曲目解説プログラムノート
ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」
「トリスタンとイゾルデ」への誘い
ワーグナーの最高傑作とも言われる「トリスタンとイゾルデ」は、前代未聞のエロティックな音楽と言ってよいでしょう。全曲約4時間のうちの大部分が、主人公であるトリスタンとイゾルデの心理的駆け引きと性愛の場面に費やされ、音楽は二人の心理状態や行為をこれでもかと言わんばかりに深く、そして執拗に表現していきます。まさに全てが聴き所と言ってよいほど充実した音楽で、一度嵌ると抜け出せない魅力にあふれています(なお本日は抜粋でおよそ2時間の演奏となります)。
しかしながら一方では、なかなかとっつきにくいと思われているのも事実です。 「いつ終わるとも知れぬ音楽を聴いているうちに熟睡し、一眠りして目がさめたが、まだ同じ歌手が同じような歌を歌っていた。」などと揶揄されることもあるようです。せっかく極上の音楽のご馳走を目の前にしながら、睡眠不足解消でお帰りになるようなことにならないように、この解説がお役に立てば幸いです。
「トリスタンとイゾルデ」は他のワーグナーの作品と同じように多数の示導動機と呼ばれる旋律の組み合わせにより作られています。示導動機は歌やオーケストラに変幻自在に現れて、劇の進行や登場人物の心理状態を表現します(詳しくは飯守氏の講義記事をご覧ください)。いわゆる普通の歌劇にある「アリア」というものがありませんから、はじめて聞くとつかみどころがない印象を受けるかもしれません。しかし、最初に述べましたように一度この音楽の魅力を知ってしまうと抜け出せません。そこでこの魅力を味わうための“コツ“をご紹介しましょう。
まずは、主要な示導動機(旋律)を覚えることです。有名な前奏曲に出てくるもののうち、譜例に示した2個の旋律、「憧憬の動機」、「愛のまなざしの動機」、そして第一幕で出てくる陰鬱な「運命の動機」と「死の動機」さらに、甘美な「愛の死の動機」を覚えればとりあえずはOKです。その旋律がどのような場面でどんな風に出てくるのかを感じ取ってください。
そしてなによりも、登場人物に感情移入することです。物語の背景や、登場人物の置かれている状況をよく理解することでワーグナー音楽の真髄を深く味わえることでしょう。というわけで少し長くなりますが、以下にトリスタンとイゾルデ入門編とでも言うべき解説を書いてみました。
1.「トリスタンとイゾルデ」の背景
時代は中世。マルケ王が治めるコーンウォールは戦争に敗れて以来、アイルランドに租税を納めねばならない状況にあった。あるとき租税を取り立てに来たアイルランドの勇者モロルトとコーンウォールの勇者トリスタンが決闘してトリスタンが勝利、モロルトは殺される。これを機に両国の関係は緊張した状況となるが、マルケ王の妃としてアイルランドのイゾルデ姫を迎えることで両国は和解することとなる。そして、トリスタンの操る船に乗せられ、イゾルデ姫がコーンウォールに向かっている。このような状況で幕が開く。
2.主要登場人物の紹介とその心理状態
■トリスタン
マルケ王の甥であるトリスタンはフランスのブルターニュ地方のカレオール出身で、今はコーンウォール一番の勇者。王が最も信頼する家臣である。彼はアイルランドのモロルトとの決闘で勝利するが傷も負っていた。モロルトの剣には毒が塗られていたため瀕死の状態で、それを直すには特別な医術を持つイゾルデに直してもらう以外に助かる見込みはなかったのである。そのためタントリスという偽名(そんな偽名ではばれて当然と思うが)を名乗って、単身敵国のイゾルデのもとに行き治療してもらった。イゾルデはトリスタンであることを見破ったのだが命を助ける。このときにトリスタンとイゾルデは、実は惹かれあったのだった。にもかかわらず、イゾルデをマルケ王の後妻にする計画を奨めたのもトリスタンであった。この理由について、悲劇的な出生(父親は戦死、出生後すぐに母親も死んだ)から自己犠牲的な性格を負わされていること、また身分の違いや政略結婚のためやむを得ず などいろいろな解釈が可能である。死への願望が強く、劇中でも各幕で一回ずつ自ら死を選ぶような行為を行う。
■イゾルデ
アイルランドの王女であり、モロルトの許婚者であった。しかし、モロルトの仇であるトリスタンの素姓を知りながらトリスタンと目を合わせた瞬間に(ビビッときた)特別な感情を持つに至り、そのまま治療して返してしまった。そしていずれトリスタンと結ばれると思い込んでいたのだと考えられる。ところが、マルケ王に嫁がねばならないということになり、しかもよりによってあのトリスタンがまるで貢物を運ぶかのように自分を迎えにきたことで逆上している。
■マルケ王
コーンウォール王でトリスタンの伯父にあたる。とにかく「人格者」である。最初の妃には先立たれ、その後は独身であった。ということからそれなりの年齢であることが推察される。トリスタンに全幅の信頼を寄せており、最初は乗り気でなかったイゾルデとの結婚もトリスタンの強い勧めで承諾した。にもかかわらずトリスタンに裏切られることになる。最後には全てを許して二人を結婚させようとするのだが・・・。登場すると嘆いてばかりである。
■ブランゲーネ
イゾルデの従者であり、ずっとイゾルデの身の世話をしている。年齢はイゾルデとさほど変わらないように思われるが詳細は不明である。第一幕では死の薬を用意するようにイゾルデに言われるが、動揺のあまり媚薬を用意してしまう。第二幕の逢引きの場面では見張り(全曲中でも特に美しい箇所)をしているのだが、結局マルケ王に踏み込まれてしまう。第三幕ではマルケ王に全てを打ち明けて許してもらうのだが、時すでに遅く・・・など、やることが全て裏目に出てしまう。
■クルヴェナール
トリスタンの忠実な家臣である。少々お調子者でもあり、トリスタンの本当の苦悩などは理解できていないようであるがトリスタンに最期まで仕え、メロートを討つ。
■メロート
トリスタンの元親友(ということになっている)だが、トリスタンとイゾルデの仲をマルケ王に密告、逢引きの場面に踏み込んでトリスタンを刺す。本日の公演では登場しない。
3.「トリスタンとイゾルデ」の聴き所
ここでは各幕についてそれぞれ、つぼを押さえた聴き方の一例をご紹介します。
<第一幕>
第一幕の聴き所は二つ、第一は、トリスタンとイゾルデの駆け引きです。前奏曲の後しばらくの間は、字幕で二人が何を言っているのか追ってみてください。オーケストラはあくまで伴奏として聴くというのがお奨めです。音楽が二人の心理状態を克明に表現していきます。「運命の動機」や「死の動機」が頻繁に現れます。
第二は、トリスタンとイゾルデが死の薬のつもりで媚薬を飲んでしまうあたりからです。ここは何といっても音楽が聴き所。字幕にあまり気を取られずに緊迫した音楽をお楽しみください。今日の演奏では前奏曲の終わった後20分くらいから第一幕終結までの部分です。
<第二幕>
「トリスタン」の第二幕はほとんど長大な愛の場面に費やされます。どっぷりと夜の世界に浸って戻って来られないほどの、麻薬的な「媚薬」音楽体験、いわゆるワーグナーの毒をたっぷり抽入されるひとときでしょう。
ただし、恋人たちが語り合っている歌詞はかなり哲学的です。無理をして字幕をまじめに追わなくても、大きな流れをつかんでいろいろと想像をたくましくしながら音楽だけ聞いているのでも十分に魅力を味わえるでしょう。
<第三幕>
第三幕はトリスタンの一人舞台である狂乱の場とイゾルデの船が到着してからの劇的な展開、そしてあの有名な「愛の死」で構成されています。本日の公演では、前奏曲の後、第一場を大幅にカットし、イゾルデ到着の少し前からの演奏になります。 「イゾルデの船が見えてトリスタン狂喜-イゾルデ到着-トリスタンの死-マルケ王一行の到着-クルヴェナールの死-イゾルデの愛の死」とめまぐるしく劇が進行します。とりあえず何がおきているのかだけ字幕で確認しつつ、後は変化に富んだ緊張感あふれる音楽をお楽しみください。最後の「愛の死」では、「前奏曲と愛の死」だけを聞いたときとは比較にならない、感動体験が得られるでしょう。
4.物語の進行
ここでは少し詳細に物語の進行を追ってみましょう。太字部分は本日の演奏箇所に相当します。斜体部分は本日の演奏ではカットいたします。
1)第一幕
【前奏曲】
前奏曲にはこの楽劇の魅力が凝縮されている。終止和音なしの旋律が連なって何度も繰り返され、トリスタンとイゾルデの飽くことなき憧憬と張りつめた心理状態が表現される。冒頭に流れるのは「憧憬の動機」、刷り込まれるくらい聴かされるのは「愛のまなざしの動機」だ。
【第一場】
幕が開くとそこは船の上、イゾルデはマルケ王に嫁ぐためコーンウォールへ向かっている。その船を操るのは、あのトリスタンである。同じ船に乗りながらトリスタンはイゾルデに会おうともしない。トリスタンに惹かれ命を救ったにもかかわらず、なぜマルケ王の妃とならねばならないのか、なぜトリスタンに無視されるのか、イゾルデは激しく苛立つ。
【第二場】
窓の向こうにはトリスタンと従者クルヴェナールの姿も見える。イゾルデはその姿を素早く見つけて陰鬱にトリスタンへの恨み言をつぶやく。
直前まで猛り狂っていたイゾルデの言葉はここでは謎めいて少々狂気じみている。ここでイゾルデが口にする旋律は、重要な「渇望の動機」と 「死の動機」だ。トリスタンが自分を選ばなかったことに対する屈折した感情がイゾルデの怒りの根本にある。そして、今すぐトリスタンをこの部屋に連れて来るようにと侍女ブランゲーネに命令する。
ブランゲーネはトリスタンのもとに行きイゾルデが呼んでいることを伝えるが、トリスタンも複雑な心境を覗かせつつ核心に触れない返事で逃げようとする。しかしトリスタンの従者クルヴェナールはトリスタンの心境を察することなく調子に乗り、『モロルトの歌』をうたう。貢物をめぐってアイルランドのモロルトとトリスタンが小島で決闘し、トリスタンが見事に勝ってモロルトの首をアイルランドに送りつけたと。「・・・われらが勇士トリスタン、貢物のなんとみごとな納めぶり!」とうたう。
このイゾルデを嘲笑する『モロルトの歌』がトリスタンの本意ではない。トリスタンはこれを叱り、静止する。
【第三場】
クルヴェナールに笑いものにされたイゾルデは、激怒する。そして『タントリスの歌』を歌い、ブランゲーネに(観客に)向けて、トリスタンとの因縁を解き明かす。「」内がその内容である。
「アイルランドの岸辺に瀕死の一人の男が流れ着いた。男は「タントリス」と名乗り、イゾルデは医術の業を用いて男の傷を癒した。イゾルデはタントリスの剣に刃こぼれを見つける。その形状はモロルトの頭蓋に残っていた剣の欠片と一致した。タントリスこそ婚約者モロルトを殺した仇、トリスタン。イゾルデは復讐のためにそのままその剣を持って病床の傍らに立つ。剣を振りかざすイゾルデにトリスタンは正体がばれたと、たちどころに事情を察知した。しかし命の危険が迫っているにも拘らず、ただイゾルデの目だけを捉え続ける。トリスタンは常に死への願望に身をさらさずにはいられない自己破滅的な男。イゾルデはトリスタンの「哀れなさま」に「同情」を感じて剣を手放す。イゾルデはトリスタンのけがを治療し、そして故郷に帰してやる。イゾルデにひたすら感謝し、まごころを尽くすと誓ったタントリスは今度トリスタンとして再びアイルランドに戻ってきた。コーンウォールのマルケ王とアイルランドの王女を結婚させるために。あのときに剣を振り下ろしていればこんなことにはならなかった。」とイゾルデは後悔する。
ブランゲーネはその話を聞いてもさほど気にもせずに、夫になるマルケ王は素晴らしい方だと説得をはじめる。イゾルデ様を一目見て夢中にならない男などいるはずがない。それにイゾルデの母が持たせた各種の秘薬がある。そのなかの媚薬を使えば大丈夫とうたう。しかしイゾルデは媚薬ではなく、死の薬を指し示す。驚くブランゲーネ。そのとき水夫たちの歌が聞こえてくる。
【第四場】
クルヴェナールが到着の準備を急がせるためにイゾルデの部屋に入ってくる。イゾルデはクルヴェナールに、トリスタンが赦しを求めに来るようにと伝える。
クルヴェナールが退場すると、イゾルデはブランゲーネに死の飲み物を用意するよう命じる。動揺するブランゲーネ。そこへトリスタンが登場する。
【第五場】
トリスタンがついに姿を現す。イゾルデはそんな姿を興奮して見つめ、しばらく無言となる。オーケストラには印象的な「運命の動機」が現れる。その後、トリスタンとイゾルデの間でかなり回りくどいやり取りが続く。イゾルデの本心はトリスタンの口から愛しているという言葉を聞きたいのだろうが、ストレートに聞き出さず、トリスタンが殺したモロルトがいいなずけであった事、にもかかわらず命を救ったこと、その仇を誰がとればよいのかと言って責め立てる。トリスタンは動揺し、それならこの剣で仇を討てばよいと言って渡す。しかしイゾルデはそれを否定し、和解の償いの盃を二人で飲み干そうと盃を差し出す。このあたりから音楽はしだいに緊張感を帯び、「死の動機」「運命の動機」などが繰り返される。それが死の飲み物であることをトリスタンが悟っていることを暗示するようである。一方、このやり取りとは別世界にいる上陸準備をする船員たちの合唱が重なることで、延々と登場人物二人だけで続くこの場面にアクセントを加える。
トリスタンとイゾルデはすでにどうしようもないほど惹かれ合い、愛し合っている。只、お互いそれを禁句にしているだけである。表面的には憎悪をたぎらせているようでいながら、ことばの裏では感情を確かめ合っている。ここでイゾルデは、マルケ王にイゾルデのことを娶るよう勧めるトリスタンの様子をからかってうたう。このあたりは「イゾルデの嘲弄の動機」が何度も繰り返される。イゾルデが心理的に優位に立っていることをあらわしている。
トリスタンには「和解の盃」の中身が何であるか既に察しがついている。しかし「死の飲みもの」を「心やさしい忘れ薬」とさえ述べて、進んで盃をあおる。トリスタンの歌詞やその行動を見てみると、いくつも死への願望をもっている事がわかるのだが、この行動もそのひとつである。イゾルデはトリスタンから飲みかけの盃を奪い取って競うように飲み干す。ともに死へ突き進むことで二人の思いは成就し、一気に燃え上がる。しかし実は、ブランゲーネが恐ろしさのあまり死の飲み物ではなく愛の飲み物〔媚薬〕を入れてしまっていたのだ。恐ろしいほどの沈黙の後に前奏曲冒頭と同じ「憧憬の動機」が現れる。この場面の音楽は、全曲中の白眉とも言える切迫感、最大の聴き所のひとつである。
一旦決壊した感情の堰の流れは最早留まるはずもなく、二人は「愛のまなざしの動機」に乗ってお互いの名前を震える声で呼び合う。こうなってしまえばただの男と女、愛の歓喜に酔い熱烈な抱擁を交わす。船室の外でマルケ王を歓呼する声も、部屋の中でブランゲーネが大げさに嘆いているのにもまったく気がつかない。しかしこの二重唱はすぐに到着の歓声にさえぎられる。ブランゲーネはイゾルデを正装に変え、クルヴェナールはトリスタンを讃えるために部屋に飛び込んでくる。この部分「二人の世界(夜)」と「それ以外の常識的な世界(昼)」という対立する二つの世界を劇的に表現する。ワーグナー的カタルシスを味わえる瞬間である。最後にマルケ王が船に到着し、別働隊のラッパがファンファーレを奏で、唐突に第一幕が終わる。
2)第二幕
【第一場】
第二幕の前奏曲は、恋の気持ちが溢れて浮き立つような、馬が駆け足で通り過ぎていくような調べを持っている。国王一行は夜の狩に出かけ、角笛が遠くに近くにこだましている。庭園でイゾルデとブランゲーネがそわそわと振舞っており、扉には目立つように松明が掲げられている。
第一幕の冒頭と同じように、舞台上に立っているのはイゾルデとブランゲーネ二人だけだ。イゾルデはまさに文字通りの「恋は盲目」状態に陥っている。
松明を消すのがトリスタンへの合図となっているようで、イゾルデは早く松明を消すようにブランゲーネに迫るが、ブランゲーネは、今日の狩は仕組まれたものであり、二人の逢引きを取り押さえるための陰謀だと警告する。消せだの消さないだのの一悶着の後、最終的にイゾルデが松明を手にして、その火を消す。この辺りから第二場へ向けてトリスタンが登場して抱擁に至るまでの音楽の盛り上がり方は、ものすごい。
【第二場】
ここからがいよいよ愛の場面だ。松明を消して、逢引きが発覚するまで、劇進行は止まり、恋人たちだけの特別な場所が用意される。
イゾルデの合図からほどなく、トリスタンが庭に飛び込んでくる。オーケストラが雄弁に二人の固い抱擁と燃え盛る情熱の激しさを物語る。
「あなたは私のもの?」
「きみはまたぼくのもの?」
「あなたを抱けるのね?」
「夢ではないか?」
「やっと、やっとだわ!」
「ぼくのこの胸に!」
「本当にあなたに触れているのかしら?」(以下延々としばらくこんな調子が続く。)
待ち焦がれていたことが実現したが未だに信じられない様子が良く出ている。二人は逢引きを邪魔していた昼の光に対する憎しみを歌う。そして音楽は次第に静かになり、えもいわれぬ甘く気だるい雰囲気をかもし出してくる。二人は昼への決別を終え、本格的な夜の賛歌へと移動する。ここからが本格的な愛の場面であり、音楽による性愛描写が続く。ここまでエロティックに愛の場面を表現した音楽は他にないだろう。
しばらくすると見張り台のブランゲーネが警告の声を発する。「お気をつけください! お気をつけください! まもなく、夜が去っていきます」ここがまた大変に美しい。この警告の最中、二人は黙ったままである。この陶酔的な音楽の後は一時的に緊張が緩んで、気だるい雰囲気となる。トリスタンは「このまま死なせてくれ」などと言う。
その後しばらくは恋人同士の哲学的なやり取りが続く。トリスタンは愛に耽る真っ最中でもやはり「死」を考えている。イゾルデは、あなたが死んだら愛も終わってしまうのでは?と問い掛ける。それに対しては
「それならば、ともに死のうではないか。・・・中略・・・、ただ愛に生きるために!」
ここではじめて「愛の死の動機」が現れる。再び性愛の音楽が盛り上がる。一緒に「死んでもいい」と思わせるだけの妖しい魅力に満ちている。イゾルデはこの死の宣誓に「身も心もあずけ合って」同調する。
ブランゲーネの警告の歌が再び響く。 夜は白々と明け染め始めている。今度はイゾルデが「私を死なせて」と呟く。二人がしだいに興奮に駆られ熱中していくのは、危険を察知するからこそ燃え上がるためなのか。刹那の想いが二人を更なる衝動へと駆り立てる。
これ以上ないくらいの絶頂を迎えた瞬間に破局を迎える。「愛の夜」は突然終焉のときを迎える。
【第三場】
「逃げなさい、トリスタン!」慌てて飛び込んできたクルヴェナールは既に遅し、マルケ王とメロートたちがその場に踏み込んでくる。侍女が心配したとおり夜の狩は罠だったのだ。二人の関係は公に露見した。
マルケ王は、信頼していたトリスタンが自分を裏切ったことを嘆く。「このマルケのために数々の武勲や手柄を立ててくれたトリスタンに対して、感謝の気持ちを表そうとトリスタンを世継ぎにしたかった。妻など娶りたくなかったのに、宮廷も国も捨てていくとトリスタンが脅して、先頭に立ってまでイゾルデを迎えに行ったのではないか。それなのに何故だ。」(本日はこの部分の一部をカットして演奏します)。
しかしトリスタンは一切弁解をしない。「昼」の世界にいる者には「夜」の世界のことなど理解できるわけがないということであろうか。トリスタンはイゾルデの方へ向き直ると「これからトリスタンが行く先へついてくるか? そこは陽の光の射さぬ国。・・・」と歌う。トリスタンは第一幕でイゾルデの盃を受けたときから死を覚悟していたと考えられるがここでも暗示的に死への願望が現れていると言えるだろう。
イゾルデはこの申し出を受ける。しかし、トリスタンがイゾルデに接吻を与えているときにメロートが無粋にも剣を抜いて挑発してくる。トリスタンも剣を抜いて応戦するかと思ったその瞬間、トリスタンはわざと自分の剣を落とし、メロートの刃中に飛び込んでいく。一同がトリスタンの自傷行為に呆然としているうちに第二幕が終わる。
第二幕終結後幕間のできごととして、トリスタンはクルヴェナールによって故郷のカレオールに連れ帰られる。トリスタンは深手を負っており、ほとんど回復の見込みがないような状況である。イゾルデはその後を追うことができず、事情は明らかではないがコーンウォールにとどまる。第三幕はそのような状況で始まる。
3)第三幕
【第一場】
第三幕への前奏曲は、トリスタンの心境を表した、絶望のどん底に叩き落されるような暗いものである。
幕が開くと男が二人。クルヴェナールと羊飼いだ。トリスタンは、瀕死の重傷を負って昏睡状態に陥っている。ようやく目覚めたトリスタンにクルヴェナールが、故郷カレオールに来た経緯を話す。その後しばらくはトリスタンの一人舞台、いわゆる「狂乱の場」に相当する場面である。トリスタンは、「夜の闇の国」に、イゾルデはまだ「昼の世界」にいる。イゾルデに会いたいという強い欲求を延々と狂ったようにうたう。クルヴェナールは、イゾルデに来てもらえるようコーンウォールへ使者を送っており、今到着を待ち焦がれているところだと話す。その言葉にトリスタンは我を忘れて叫ぶ。「イゾルデが来るのだ!」トリスタンはいまだ来ないイゾルデの船を待ち焦がれ、これまでの出来事を回想し、最後には媚薬を呪って狂乱し失神する。
再び昏睡状態に陥った主人を、クルヴェナールは親身になって気遣う。その献身的な介護にトリスタンは再び不死鳥のごとく息を吹き返す。「船は? おまえにはまだ見えぬか?」
意識を取り戻したトリスタンは、再び船に乗ったイゾルデの幻影を見る。音楽はイゾルデに対する美しい調べから、しだいに狂気と激情をはらんだものに変わっていく。そこへようやく到着の合図が鳴り響く。今までの暗い空気を吹き飛ばすような、明るい陽気な節だ。ここまで、半音階だらけの音楽を散々耳にしているので、整った長調を聞くと安心する。船が到着するとの知らせに、トリスタンは飛び上がらんばかりの勢いで喜ぶ。 しばらくの間、物見台に立って海を眺めるクルヴェナールと寝台に寝ているトリスタンとのやり取りが続く。それを通じて、聴衆は船が近づいてくる様子を間接的に知ることができる。
【第二場】
トリスタンは、当然じっとしていられない。「おお、この太陽! ああ、この真昼! ああ、歓喜にまばゆいばかりのこの日」と、早速寝台の上で喜びの気持ちを旋律に託し始める。そして 「ようこそ、わが血よ! 楽しく流れるがいい!」トリスタンは寝台から立ち上がり、包帯をむしりとる。おびただしく血がしたたりおちる。トリスタンは血染めの包帯を誇示し振りかざす。トリスタンの意識は明らかに高揚している。しかし自傷的行為によって生命力は残り少なくなっている。自分で傷口を広げるなど狂っているとしか言いようのない行動だ。音楽は急上昇、急降下の繰り返し、長調に忍び寄る半音階、それにめまぐるしく変わる拍子によって、劇的な効果が生まれる。
「トリスタン! いとしい人!」 異様な興奮にかられたトリスタンの耳にイゾルデの声がようやく届く。イゾルデの姿をついに認める。そして身体を恋人に投げ出すようにあずけ、崩れ落ちる。この部分、まるでトリスタンの血しぶきが飛び散るかのような凄惨な響きの迫力、その後に続く「憧憬の動機」の切実さと寂寥は、筆舌に尽くしがたいものがある。
再会した二人は媚薬を飲んだ直後のように見つめあう。しかしトリスタンは「イゾルデ!」と一声発して、息絶える。
メロートと剣を交えた際も、同じようにイゾルデが見守る中、トリスタンは先に死のうとした。「共に死のうではないか」と誘った本人が二度までも裏切っているのだ。当然イゾルデは骸をかき抱いて大いに嘆く。
【第三場】
羊飼いがもう一隻船が着いたことをクルヴェナールに告げる。マルケ王とメロート、ブランゲーネがやってくる。クルヴェナールは剣を片手に戦い始めるが、多勢に無勢だ。主人の恨み、メロートだけは何とか倒して復讐を果たす。やがてクルヴェナールもトリスタンのもとに倒れる。マルケ王がこの様子を見て嘆き、ブランゲーネは必死でイゾルデに呼びかける。媚薬の秘密をマルケ王に打ち明けたところマルケ王は急いで船を出したのだ。イゾルデをトリスタンと結婚させようと。しかし、そんな周囲のもろもろの出来事からはイゾルデはもはや超越している。いよいよクライマックス、「愛の死」だ。
「やさしく、おだやかな彼の微笑み、その目を柔和に開く、そのさま、ごらんになれますか、みなさん? しだいに輝きをまして彼がきらめくさま、星の光にとりまかれて昇って行くさまを? ごらんになれますか?」 文章だけでは気がふれてしまったようにしか思えないが、ここまで通して音楽を聞いてくると本当に「やさしく、おだやかな彼の微笑み」が見え、イゾルデが確実に昇天していくさまが聴こえてくる。ここがワーグナー魔術の最たるものだと思う。 「この高まる大波の中、鳴りわたる響きの中、世界の呼吸の吹きわたる宇宙の中に―― 溺れ―― 沈み―われを忘れる―このうえない悦び!」 と「愛の死」を歌い、イゾルデはトリスタンのなきがらの上に斃れる。
「トリスタンとイゾルデ」誕生のエピソード
ワーグナーは、畢生の大作「ニーベルングの指環」四部作の作曲途上にあった1857年2月、第三作目となる「ジークフリート」の途中で作曲を中断してしまう。その理由のひとつは、上演に四晩かかるような破格な曲を上演するめどがまったく立っていなかったということであった。おまけに金もなくなっていた。そこでワーグナーは上演の簡単な、小規模な作品を作曲し売り込もうと思い立つ。それがこの「トリスタンとイゾルデ」であった。ヨーロッパに古くから伝わる恋愛物語である「トリスタンとイズー物語」を題材にしてどの歌劇場でも上演できるようなものを作る構想であったようだ。 (ちなみに最近封切られた「トリスタンとイゾルデ」という映画はこの伝説を題材にして作られたもので、ワーグナーのものとは大幅にストーリーが異なるようです。) ところが作曲が始まったら、後述する不倫体験のせいなのか、ワーグナーの天才の性(さが)か、有数の規模の大曲が出来上がり、上演の機会はずっと先になってしまうのであるが。
話を戻すが、トリスタンの作曲を思い立ったちょうどそのころに絶好のパトロンが現れた。オットー・ウエーゼンドンクという富豪である。オットーは、チューリッヒにある豪邸の敷地内の離れをワーグナーに提供し、多額の金銭的な援助もした。
ところが、よりによってワーグナーはオットーの妻であるマティルデと恋愛関係になってしまう。二人は秘密裏に逢引きしては芸術を語り合ったと言われている。実際、マティルデの詩による歌曲を作曲し、マティルデにささげている。両人の関係は精神的なもののみであったとする説もあるが、いずれにしろオットーの恩を仇で返す行為ではあった。別居同然のワーグナーの妻ミンナがこの関係に気づいて大騒ぎするという事件もあった。しかし、オットーはこのことを表ざたにせずワーグナーを責めることもなかったようで、まるでマルケ王のように寛大であった。さすがの自己中心的なワーグナーもウェーゼンドンク家との破局を避けるためにチューリヒを離れ、美と頽廃の街であるヴェネツィアに移る。そこで館を借り切って第二幕の作曲に没頭するのだった。
しかし、イタリアの政情が不安定となり、以前より政治犯としてお尋ねものでもあったワーグナーは身の安全を図れるスイスのルツェルンに移る。そこで「トリスタンとイゾルデ」を完成させた。1859年8月のことであった。
この話で驚くのは、凡人では考えられない自信、才能、金銭感覚と運の強さである。そもそも、「金が足りないので短いオペラを作曲しようと思い立った人間が、タイミングよく富豪に助けられ、その妻にインスパイアされて世紀の傑作を生むインスピレーションが生まれる」なんていう話、これだけでも奇跡的な強運である。なのに、不倫も許されておとがめなし。しかも、その後この曲を作ったのは(おそらくとてつもなく高価な)ヴェネツィアの館を借り切ってのことなのである。金が底をついたので作曲をはじめたなどという「けちくさい話」は完全に吹っ飛んでいる。この後もワーグナーは、借金を重ねては踏み倒したり、著名な指揮者で、自分の弟子でもあり支持者でもあった人の奥さんを略奪したり、バイエルンの国王というこれ以上はないパトロンを捕まえて国庫から資金援助させたりしながら名作を生み出し続けるのであった。まるで「自分は全人類のための至高の芸術を生み出すのであるから、他人は自分のために奉仕して当然である」と考えていたかのように思える。そしてそれを実行してしまった。なんともすごい人生である。そして1883年69歳、心臓発作によりヴェネツィアで最期を迎えた。
そして今、ワーグナーが創設したワーグナーの曲だけを上演するための劇場(ベートーヴェンの第九など別の曲もたまには上演するようですが)であるバイロイト祝祭劇場で催される音楽祭には、公演を聞くために毎年世界中から多数の観客が集まる。チケットは申し込んでから何年も待たねば入手できないとのことである。
ワーグナーの「傍若無人な振る舞い」の根拠とも言える「才能」と「自信」が本物であったことが、没後120年以上経過した現代においても実証され続けているのである。
【謝辞】
本解説は、参考文献1より多くの部分を引用しています。快諾いただいた城後麻美氏に感謝します。また、写真を提供いただいた中島幹夫氏に感謝します。(都合によりHPでは写真を省略しました。)
参考文献:
1. 城後麻美著「トリスタンとイゾルデ論」http://www3.pinky.ne.jp/~pippo/page/tristanundisolde1.htm
2. 高辻知義著「ワーグナー」 岩波文庫
3. ベディエ編 佐藤輝夫訳「トリスタン・イズ-物語」岩波文庫
4. スタンダードオペラ鑑賞ブック[4]ドイツオペラ(下) 音楽之友社
初演:1865年6月10日 ハンス・フォン・ビューロー指揮 ミュンヘン宮廷劇場
楽器編成:フルート3(3番奏者ピッコロ持ち替え)、オーボエ2、コールアングレ1、クラリネット2、バスクラリネット1、ファゴット3、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ1、
ティンパニ、シンバル、トライアングル、ハープ、弦5部
その他に舞台上に(あるいは その他に別働隊として)
トランペット3、トロンボーン3(以上第一幕)、ホルン6(以上第二幕、今回はカット)、コールアングレ(後半はホルツトランペット)(以上第三幕)