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続・フルートの知られざる憂鬱

新響フルート奏者  松下 俊行
10年ほど前、ここに『フルートの知られざる憂鬱』と題してフルートにまつわる、外からはなかなか窺い知れない世界について書いた事がある。その時書きこぼした事項を改めてまとめて続篇として一文とした。予めお断りしておくが、リングキイタイプの楽器をご使用の読者も当然おいでと思う。内容はあくまでも「モノ」に対する個人的見解に過ぎないのでお気を悪くされないよう、くれぐれもお願いする次第。自分が使いこなせない楽器を平然と操れる人には、心底敬意を抱いておりますので。

◆フルートの2つのタイプ

まずは上の写真をご覧戴きたい。一般に「フルート」と呼ばれ用いられている楽器で、両方とも筆者所有のもの。上の楽器を私は日常の活動で使用している。入手して30年近くになろうか?旧東ドイツ(東ベルリン)に工房を構えていたヘルムート・ハンミッヒ(Helmuth Hammig)なる製作者の手になる。この人の楽器は高木綾子さんが使用している事が喧伝されてから、一般にも名器として知られるようになったが、20世紀中葉の時代には既に最上のフルートと評価されていた。尤も製作本数が全部で460本程度と少ないので、日本では名ばかり知られて実物を目にする事はほぼ不可能だった。今回細部まで披露するが、滅多にない機会と思って戴いて良い。
私がつい昨年まで師事していたNHK交響楽団元首席フルート奏者にして国立音楽大学名誉教授の宮本明恭先生は、わが国で恐らく最初にこの楽器を手に入れたひとりで、かつて酒席でその時の事を聞いたことがあった。1950年代後半、製作者が住む共産圏の東ドイツと日本との貿易には様々な制約があり、その数少ない窓口だった神戸にある生糸の商社を通じてようやく入手できたのだという。大卒社員の初任給が10,000円程度、ラーメン一杯が60円ほどの時代に新品で23万円したそうだ。現在の価値に換算すれば500万円前後となろうか?あまりに高い気もする。私の楽器は先生のものとほぼ同時期に作られたものだったから、新品当時は同じような価値があったのだろう(中古で買ったから実態不明)。
因みに「ハンミッヒ」は楽器製作者の一族で、現在でもフルートにも様々なハンミッヒがある。その中で最も評価が高いのがこのヘルムート。以下の文中のハンミッヒは全てこのヘルムートの事である。
一方の下の楽器(アメリカのヘインズ製)についても同じように紹介をしたいが、興味のない方々には退屈であろうし、本来の意図とは離れてしまうので割愛。殊更に両者を並べたのは別の意味があって、フルートと呼ばれる楽器に現在2つのタイプがある事を知って戴こうと考えたからである。何が違うか?
一見して明らかなのはその長さであろう。管が長ければその分出る音は低くなる。という訳で、この長い方は他に比べ半音低い音まで出せる(楽器全体が半音低いという事ではない点に注意)。ピアノに向かって座った時、正面の一番手近な白鍵の「ド=C(ツェー)」の音から3オクターブ上のドまでが、通常のフルートの音域であり、オーケストラでこの楽器を吹く限りはエラーの許されない守備範囲という事になる。末端の足部管を長くする事によって下の音域をド⇒シ=H(ハー)に拡張出来る仕組みという訳だ。これを出せる末端部分=足部管という=を最低音の音名からH足部管という。写真上の管がそれである。
音楽事典その他でこの楽器の音域を紹介する場合、最低音をCで示した上で「特殊な例」としてHの音を加えているのが通常の形である。半音下の音が出せる位で何のメリットがあるのか?と思われるかもしれないし、事実この低音Hの出番は極度に少ない。だがショスタコーヴィチやマーラーはこの音が出る事を前提に、むき出しのソロのパートを振ってきたりするので厄介なのだ。今春演奏したレスピーギの『ローマの松』の『カタコンバ』ではフルート3本にこの音を含む旋律がユニゾンで振られており、これはもうこのHまで出る楽器を使う他に手立ては無い。後で詳しく述べるが現在ではこうした楽器が普及しており、まず難なく対応可能となっているが、それ以前はこの曲をやると決まると楽器をどうするか?は必ずフルート吹きにとって大きな問題になったのだった。ハガキを丸めて末端に突っ込み、管を長くする工夫をした(そうやっても大した音は出ないが)・・・・・などと話すと「いつの時代の話?」と思われそうだが、昭和時代の先人らはそうした苦労をしたのであった。わが学生時代も例外ではない。
長さの他にもうひとつ重要な差異がある。冒頭の写真では判別し難いが、長い方の楽器のキイには5か所に孔が開いている。拡大しした以下の写真(反対側から撮影。冒頭写真とは上下が逆になっている)。まず左手部分、次の写真が右手のキイ。デザインの差異も歴然。
「サクマ式ドロップス」を髣髴させるかつてのドイツフルート独特の武骨なキイデザイン(写真下)だが、手には非常になじみ扱い易い。ドイツ的機能重視の本領発揮である。対して写真上のキイのデザインは19世紀フランスのアール・ヌーヴォー時代の意匠を受け継ぐ。使い勝手にやや欠けるが。
これを「リングキイ」という。下のハンミッヒの楽器(こちらは「カヴァードキイ」と呼んで前者と区分する)ではいきなり手渡されても「どのキイを押さえれば良いのか?」との疑問が生じかねないが、リングキイであれば少なくとも「とにかくにもこの孔の開いているキイは指で押さえて塞がなけば!」という本能的な危機感に基づく結論を導き出すのは容易なはず。もちろん「このキイを押さえなさい」という事を示すために孔を開けてある訳ではなく、相応の理由がある。簡単に言えば「通気」の問題である。
フルート=横笛という楽器は極めて原始的な原理で鳴るものなので、非常に古い時代から世界各所に同時多発的に発生した。因みに世界最古の横笛の現存品は奈良の正倉院にある。我が国の笛吹きはこの事実をもっと重視すべきではあるまいか(そもそもそういう事を知らない)。管に孔が開いているだけで良いという単純明快な構造によって普及したこの楽器の形態は、音楽の発達著しいヨーロッパに於いても17世紀まで変わらなかった。だが音楽の構造が複雑化し、半音を含む全ての音を出す事を求められるようになった事で、この楽器にも文明の光明がもたらされるようになる。すなわち余分に孔を開けてキイで塞ぎ、必要な時だけそれを開けて必要な音を得るという他の木管楽器と同じ潮流に乗ったのである。一旦そうなると複雑化の一途。楽器は孔だらけキイだらけとなって、当然運指も複雑化するし、孔が多くなればそれだけ音色も悪くなる混乱状態に陥った。フルートにとって不幸だったのは、この混乱の時代が音楽史上では古典派からロマン派の盛期に当たっていた事で、モーツァルトなぞは露骨にこの鳴りの悪い楽器を嫌っていた(故に作品が少ない・・・・・本当はフルートを吹くような理屈っぽく生真面目な性格の人間が嫌いだったのだと個人的には思っているのだが)。
この乱世を統一したのはベーム(Theobald Böhm:1794~1881)というドイツ人だった。ベームは長い試行錯誤の後、現在のフルートのキイシステムを確立し、更に50歳にして大学で音響学を学び、あるべき音孔の位置を算出して設計に完全を期した。それによって音孔の直径は管の内径の2/3にも及ぶ大口径になった。音孔の大きさが音量の拡大をもたらすという考えに基づいた結論だったが、直径10mmにもなるような孔は到底人間の指では塞ぎきれない。またその数も大小15個にも及ぶとあってキイシステムの遠隔操作による開閉が不可欠となったのだった。そしてヒトの指ではなく、カップによって閉じた時の密閉度は均一になり、安定した音質が得られるようになった・・・・・ベームは1847年に特許を得ている。その後大きな改変もなく「ベームシステム」は現在に至る。彼の功績である。

◆リングキイの功罪

このシステムを持つフルートは1860年代には早くもパリ音楽院で採用された。そして時を置かずベームが確固たる思想によってせっかく塞いだキイカップに、またぞろ孔をあけて指で塞ぐ、という事をフランス人は考えた(故にこのリングキイを備えた楽器はフレンチモデルと呼ばれた)。「屋上屋を重ねる」の典型例としか思えないが、こうする事によって音の「抜け」が改善される効果があった。
確かに息を吹き込む歌口から遠くに位置する音孔(右手で扱うキイ)を順番に塞いでゆくと、管内の空気の体積が増大するに従って次第に鳴らしにくくなってくる。音が低くなるにつれて息を吹き込む抵抗感が増す。これは避けられぬ特性なのだが、その時カップに孔が開いていれば、通気によってその鳴りの悪さを軽減できるのは実感として理解出来る。
だがこれは実は楽器自体の良し悪しや奏者の技量の巧拙に影響されるところが大きい。簡単に言えば「出来の悪い楽器で、技量の拙い人が吹くなら」リングキイの方が鳴るのである。故に楽器メーカーはリングキイの楽器を増産し、楽器屋はこのタイプを無知な客に勧める・・・・・これはフルートに於ける不都合な真実で、誰も口にはしないが要はそういう事だ。よくこのリングキイの楽器の方が音色が明るいと言われるが、これは吹いている人間が音の抜けの良さから陥る錯覚であって、聴いている人にその差異はまずもって判らない。
それでも音が出しやすくなるなら福音と思うかもしれないが、このリングキイを扱うのは容易な事ではない。少なくとも私はそう感じている。というのもカヴァードキイの楽器であれば各指は「キイを押さえる/離す」という機能に徹すればそれで済む。ところがリングキイの場合にはそこに「キイの孔を(完全に)塞ぐ」という重大な役割が加わるのである。フルートに限らず木管楽器は例外なく、音孔が塞がれる時には「完全に」密閉されていなければならないという宿命を持っている。針の先、薄紙一枚ほどの隙間があっても音は不完全になってしまう。その為一種の精密機械であるキイの調整や保全には絶えず注意が払われる。ところがそこにヒトの指という極めて不安定な要素が加わる。考えてみればこんな危険な事はない。
私の例で言えば、キイを押さえる為に指を下した時、特に速いパッセージを吹く時が顕著なのだが、恥ずかしながらいつも同じ個所に指がいかない。カヴァードキイなら指がどこに下りようが、そのキイさえ下がれば孔は塞がる。リングキイを扱う時には、どこかの指が塞がっておらず、完全にその音が鳴り切っていないのでは?という不安がつきまとうのである。するとどうしてもキイを強く押さえてしまい、円滑な指の動きが妨げられるのだ。この傾向は密閉が厳格に求められる低音域の発音に於いて顕著になる。「どうやったら低音が出るようになるでしょうか?」とアドヴァイスを求められる事があるが、状況を確認した上で「リングキイの楽器をやめたら?」と忠告するケースが多々ある。そもそも低音域の発音はフルートにとって殊更に難しいのだ(少しでもフルートに触れた事のある人は120%同意する筈)。楽器を替える事で困難を改善克服するのは道理にかなっていると思うのだが、この提案はなかなか受け入れてもらえない。リングキイに対する執着は思いのほか皆さん強い。そこでどうしても塞げないリスクの高いリングを専用のプラグ(こうしたものが堂々と売られているのである)で埋めてしまう。こうしてリングキイに対応している人は多い(いくつ埋めるかは人による)。
こんなプラグをこんな感じで埋める。
ベームがキイカップで塞ぎ、そこにフランス人が孔を開けた。更にその孔を埋めるいたちごっこ。そこにリングキイの意味があるのだろうか?実際問題として、どの孔をひとつ塞いでも、確実に鳴りは悪くなり、音程も変わる。だが「こんな事するくらいならカヴァード使えば?」との突っ込みは禁物。リングキイへの渇望はもはや信仰に近い。「異教徒」の忠告に耳を傾ける筈もないのだ。
これに加えて前述の最低音Hの音。この長い楽器は例の音の抜けの問題と相俟ってリングキイの楽器と組み合わされている。全ての音孔が完全に密閉される事で初めて完全なものになるが、この密閉が至難の業なのである(Cに比べても何倍も難しい)。不慣れも加わる。オーケストラでも乾坤一擲のタイミングでこの最低音を出そう気負っても「空振り」に終わってしまう恐怖が絶えずつきまとう(ショスタコーヴィチの第10交響曲は、新響で2度演奏したが2度とやりたくない)。
以上長々と書いたが、冒頭写真の下側の「長い」楽器はその様な、時に血も凍るようなリスクを含んだシロモノなのである。私個人は必要最低限の付き合いにとどめている。

◆どうしてこうなる?

ところが、世の中の趨勢は私の矮小な考えとは確実に逆行しつつある。
もしあなたが男性で、ある日突然フルートを習ってみようと思い立ったとする。どうせなら音大を出たばかりの若くてきれいなお嬢さんに習いたい・・・・・結構結構。学習のモチヴェーションアップは上達の早道。手段は選ばない。そうした先生は実際にいくらでもいるし。レッスンが始まると暫くの間は
  • 「熱心に練習して来て戴いて嬉しいです(もう3カ月も同じ練習曲をやってますけど)」
  • 「音がとてもきれいですね(息の雑音の中からフルートの音を聴き分けるのは至難の技だわ)」
  • 「音階も熱心に練習されてますね(ハ長調だけが音階じゃないんだよ!)」
・・・・・等々、とかく重くなりがちなレッスンへの足どりを軽くしてくれるような事を言ってくれるだろう。(  )内の心の声が表面化する事はない。一般に女性は年齢に関係なく、思っている事と正反対の事も平然と口から出す術に長けているから(長年の実経験に裏打ちされた、あくまでも個人の感想です)。
当初こそこうした言葉を真に受けて自分の才能に自信を深めるものの、あなたは次第に違和感を抱くようになる(相手も心にもない事を言い続ける事に倦んでくる。決して良心の呵責からではないが)。すると早晩、先生が手本に吹き示してくれる音と、わが「すきま風」との越え難い差異に気づく。気づいたあなたはその原因について考える。「なぜこんなに音が違うのか?」考え続けた末に、ひょんなきっかけである時天啓の如く結論がひらめく。「そうだ、楽器だ!この差は楽器の違いだ!!」・・・・・かくしてあなたの運命の歯車は狂い始め、悲劇が幕を開けるのである。
先生の楽器というのが100%近い確率でH足部管のついたリングキイ。材質が14Kだとか18Kの財宝のようなフルートであっても不思議はないが、これはプロ仕様と言うべきものだ。楽器を買う相談を先生に持ちかけるより以前に、数多あるメーカーのカタログや専門雑誌を集めてみる。するとどのメーカーも例外なくそうした燦然と輝くまばゆいばかりの楽器が表紙を飾っている。自分があてがわれた現在のカヴァードキイの楽器は?とページを繰ってゆくと、ようやく最後の方に申し訳程度に写真が見つかる。どうした訳かどのメーカーもこうした構成になっていて、「リングキイに非ずんばフルートに非ず」との抗いがたい傾向が定着してしまった。故にいつの間にかカヴァードキイの楽器は時代遅れの「鈍くさいもの」の位置づけとなった。
初めて会う同好の人と、互いの楽器を見せ合う機会は多々ある。私が自分のハンミッヒを見せると大抵「ほう。カヴァードをお使いですか・・・・・」という。鋭敏な私が、相手の目にその一瞬憐憫と軽侮と優越の入り混じった光がよぎるのを見逃す事は無い。「古臭い笛をつかっているなぁ」とでも思っているのは間違いない。が、ヘルムート・ハンミッヒはリングキイの楽器を作らなかったから彼の楽器イコールカヴァードキイなのである。ごくたまにリングキイのヘルムートというものを見かけるが、それは他人の手が入ったものである。そしてこの魔改造によって歴史的な名器が台無しになる結果を生んでいる。
失礼ながらほぼ初心者のあなたが先生と同様の楽器に手を出そうとするのは、自動車教習所に通い始めた人が、いきなりF1マシーンを手にしようとするに等しい。はっきり無謀で危険な行為だ。ところが残念なことに先生に相談しても反対はしないだろう。彼女もまたその先生からリングキイ+H足部管の仕様こそがフルートと刷り込まれており、無批判に受け容れた過去を持っているからである(こういう点、女性は素直だ)。かくしてあなたの運命は抗し難い流れに翻弄されてゆく事になる。

◆現代音楽?だから何だというのか?

この仕様の楽器は現代音楽を演奏するのに不可欠だ(だからおすすめ)という論法をよく耳にする。「現代音楽」がどのようなものを指すのかも曖昧だがイメージは浮かぶ。音の移り変わりを境界なく上下させるポルタメントや、半音の更に半分の音程(四分音という)や管単体では通常出す事のない重音などが、リングキイ+H足部管のフルートさえ使えば問題なく出まっせ、と言いたいのであろう。
確かに作品によっては特定の奏法や「この重音はこういう運指で出せ」というおせっかいな指示が譜面に書き込まれていたりする。間違った事は言っていない。だがそうしたテクニックを盛り込んだ作品に、フルートを始めて間もない人がどれほど親しむ機会があろうか?とまず考えてしまう。
音程も定まらぬレヴェルの学習者に「四分音」など無意味であるし、そもそも現代の作品にレパートリーを求めなくともフルートの為の作品は、特に17世紀~18世紀中葉にかけての時代のものが山ほどある。バッハ父子やヘンデルそしてテレマンなどのソナタ群・・・・・これだけで数十曲を数える。オットテールやルイエ・ド・ガンのような同時期のフランスのフルーティストらの作品もあればヴィヴァルディのソナタも協奏曲もある。これだけで100曲にもなろう。これらはその後の西欧音楽に通底する様々な表現様式の源流と位置付けるべき重要な作品群なのである。
私は60歳を過ぎてから宮本先生のレッスンでフリードリヒ大王のソナタを初めて学んだ。そう、あのプロイセンの国王フリードリヒⅡ世(1712~1786)の作品である。晩年の大バッハが招かれた際、王から与えられた主題に基づき『音楽の捧げもの』を献呈した事は有名だが、この王様は自らフルート演奏するに留まらず数多のフルートソナタを遺した。それが決して「旦那芸」のレヴェルではない独創スタイルを有している事に驚いた。
ことほどさようにこの時代のフルート音楽は多彩なのである。宝庫と言える。
あなたが学ぶべきはこうした時代の、言うなれば「楷書体」の作品であるべきで、それは大層な楽器を大金を投じて手に入れなくとも可能だ。いきなりゲンダイオンガクに取組めば、本来身につけるべき基本的な奏法を崩してしまうおそれすらある。「現代音楽を演奏するに不可欠なモデル」とは極めて恐ろしい惹句と言える。断言できる。

◆平準化するフルートとその「音」

私がフルートを始めたのは50年以上も前だが、当時はまずもってリングキイの楽器を目にする事がなかった。国内でそれを量産しているメーカーは無く、海外でも主流とは言い難かった。少なくとも日本では極めて一部のプロ演奏者が使用しているというレヴェルに留まっていた(個人的に実物を初めて目の当たりにしたのは、4年後にレッスンに通い出してから)。
また地域ごとに使用されている楽器の仕様も異なっていた。ドイツ圏ではカヴァードキイが用いられていた。トランペットのような音(といってもドイツ的な金管である)を理想とした重厚さが尊重された。
フランスはリングキイ発祥の地だからそのモデル、但しC足部管である。薄い管厚による密度のある明るい音と滑らかさ。
例のリングキイ+H足部管の楽器はアメリカ国内で使用されるに留まっていた。プラチナの材質までが使用され「ゴージャス」を地で行く音量と音色・・・・・マーラーがアメリカに渡ってからフルートにもたらされた影響ともいうが、音量を含めてきらびやかなブラスを髣髴させた。
それがここ30年程の間に急速に「ゴージャス路線」に集約され、平準化してしまったとの感を抱いている。音に地域差がなくなり、個性も乏しい。よって「その人ならではの音色」というものに出逢う事も難しくなった。簡単に言えば使用している楽器そのものの音でしかなく、概して「変化が無い」「平板」と感じてしまう。これが「グローバル化」の行き着いた姿か?だが、他の木管楽器にこれほどの変化はない。
楽器自体も上記のアメリカの嗜好に基づいた「リングキイ+H足部管」という形が標準となりつつある。管厚も増してヴォリューム重視。プロの世界の趨勢がそうなってしまったから今更嘆いても詮無い事ながら、初学者までが、そうした流れも事情も知らぬまま、このタイプの楽器を受け容れて、真の鳴りを知らないまま苦境に陥る。これは憂慮すべき状況に違いない。
私個人は今回のブルックナーで木管のフルート(メーニッヒ=Moritz Max Mönnig=これもドイツの古名器)を用いる事にした。秘蔵の楽器。
平準化され無個性となったフルートの音色に対する老兵のせめてもの抵抗である。
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