」の最終部分。通常用いている譜面(例のBoosey & Hawkes版)でいえば練習番号186番から最後までの残り70小節ほどは、ずっと変拍子続きの綱渡り部分とあって、気を抜く余地は皆無。5/16(16分の5拍子。以下同じ)⇒2/8⇒1/8⇒2/8⇒5/16⇒2/8⇒5/16⇒2/8⇒1/8・・・・・・と日頃あまり目にすることない特殊な拍子が小節ごとに目まぐるしく変わり、ひとつ踏み外すと立ち直れぬどころか千尋の谷底に真っ逆さまという恐怖感に足もすくむが、とにかく進むほかはない。 やがて打楽器と低弦が刻む複雑なリズムの上に、ワルツを思わせるホルンの旋律が断片的に現れる。「どうやってこのリズムにこの旋律が乗っているのかなぁ」とその都度思わされる精緻な均整。だがそれを愉しむ余裕はない。その旋律に対しオーケストラ全体が2小節の「合いの手」を3拍子で都合4度入れる、そのタイミングを測る必要があるためだ。 1回目の合いの手⇒ホルンがなおも短く旋律を入れる⇒2回目3回目は連続で同じ3/16の3拍子のリズム2小節の繰返し⇒間髪を入れず4回目。だがこの4回目の合いの手の2小節目だけ3/16ではなく2/8(4/16=4拍子とした方が理解しやすかろう。練習番号197の2小節目)になっている。つまり16分音符1つ分だけ拍を余分に入れて、ともするとパターン化しそうになるリズムを、ここで作曲家は敢えて崩しにかかっている訳である。そしてこの小節を分岐点に、以後はこの合いの手のリズムをモチーフとしてオーケストラ一丸となって最後まで突き進む。だからこの2/8の小節はリズムの要衝で重要が上にも重要なのである。 だがそれは演奏する側には陥穽でもあった。これに続く3/16の小節第1拍にバスドラム(大太鼓)の強打が入って、一度宙に浮いたリズムを元に戻す役割を果たす。が、この新年度に交代した経験浅い奏者が前の小節のからくりを理解せず、直前3回と同様に3拍子として16分音符1個分早く飛び込んでしまい、その都度オケを止めてしまう事故が、国内での練習時に頻繁に発生していた。「ここでこれをやられたらホントやばいよなぁ」と本人以外の皆が思い、くれぐれも無事に通り過ぎてくれる事を朝夕祈っていた。現地でも演奏を終えるたびに無事を喜びあっていたのである。 文章にして説明すると、これほどの長さになってしまうが、その16分音符ひとつが占める「時間」はせいぜい0.2秒ほど。我々は日頃これを「リズム」の一環として捉え対処しているので、時間として意識する事は無いが、つまりバスドラムがその2/8の小節には本来ない次の小節1拍めの音を0.2秒前後早く叩いてしまうだけで、オケが止まってしまう事を意味する。『春の祭典』の真の怖さはこうした処にある。 その事故がとうとう起こった。ピッコロはその余分に付け加えられた16分音符にして2拍前に音を入れる指示があるが、飛び出たバスドラムとほぼ音が重なった。何とも嫌なタイミングの入りで、もちろんこんな事は本来決してあり得ない。「うゎ~やってくれた!」と心の裡で叫んだ後、自分がどうしたかの記憶も定かでない。前年コンクールで優勝を遂げた栄光のオーケストラとはいえ行き先を見失いかけた。練習なら指揮者も演奏を必ず止める状態。だが今日ばかりは本番の最中、しかも終わる直前とあれば、とにかく残りの20小節ほどを各員が銘々に音を出して進まざるを得ず・・・・終わる1小節前にフルートとアルト・フルートが「音階」を吹くが、この部分まで本当に長く感じた。時間にして20秒足らずの出来事なのだが。 はるばる変拍子の難所を幾つも踏破し、ようやく終結まであと僅かとなったここまで来ながら無念の討死にを遂げる。しかもよりにもよって、かのブラームスが杮落しのコンサートを指揮した(1895年)という由緒のトーンハレでの話だ。死んでも死にきれない。 とにかく「演奏」を終えてステージを下りる。温かい拍手に送られたがみなが顔色を失っていた。血も凍る経験をしたのだから当たり前。ステージ裏で親しいトランペット奏者にどう対処したのか?を訊いてみると「目をつぶってとにかく吹いた」という答え。まぁそうだろうね。指揮を見ても今更どうなるものでもない。主導権をとるほかない金管楽器に指揮者も合わせて振るしか手立てはあるまいから。  この折の録音は耳にした事が無い。本来は是非とも取寄せ、せめて「失敗事例」としてケーススタディの教材にして再発防止に努めるべきだったろう。今考えれば、起きない事を神仏に祈るヒマがあるくらいなら、リスク管理の見地から「起こった場合」を想定して対応方法を予め考えておくべきだとの発想もあって然るべきだったかもしれない。だが当時も今もそうなってしまっては修復の方法は無いのが実情だし、オーケストラの練習とは「あるべき姿」の追求に終始し、失敗を前提にして進められる事は決してないのだ。 バスドラムが飛び出した拍は、本来他の楽器が音を刻んでいる。そこに音があってももちろん何ら問題は起こらないのである。にもかかわらず他ならぬバスドラムがそこに入ってしまうと確実にオケ全体の崩壊に至る。次の小節の頭を明示すべき強打が、あり得ぬ場所に入る事が引き起こす混乱・・・とでも想像する他はないのだろうが、この崩壊発生のメカニズムは未だ解明されていない。確実に言えるのはそれだけの破壊力をこの楽器は持っているという事である。打楽器群全般にあてはまるとも言える。とすれば各奏者には危険物取扱の国家資格取得を義務付けても良いくらいだ(新響は問題ありません。念のため)。その時のバスドラム奏者(Fよ、お前だ!)の顔は40年以上を経た今も思い出す。その後会う機会が無いので刃傷沙汰も回避できているのは幸いだ。今もこの空の下のどこかで、過去に犯した重罪を振り返ることもないまま、何人もの孫に囲まれたり、親子ほどの年の差のある若妻と再婚(ここ重要)したりしておめおめと生きているのであろうか?・・・・・許さん、絶対に許さんぞ! こと『春の祭典』にかかわる恨みは、実に実に深いのである。 ・・・・・・と、とりとめもなくここまで書いたところで既に紙数が尽きた。冒頭に挙げたレコーディングの苦労話や、TV番組出演の際の小澤征爾氏の指揮の話とか、もちろんカラヤンコンクールとかこの曲にまつわる話はまだまだあるのだが、10年後に『春の祭典』を採り上げる機会まで後生大事にとっておく事にしよう。更に10年を経るとなれば確実に「歴史」の範疇に入ってしまうだろうとの不安はあるが。
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