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自分で自分の歴史を書く新響に期待

小宮 多美江(音楽評論家)

 新響の演奏会はほとんどいつも聴かせてもらっている。
 一番最近きいたのは第195回。演奏会形式によるワーグナーの 楽劇「トリスタンとイゾルデ」、指揮は飯守泰次郎。これは、自分でも驚くくらい感動し、一瞬の沈黙ののちの万雷の拍手に加わった。
 演奏会曲目が外国曲ばかりのとき、帰りぎわにお客さまの「今日は日本のものはなかったね。」などのつぶやきを耳にすることもあるが、それでも、新響ではなんでもきいてみようと私が思うのは、彼らの演奏からは、演奏する彼ら自身が作品をかみくだいた上で本番にのぞんでいるその成果がきこえてくる気がするからである。この日もそうであった。
 このワーグナーの演奏会は、2006年を通じて行われた創立 50周年4回シリーズのしめくくりで、初回は1月、三善晃の「交響三章」からだったが、そのとき私は病院にいて、病室の窓から見える南の富士、北の八ヶ岳、西の南アルプスの氷壁に慰められていたのだった。
 だから、せっかくの50周年シリーズのうち、満足にきけたのは半分しか、「涅槃交響曲」のあった3回からだが、せっかくだから、三善晃にはじまりワーグナーで終わった50周年企画全体を私なりに考えてみたくなった。
 そこでやむなき事情によりということで、三善さんには申し訳ないが、当日の音をいただいた。1回目、そして2回目、最初の出だしのチェロの一音にまぎれもなく私たちの音を感じる。そして、緩急自在、ゆっくりとした動きが音色の変化につれていつのまにか速まっていくところなど、まぎれもなく私たちの音楽、という気がしてくる。
 いわゆる旋律らしい旋律を主題とするのではないため、ちょっととらえにくいのだが、そういえば、『作曲家との対話』(新日本出版社、1982)のなかで、三善さんが、「(曲の)発想というものはすごく具体的なんです。オーボエでもなんでもいい、とにかく音があるんだからしょうがない、聞こえているわけですから。それは、自分が書かなくてはいけないもののどこかの部分であるということが非常にはっきりしているんです。聞こえててゆるがせにできないものなんです、書く書かないは別にしてあるんですから。」と説明しておられたことを思い出した。まさに納得である。
 作曲家には、ピアノで作曲する人と、ピアノを使わないで作曲する人との2種ある、といわれている。清瀬保二はピアノで作曲した。亡くなる日の朝もピアノの即興演奏をしていたことでもわかる。三善さんの作曲は後者のタイプ、いわば頭のなかですべてできあがっていく。そうとわかれば譜面を眺めるのも、きくのもたのしくなる。
 そうしている折りもおり、日本現代音楽協会から、〈現代の音楽展2007〉のチラシとともに、三善さんが、現音創立75周年、2006~7年度のその催しの芸術監督を引き受け、テーマとした「未来をつむぐ、受けてつないで渡す」の趣旨をのべた文章が送られてきた。その後半の一部分をまず原文どおりに紹介しよう。

 日本人は自己決定をためらう、ということがあります。一言で言えば、「私は私」ということをひとまず避ける傾向があります。この傾向のために、逆説的なことですが、ほんとうの協調をしないことが見受けられます。私はよく「日本人は共同はするが協同はしたがらない」と言うのですが、このことは既に政経の外交面では、日本人という人種の定評になっていますね。これはしかし、21世紀の新しい世代では、通用しない、させたくない事です。現に、色々なことを知りたがっている世代があり、上の世代がそれに応えられない。逆に、ある世代がやりたがっていることに違う世代は関心がない。両方とも不満で孤独です。この両者をつないで協同させる。とりあえず一つの地域、一つのイヴェント、一つのプログラムのなかで二つの世代を「つなぐ」。

 すなわち、それが「未来をつむぐ」の意味で、作曲家にもそうできる場面がたくさんあるのではないか。そして、現音の存在感もそこにかけられているのではないか、と三善さんは提起しているのだ。
 私は、三善さんとはこれまでほとんど親しく言葉をかわしたことはなかったのに、ちょうど3年前の12月、思わぬことで手紙を出しお返事をいただいている。
 それは、ブッシュのイラク戦争開始前日の、2003年3月19日、三善さんが現音として反対の意思表示を出せないだろうかと問題提起したのにたいして、会側が驚くほど消極的な対応をした。そのことを『NEW COMPOSER』4号誌上で知って、びっくりした私が、思わずひろく友人たちに知らせるべく声をかけたことにたいしてのもの。
 いまやイラク戦争が内戦状態にあることは誰の目にも明らか、この数年の日本の政治が、まさに「私は私」を主張することなく、共同はするが協調はしてこなかった、それがいまの情況の根本にあることも、痛いほど知らされている。
 同文の前半で三善さんが言っているのは、伊福部昭のことばとしても多くの人にも繰り返されている、固有な価値こそグローバルな価値の基、あらゆる芸術はみなローカルだ、ということで、それを前提として、日本語の歌は世界中で理解され愛される価値がある、それも声楽曲に限っていうのではなく、「自分で自分の歴史を書いてみよう」というよびかけだ。
 これは、民族的といわれる作曲家の作品についていうとき、まず民族的あるいは日本的特徴にとらわれてしまうのをいつも私が残念に思っていることとも共通する。
 たとえば伊福部昭が、アイヌの生活には音楽が生きている、そこで学んだのは、自分の書いたものを発表するということになんら抵抗感を持つ必要はない、思ったように書けばいい、ということなのだ。
 ところが、これだけ音楽がさかんなこの國で、そのだいじなところが案外忘れられている。
 「自分で自分の歴史を書いてみよう」というよびかけは、作曲家に限らず、日本の演奏家たちにも、聴き手たち全体にも向けていわれているのだということを、あらためて認識したいと私は思う。

 ところで「交響三章」は、東京交響楽団と日本作品のシリーズに続いて、日本フィルハーモニー交響楽団がはじめた委嘱シリーズの第4作目、初演は1960年の10月14日、指揮渡邊暁雄。ことあらためてここに記すのは、私の『受容史ではない近現代日本の音楽史』(音楽の世界社、2001)の年表1960年のところで記載もれしているから。
 これは単なるミスだが、ここで、日本の管弦楽作品年表でながらく漏れていた橋本国彦の戦後に書かれた交響曲について書きたい。

 橋本国彦作曲「交響曲 第2番 ヘ長調」。
  第1楽章 ソナタ形式
  自筆譜末尾には、
  「於 鎌倉極楽寺108、1947年3月4日起稿、
   同年3月25日脱稿(Beethovenの命日)」
  第2楽章 フィナーレ、変奏曲
  自筆譜末尾には、
   「1947年4月16日、於 鎌倉」

 初演は、同年5月3日、帝国劇場、演奏は東宝交響楽団、指揮は作曲者自身。
 この初演記録がこれまで不明だった理由は、普通の音楽会ではなかったこと、憲法普及会主催の「新憲法施行記念祝賀会」のプログラムのひとつとして入っていた、という事情もありそうだ。
 東宝交響楽団(のちの東京交響楽団)はすでにこの名称を名乗っていたとはいえ、第1回定期演奏会が行われるのは、まだそれから半年後の10月のことである。
 それに、祝賀会全体は、第1部にヴァイオリン独奏などの音楽演奏、第2部は歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺一幕」の上演といった内容のものなのだから。
 ただ、音楽はその後放送も行われているので、だれか、記憶しておられないかと思っているのだが、いまのところ、情報は得られていない。
 私自身のその当時といえば、大学入学を機に疎開先から東京へ移ってきたばかり。吉田隆子に師事することになるのはもう少しあとのことになる。
 2005年春、吉田隆子のオペラ台本「君死にたもうことなかれ」を安部幸明先生との対談なども加えて復刻(新宿書房)したが、そのあとになって、吉田隆子の遺品のなかから、橋本国彦が滞在中のオーストリアから愛弟子吉田たか子に寄せた手紙が、私の手元にもたらされた。
 投函の日付は1935年7月16日。
 70年も前の手紙である。
 前記、「交響曲 ヘ長調」自筆譜に記されたのと同じく女文字のようにも見える細い字でびっしり書かれている。   おそらく渡欧にあたってひきついでいった曙会の舞踊のための音楽のこと、そのオーケストレーションについて、たいへん具体的なアドヴァイスを与えている。
 ついでに橋本は、ヨーロッパから眺めると日本の楽壇のいろいろの原因がどうも島国根性からきているらしい、などといい、「日本ではミジメなオーケストラを考慮して仕事をしなければならない。皇太子のカンタータを書いたときのように、自分の芸術としてでないときは、公然と手をかえられるけれど、自分の作品として公開する場合にはこまるのです。」などといっている。
 つまり彼の地にいて、フルトヴェングラー指揮の場合(リハーサルにもぐりこんで聴いたのだそうだが)のように信頼できるオーケストラならいいが、日本ではとてもそうはいかないのが「こまる」というのだ。
 「けれど、そんなことはおいて、思い切ってよいものをお書きください。何より、自分の芸術的良心を満足さすために。」と、励ましの言葉で手紙を結んでいる。
 この手紙からなお数年たって橋本が帰国したとき、すでに日中戦争は押しとどめられなくなっていた。さらに母校東京音楽学校教授に就任した1940年は紀元2600年の年。あの戦争の時代、橋本はまさに矢面に立たされていたのだ。

 安部先生からの、結局、最後のものとなったお手紙に、橋本国彦にふれて、次のようにあった。

 橋本さんの交響曲、確か私は初演の時に奏いているはずです。あの人なかなかの才人で、当時のオケの力ではあの程度の事しか出来ませんでした。欠点を挙げると、紀元節の歌とか妙にこだわるところがあったのが、惜しまれるのでないですか。 

 ここにあげられたのはもちろん、戦後のでなく、「交響曲ニ調」のこと。新響40年シリーズでとりあげられたものである。
 果たしてこれは作曲者が「自分の芸術的良心を満足さすために」「思い切って」書いたものだろうか。
 それにくらべて、楽章を書き上げるごとに、筆をおいたときの思いがなまなましく記された自筆楽譜をみればみるほど、橋本がほんとうに、自分のことばで書いたのは、「交響曲 第2番」、と思うゆえに、第1番の「交響曲ニ調」だけでは片手落ちではないか、と私は思うのである。
 「交響曲第2番」の第1楽章、かなり長い旋律主題は、それこそ、はじめて橋本が、「自分で自分の歴史を書く」よろこびをいっぱいにくりひろげたように、のびのびしたテーマだ。
 ソナタ形式の第1楽章と変奏曲、形式としては、その後の作曲家たちが挑んだ交響曲とくらべれば、保守的ということになるだろうが、そんなことよりもっと大事なのは、この「第2番」が全楽章を通じて、橋本のほんとうに「自分が思ったもの」だけであらわした交響曲だと思えることである。
 そしてもうひとつ全体に明るいところがいい。その明るさは、敗戦からまだ2年もたたないあのころ、衣食住すべてまだ満足ではなかったのに、なぜか希望があった、その未来の明るさをだれもが感じた時代だったと思う。橋本のこの交響曲からはそれがはっきり感じられる気がするのである。

 50周年企画からすっかり脱線してしまったが、ワーグナーにもどってみれば、ライトモティーフも、半音階的な傾向も、そして、トリスタン和音というものがあって、それがいわゆる調性破壊へのきっかけになったなども、多くの聞き手のみなさんにもよく知られてきていると思う。
 そしてその後、調性崩壊の結果のようにいわれる12音や無調その他の前衛技法が編み出されたとはいえ、むしろ現在にいたるまで、依然として調性は健在、という歴史の方がよほど確かに見えるのではないか。
 もちろん、いわゆる長短調調性に限ってでなく、ひろく旋法的調性を含めて考えればの話、である。
 「涅槃交響曲」では、たとえば梵鐘の「唸り」。その余韻嫋々のひびきは私たちにはごく親しい。それを、作曲者はこの曲で鐘そのものによるではなく管弦楽で再現しているのだということが、新響では楽員の解説によって案内される。
 つまり、管弦楽という表現手段は、それこそ「なんでもできる」演奏手段なのだということをごく、具体的に教えてくれるのだ。
 50周年企画のなかではもっとも若い世代の猿谷紀郎まで含めて考えるとすれば、新響は、ワーグナー以来の管弦楽の表現力のそれこそ無限の可能性を、これからもきっとどこまでも展開していくであろう。それは、「自分で自分の歴史を書く」ことにみごとに参加していくことだと思う。
 西欧近代ではなく、日本近代のベート―ヴェンであろうとした作曲家たちの、そして、さらに現代へと続く作曲家たちの作品を、どうぞこれからも聴かせてください。


第196回演奏会(2007.2)パンフレットより

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