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196回演奏会曲目解説プログラムノート

ボロディン:歌劇「イーゴリ公」序曲

本橋隼人(テューバ)

―再放送番組― 
真面目で温厚な性格のアマチュア作曲家ボロディン

 皆さんこんばんは、アルベルト本橋です(以下A)。今夜も「クラシックナイト野郎倶楽部」の時間がやってきました。毎回先生をお迎えして様々な角度から独断と私見によるホットでマニアックなクラシック曲をお伝えしていく、先週から始まった話題の新番組です。先週は第一回目としてゲオルグス・ペレーティスの弦楽合奏とピアノのための協奏曲「ビアンコ」をお届けいたしました。正真正銘ぜんぶ白鍵で弾かれる協奏曲です。すごかったですね~。さて今週はアレクサンドル・ポルフィーリェヴィチ・ボロディン(以下ボロディン)の「イーゴリ公」序曲です。これは歌劇「イーゴリ公」に含まれている曲として知られています。さあ、今週も素敵な先生をお呼びしています。音楽評論家の羽亜摸煮 熊三郎(はあもにいくまさぶろう)さん(以下熊)です。先生どうぞ!!

A さて羽亜摸煮さん。今夜はボロディンの「イーゴリ公」序曲ですね。よろしくお願いします。
熊 よろしくお願いします。
A このボロディン、1833年にサンクトペテルブルクで生まれ、1887年2月16日に心臓病で亡くなっているのですが、彼もともとはプロの音楽家ではなく医者で化学者だったといいますね。
熊 そうなんです。そういう意味ではボロディンはアマチュアなのです(笑)。しかし彼は13歳でフルート協奏曲を作曲したり、家族や学校の友人等あちこちのアマチュア室内楽団でチェロを弾いたり、おまけにピアノの腕は玄人はだしだったり等、音楽の才能に秀でていた少年でした。しかし彼はあくまでも音楽は趣味と割り切り、大学では化学を修め、卒業後は陸軍病院の薬剤師などを経て、サンクトペテルブルクにある大学病院に勤務し、また学者としても母校をはじめ医科大学の教授として教鞭もとっていました。そして並行して同じくアマチュア作曲家であるムソルグスキー、まぁ本業は陸軍将校なんですが…、などと親交を深め、徐々に作曲家としても頭角を現していったのです。
A なるほど作曲家と医者ですか…、多芸多才というかすごいですね。さて歌劇「イーゴリ公」についてお伺いしたいのですが、ズバリどんな曲なのでしょうか?
熊 う~ん、難しい質問ですが一言でいうなら時代劇スペクタクルでしょう(笑)。当時のロシア国民楽派の作曲家は、音楽を題材としてロシアの歴史や人物を扱う事が多かったようです。まぁ、いわば時代劇ですね。ボロディンもその一人でロシア建国時代の英雄・イーゴリ公を題材にしたオペラに着想し、1869年に書きはじめました。これはこの年の4月にロシア五人組の理論的指導者であったウラディミール・スターノフのすすめによったものだといわれています。彼はロシアの叙情詩「イーゴリ軍譚」と「イパテフスキー年代記」とから筋書きをつくってボロディンへ送ったところ、ボロディンはこれに大いに満足し、自分でリブレットを作成して同年の9月に作曲にとりかかったといわれています。
A 時代劇ですか…、今回イーゴリ公特集という事で私も曲を聴いたのですが、何というかロシア大地、壮大な風景と厳しい冬の景色というかロシア土着の香りがすごく漂っていいですね~(笑)。
熊 そうですね~。ボロディンの作品は力強い抒情性と豊かな和声が特徴ですね。息の長い中間部が存在していることが特徴で、明るい旋律がふっと寂しさを誘ったり、時に荒荒しい金管のメロディーあったりと非常に変化に富んでいるのも魅力的ですよね。この情熱的な音楽表現や比類のない和声法は、ドビッシ-やラヴェルといったフランスの作曲家にも影響を与えました。
A なるほど。で、序曲なのですが、何といいますか、「イーゴリ公」というとパッと思い浮かぶのは「ダッタン人の踊り」というイメージが強いですよね(笑)。
熊 そうなんですよね…。正直私も序曲は聴いた事なかったんです(笑)。何故か演奏される機会も少ないんですよね。説明いたしますと、この序曲は歌劇の中のいくつかの旋律をもとにして作られており、ボロディンはそのだいたいのプランを作成し友人達の前でピアノを演奏しただけで亡くなってしまったのです。その後グラズノフが暗譜していたメロディーやボロディンの草稿に基づいて作曲したといわれています。
A そうなんですか! ではこの曲は合作ということですか? それに手元の資料によりますとボロディンはものすごく作曲が遅いんですよね。代表作の歌劇「イーゴリ公」さえも1869~1887の19年間かかってますよね(笑)。しかも本人が書き上げた部分は非常に少ない。残りは友人のグラズノフやリムスキー・コルサコフが仕上げたようですね。初演も作曲者の死後3年経った1890年という…。有名な「だったん人の踊り」は本人が書いていますよね。
熊 まぁ、合作というか序曲はほぼグラズノフが作ったと言えますね(笑)。先ほど述べましたように、ただでさえ本業で多忙を極めていたボロディンですから、もとの歌劇「イーゴリ公」もいざ手がけてみたものの、完成までの道のりは相当長かったそうです。一つ面白いエピソードがあるんです。ボロディンは曲を作るにあたって台本用の歴史文献・考古学資料の下調べに時間をかけすぎて早々に作曲の情熱をなくしてしまい、書きかけの楽譜は置きっ放しになってしまったのです。友人のリムスキー・コルサコフは、何とか完成させようと考え、「イーゴリ公」の一部を演奏会にかけることにして先輩ボロディンにはっぱをかけるんです。
「お書きになりましたか?」
リムスキー・コルサコフの矢の催促に、ボロディンは答えました。
「ああ、書いたとも」
リムスキー・コルサコフが喜び勇んで行ってみると、書いたのは手紙でありました。また、なかなかスケッチを総譜(スコア)に書き写さないので、リムスキー・コルサコフがやきもきして、
「そのー、何でしょうね、あのオペラの総譜の例の曲は、もう写したでしょうね?」
と聞くと、
「うん、もちろん」
「ああ、助かった、やっと---」
「総譜はちゃんとピアノから机の上に移しましたよ」
と、ボロディンは大真面目に答えるんです。
A なんか落語みたいな話ですね(笑)。
熊 ですよね(笑)。 でもリムスキー・コルサコフが自伝にそう書いていているのだから仕方ないんです。で、いよいよ演奏会直前に合唱の練習をする段になったというのに、楽譜も出来ていなくて、とうとうリムスキー・コルサコフは弟子のリャードフと一緒に、ほとんど徹夜でボロディンを手伝うことになったんです。時間を節約するため、インクでなく鉛筆で書き、後でスコアをゼラチン液で濡らして、鉛筆の跡が消えないようにします。部屋の中には、ゼラチン液で濡れた楽譜が洗濯物のように並べて干されたのであります。 こうしてコンサートにはなんとか間に合ったのでありますが、この1879年の編曲を最後に、「イーゴリ公」は完全にほっぽり出されたのです。で、結局先ほども言いましたが序曲はグラズノフが記憶をたどって再現しました。第2幕はリムスキー・コルサコフが修正し、第3幕はグラズノフが完成させました。そしてほとんど真っ白だった第4幕は、リムスキー・コルサコフが事実上一から書き上げたものであります。従って、ボロディンの“代表作”とされる「イーゴリ公」は、実は半分くらいは他人の作品なのです。まぁこれが後々問題になるのですが…。
A 確かに「ダッタン人の踊り」や「イーゴリ公」がポピュラーなタイトルとして私たちが楽しむことができるのは、間違いなくグラズノフとリムスキー・コルサコフの功績といえるでしょうね。しかしどこかにボロディンの意図とは違ってしまったのではないかという一抹の不安も残ってますよね。実際一番有名な「ダッタン人の踊り」は本人が書いているわけですし。現在では上演される際には新たな解釈、アレンジが加えられることが多いようですね。それにしてもボロディン、代表作を未完成のままほったらかし、人に完成してもらう大作曲家なんて、なんだかある意味素敵ですね(笑)。
熊 彼が作曲が遅かったのは、決して怠惰とかぐうたらだからではありません。 彼がなかなか作曲を進められなかったのは、彼があまりにもいい人過ぎたからです。どういうことかと言いますと、つまり、人のためにばかり働いて、自分の作曲のための時間を取れなかったのです。 彼はそもそもプロの作曲家ではありません。先ほども言いましたが元来は化学者であり、長年女学校で教えていました。真面目で温厚な性格の彼は、友人や生徒から頼まれると嫌とは言えず、過大な仕事を抱え込みました。また、夜中に素晴らしい楽想が浮かんでも、ピアノに向かうことはありませんでした。安眠している家族を起こしたくなかったからであります。そして、朝になると大抵、前の晩の楽想は散ってしまっておりました。そんな方なんです。
A なるほど。もし彼がもっと作曲に集中していればどんな素晴らしい傑作を生み出したことかと、少し残念な気がいたしますね。実際、同時代のプロ作曲家であったバラキエフよりも数段ポピュラーですしね(笑)。
熊 本当です。私も是非聴いてみたいです。
A はい、今回はイーゴリ公特集という事で音楽詳論家の羽亜摸煮 熊三郎さんをお迎えしてお話してまいりました。先生ありがとうございます。
熊 ありがとうございました。
A さぁ~て、来週の「クラシックナイト野郎倶楽部」は~、Ullmann,Viktor(ウルマン)特集です。ウルマンは、アウシュヴィッツの収容所のガス室で生涯を閉じた不幸な作曲家です。しかしその人生からは想像もつかない曲の雰囲気を素敵な先生と見ていきましょう。お楽しみに!…じゃーん・けん!グー!(笑)。それでは今回はこれで失礼いたします。
注)この番組はフィクションです。


参考文献:最新 名曲解説全集 音楽之友社 ほか

初演:歌劇「イーゴリ公」 1890年11月4日(旧暦10月23日)
サンクトペテルブルク・マリインスキイ劇場
バレエ振付 レフ・イヴァノフ
編成:フルート2 、ピッコロ1、オーボエ2、クラリネット2、、ファゴット2、ホルン4 、トランペット2 、トロンボーン3 、テューバ1、ティンパニ、弦5部

コダーイ:組曲「ハーリ・ヤーノシュ」

中川隆之(トランペット)

 コダーイ・ゾルターン(1882-1967)はバルトーク(1881-1945)とならんで20世紀を代表するハンガリーの作曲家です。コダーイとバルトークは共に王立音楽アカデミー(ブタペスト音楽院)で学びますが、在学中に二人の交流はありませんでした。しかし1905年にたまたま出会った二人は意気投合し共に活動を始めました。当時ハンガリーで盛んだったのは後期ロマン派風の音楽でしたが、熱烈な愛国者だった二人はこれに反発して真のハンガリー国民音楽を作る決心をします。そのためにはハンガリー民謡の研究が第一と考え、ハンガリー民謡の収集とその編集に没頭します。同時にコダーイは子供の音楽教育に心血を注ぎました。第二次世界大戦が始まりナチスドイツが近隣諸国へ侵攻すると、バルトークはアメリカへ亡命しました。しかし、コダーイは幾多の妨害に遭いながらも祖国に残り創作、演奏と教育に生涯を捧げました。大戦後には彼を大統領に推す動きも出るほど国民的象徴となりました。
私が初めて「ハーリ・ヤーノシュ」に出会ったのは小学校の時に親に連れて行ってもらった「子供の為のクラシックコンサート」でした。このコンサートでは落語家の方が物語を面白おかしく話し、その合間にオーケストラの演奏が入るという構成でした。当時落語家の語りもオーケストラもあまり生で聴いたことが無かったせいもあり、とても楽しかった記憶があります。もしかするとコダーイのおかげで私は今も音楽を楽しんでいるのかも知れません。
1926年に作曲された「組曲ハーリ・ヤーノシュ」はオペラと呼ばれるものの、実際にはモーツァルトの「魔笛」と同様に「ジングシュピール」(音楽付きの芝居)です。「ハーリ・ヤーノシュ」とは主人公の名前で、日本と同じようにハーリは姓、ヤーノシュは名前です。あらすじは、初老の農民ハーリがかつて軽騎兵であった若い頃、ウィーンに攻めてきたナポレオン軍と戦い、ついには撃退して英雄になってしまうというホラ吹き話です。
 6曲の中の第3曲、第5曲ではハンガリーの代表的な民族楽器ツィンバロンが活躍します。また全般にわたり吹奏楽器が活躍するため、吹奏楽でもよく取り上げられます。

第1曲 前奏曲
 まず最初にオーケストラの壮大な「くしゃみ」から始まります。ハンガリーでは昔から聞き手がくしゃみをすると、その話は本当であると言い伝えられており、コダーイのユーモアぶりがうかがえます。
第2曲 ウィーンの音楽時計
 ハーリが兵隊となってウィーンに進駐したときのシーン。ウィーンの音楽時計が時刻を告げると、小さな機械仕掛けの兵隊たちが現れて行進を始めます。
木管楽器、金管楽器、打楽器、ピアノで演奏され、弦楽器はお休みです。
 第3曲 歌
 故郷の村を旅立つハーリが恋人のエルジュと一緒に「いつでも心は故郷のことを、そしてあなたと二人でいる事を願っている」と歌う歌です。ここでは民族楽器ツィンバロンがどこか懐かしいような響きを聴かせてくれます。
第4曲 合戦とナポレオンの敗走
 ハーリの出世をねたんだ騎士の悪巧みでフランス軍が攻めてきました。しかし、ハーリは一人でフランス軍を倒し、ナポレオンはハーリに命乞いをします。木管楽器、金管楽器、打楽器のみで演奏されます。また、ジャズでよく耳にするサックスフォーンが加わります。
第5曲 間奏曲
 昔から伝わるジプシーの民謡。ハンガリーでは昔から兵隊が町や村で飲食をしながらお祭りのようなものを催して、若者に軍隊生活の快適さを喧伝して入隊をうながしたそうです。この際に使われたのがヴェルブンコシュという募兵舞曲でした。
第6曲 皇帝と延臣たちの入場
 今や皇帝以上に有名になった英雄ハーリが表彰される時の祝宴の音楽です。コルネットが加わり、ファンファーレも飛び出し賑やかなフィナーレとなります、めでたし、めでたし。


初演:歌劇「ハーリ・ヤーノシュ」 1926年 ハンガリー国立歌劇場
楽器編成:ツィンバロン、フルート3(ピッコロ持ち替え)オーボエ2、クラリネット2、アルトサックス1、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、コルネット3、トロンボーン3、テューバ、ピアノ、チェレスタ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、シンバル、トライアングル、木琴、鉄琴、チューブラベル、弦5部

伊福部昭:シンフォニア・タプカーラ
藤井章太郎(フルート)

 「タプカーラ」の意味は、アイヌの「足を踏みしめる動作」の立ち踊りである。悪霊を追い払い良霊を招く動作で、相撲の四股もこの動作と言われている。伊福部昭は、1914年に釧路で生を受け道内で育った。小学校時代を過ごした十勝地方の音更の風景、そして幼年期に接したアイヌ民族の歌や踊り、これらへのノスタルジアが「シンフォニア・タプカーラ」創作の動機である。成長の後、北海道帝国大学に入学して林業を学び、卒業後は道東の厚岸で森林事務所に1939年まで勤務したが、独学で作曲を志し、1935年には「日本狂詩曲」がチェレプニン賞を受賞して作曲家としての道を歩む事になった。「シンフォニア・タプカーラ」は1954年に初稿が完成され、1955年1月26日に、インディアナポリス・シンフォニー・オーケストラ、フェビアン・セヴィッキーの指揮で演奏された。その後、1979年12月に改訂版が完成され、それ以降再演されているのはこの改訂版である。今回、新響は改訂版初演を含めて15回目の演奏
という事になる。
 新響のタプカーラでは、いつも2名のピッコロ奏者が演奏する。第3楽章の練習番号43以降、下記の譜例で示すとおりピッコロの最高音付近で非常に効果的なフレーズ続く。この音域では、非常に早い息のスピードと高い息の圧力が必要であると共に、運指も複雑である。おまけに、このフレーズではブレスの位置も無いという、体力的にも演奏テクニックでも演奏不可能なのである。1935年に作曲された日本狂詩曲の第2楽章でも同様な手法でピッコロが効果的に使用されているが、こちらはタプカーラに比べて平均的な音域が三度低い事と、オーケストラ全体の響きに隠れる音も有るので隠しブレスも可能であり、演奏不可能ではない。しかし、タプカーラのこのフレーズは、どんな名人・銘器を以てしても演奏不可能なのである。1980年改訂初演から3回の演奏は、原譜の通りピッコロ奏者は1名で演奏していたが、ピッコロの音が聞こえてこなかったり、5度下の音が聞こえたりと、作曲者が意図した効果は全く実現できていなかった。譜例の通り、1番フルートの記譜はピッコロと同じであり、実音はピッコロより1オクターブ低いので、ピッコロが記譜通り演奏されれば殆ど聞こえなくなる。(ピッコロの譜面は実音より1オクターブ低く記譜される)そこで1984年10月の第3回の演奏からは、第3楽章の練習番号42以降、1番フルート奏者がピッコロに持ち替えて演奏するようになり、作曲者の意図した効果が出るようになった。このとき、演奏者の席順はピッコロ持ち替えの1番フルート、2番フルート、ピッコロという順番になるので、2番フルートはフォルテシモでオーケストラ最高音に近い音を出し続ける2本のピッコロに挟まれることになり、2番フルート奏者は毎回の練習の度に耳鳴りと頭痛に悩まされた。これでは、2番フルートの団員があまりに可哀想なので、1985年の第5回目演奏以降は2名のピッコロ奏者で演奏する現在の演奏様式になった。それでも、一番端に座る奏者には隣の奏者のピッコロの音が直撃するので、一番端の奏者は左耳に耳栓をして演奏している。第3楽章クライマックスでのピッコロの音響効果は、憑かれたように無心に踊りに没頭している曲想に素晴らしく効果的であるが、ピッコロ奏者は貧血直前で頭の中が真っ白になり、まさに憑かれたように無心でなければ演奏できないのである。
 今回のタプカーラは伊福部先生が天に召されてから新響では始めての演奏である。伊福部先生は、先
に天に召された弟子の芥川也寸志先生や石井眞木先生と共に、天上の観客席からご覧になっているに違いない。3人のこんな会話が聞こえてきそうである。


石井 いつもの事ながら、新響のタプカーラはピッコロ2本で、迫力があって良いですなー。
伊福部 いつもピッコロ2本で演奏してくれて、申し訳ない事です。
芥川 申し訳ないことなんか無いですよ。なるべく多くの団員が演奏に参加した方が良いんです。みんな、この曲を愛していますから。


新交響楽団「シンフォニア・タプカーラ」演奏記録
(演奏年・演奏会タイトル・指揮者・演奏会場 の順)
1987 日本の交響作品展4 芥川也寸志 東京文化会館
1981 福生ニューイヤーコンサート 芥川也寸志 福生市民ホール
1984 アマチュアオーケストラ連盟フェスティバル 芥川也寸志 東京文化会館
1984 伊福部昭古希記念交響コンサート 芥川也寸志 東京文化会館
1985 MRKコンサート 芥川也寸志 新宿文化センター
1987 東京第三友の会演奏会 芥川也寸志 杉並公会堂
1987 サントリー音楽賞受賞演奏家シリーズ 芥川也寸志 サントリー・ホール
1990 アマチュアオーケストラ連盟フェスティバル 石井眞木 東京文化会館
1994 第145回演奏会 原田幸一郎 東京芸術劇場
1999 第165回演奏会 井﨑正浩 東京芸術劇場 
1999 九州演奏旅行 井﨑正浩 アクロス福岡シンフォニーホール
1999 九州演奏旅行 井﨑正浩 熊本県立劇場
1999 九州演奏旅行 井﨑正浩 九州厚生年金会館
2002 伊福部昭米寿記念演奏会 石井眞木 紀尾井ホール 


改訂初演:1980年4月6日 芥川也寸志指揮 新交響楽団
楽器編成:ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、トムトム3、小太鼓、キューバン・ティンバレス、ギロ、ハープ、弦5部


第196回演奏会(2007.2)パンフレットより

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