熱いハートとクールな頭脳で―― 新響万歳!
小松 一彦
1913年の衝撃的な「春の祭典」初演から既に百年に近く、そして團伊玖磨、芥川也寸志、黛敏郎の才気煥発な(「昭和一桁世代」の)三人の作曲家グループが、颯爽とそれぞれの意欲溢れる作品を携え日本の楽壇に登場してから六十年余り。その三人共すでに他界……。
今回、本日演奏する三曲を“アヴァン・ギャルド(前衛)”という生乾きの状態のものとしてではなく“古典”として冷静な視点からスコアを洗い直し、精度が高く中身の濃い演奏に導いて行こう! と私は考えた次第。芥川、黛の両作品に漲る強いエネルギーは、二人の共通の師、伊福部昭の土俗的なヴァイタリティから受け継いだDNAがそれぞれの中で変異したものに他ならないし、「舞楽」の第2楽章には先駆「春の祭典」と全く同じリズムが現れる。即ち、ストラヴィンスキーやバルトーク等に見られる、19世紀には存在しなかった先鋭的で複雑なリズムと強烈なエネルギー・生命力(バーバリズム)の洗礼を、20世紀の作曲家たちは例外なく受けているのだ。そして「交響三章」の第2楽章中間部の、オーボエから始まる寂寥感に満ちた哀切極まりないメロディが、なぜか團伊玖磨の歌劇「夕鶴」にも殆ど同じ姿で現れるのは、日本人が“哀”を表現するときのアイデンティティを確しかと裏付けるものなのか!?
それらを全て包括・咀嚼し、アマチュアらしい“共感度に満ちた”(それが何より大事なのだ)しかし、曲の理解、演奏の意欲・熱気・勢いだけに止まらない、クオリティーアップを図った演奏を今回目指した。特に昔の演奏ではそこまで追求できなかったであろう、艶めかしい音色・音質(特に「春の祭典」)の獲得だ。
それらの成果を投影した“新しい新響像”は今日のステージの演奏から自ずと明らかになるだろう。 これからも私は、心から愛す新響と熱い演奏を積み重ねて参る所存ですので、どうぞ皆様、このオーケストラに一層のご支援をお願いいたします。
ありがとうございました。