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ニールセン/交響曲第2番「四つの気質」

常住裕一(ヴィオラ)

 クラシック音楽にある程度詳しい方でも、ニールセンという作曲家は、名前は聞いたことはあるけれどもあまり馴染みはなく曲も知らない、という人が多いのではないだろうか。かくいう私もニールセンの曲は過去1曲、それも30年近く前に演奏したことがあるだけであり、交響曲は初めての経験である。ここでは知られざる巨匠ニールセンをまずは近代音楽史の中に置いてみることから始めてみたい。
 この交響曲第2番が初演された1902年、ニールセンは37歳、同じ年齢のシベリウスは有名な交響曲第2番を作曲、ドビュッシーは40歳で、歌劇「ペレアスとメリザンド」の完成間近、同じく40歳のマーラーは交響曲第5番をこの年に発表、R.シュトラウスは38歳、名だたる交響詩を書き終わり、これからオペラを書こうという時期、ラヴェルは27歳で初期のピアノ曲「水の戯れ」以外まだ有名な曲は書いていない。28歳のシェーンベルクは前回の定期演奏会で新響が取り上げた交響詩「ペレアスとメリザンド」を執筆中であった。ストラヴィンスキーやバルトークはまだ20歳前の若者で、ロマン派の巨匠たちの中ではサン=サーンスが67歳で健在であった。まさにロマン派音楽の終焉を間近に控え、新しい音楽がこれから生まれようとしているときである。ニールセンの音楽は、今名前を挙げた同時代の作曲家たちのいずれのものとも似ていない。だが彼もまた、何か新しい音楽を模索し、生み出そうとしていたのである。
 ニールセンの音楽の印象は、重厚でごつごつした感じがあり、当時の主流であった半音階的な書法や 色彩的な和声を駆使した音楽とは趣がかなり異なる。後期ロマン派特有の仄暗いところは全く見られず、筋肉質で力強く前進していく音楽である。初めて接した時は耳慣れない転調やリズムが非常に耳に付くが、それらはニールセン独自の理論に基づくものであり、やがて3番以降の交響曲をはじめとする彼の代表的な作品の中で花開いていくこととなる。

■生涯
 カール・ニールセンは1865年6月9日に、デンマークのノーレ・リュンデルセという農村地帯に生ま れた。父はペンキ職人で、子沢山ゆえ大変貧しい生活だったが、ヴァイオリンとコルネットをたしなみ、 村の楽隊を組織して結婚式やお祭りで演奏をし、評判となっていた。ニールセンは6歳から父の手ほど きでヴァイオリンを始め、やがて父のバンドに入って村の行事などで弾くようになった。14歳のとき、故郷から7マイルほどの小都市オーデンセの軍楽隊に入り、ホルンとコルネットを担当し、4年間務めた。1884年にコペンハーゲン音楽院に入学し、音楽史、音楽理論、作曲法、ヴァイオリン奏法等を本格的に学んだ。この時期の作品はヴァイオリンソナタ、弦楽四重奏曲など、すべて弦楽器を使った習作である。1889年から王立劇場オーケストラの第2ヴァイオリン奏者となり、彼の作曲も管弦楽へと向かっていく。1890―1891年に政府から奨学金を得てドイツ、フランス、イタリアへ遊学、ワーグナーの「指環」の上演を見た。また、デンマーク人の女性彫刻家アンネ・マリー・ブロデルセンと会い結婚。この旅行の翌年に交響曲第1番が完成し、交響曲作家としてのニールセンのスタートが切られた。そして、1901年からオペラ「サウルとダヴィデ」と平行して交響曲第2番「四つの気質」が書き始められ、1902年に完成した。1908年から6年間王立劇場の音楽監督を務め、この間に声楽入りの交響曲第3番「広がり」、ヴァイオリン協奏曲が書かれた。1914―1918年は第1次世界大戦下であるが、彼は1915年から音楽協会と王立音楽院での教育の仕事に精力を傾けた。交響曲の方も1916年に第4番「滅ぼし得ざるもの」、1922年には代表作第5番、1925年に最後の交響曲である第6番「シンプル」と傑作が生み出された。晩年にはフルート協奏曲、クラリネット協奏曲がある。1930年王立音楽院院長に就任。1931年心臓発作のため66歳で死去。
 彼はあらゆるジャンルに多くの作品を残したが、とりわけ交響曲と、デンマーク語による素朴な歌曲 が高い評価を得ている。
 なおわが国では一般的に「ニールセン」と表記されることが多いが、デンマーク語の発音は「ネルセ ン」に近い。

■「四つの気質」という標題について
 この標題がついていることがこの曲を非常にユニークなものにしているといえる。この発想はニールセンが田舎の居酒屋で壁にかかっていたコミカルな絵を目撃したことによる。その絵は4部からなり、人間の4つの気質、すなわち胆汁質、粘液質、憂鬱質、多血質の人間をそれぞれ描いていた。この分類は古代ギリシャのヒポクラテスやガレノスに由来し、血液型発見以前はこの分類が西洋では一般的通念であった。これらの絵に描かれている人間の気質、性格への興味が作曲のきっかけになったのだが、曲は伝統的な交響曲の形式で手堅く書かれ、単なる描写音楽ではない。

■各楽章の解説
 普通であれば、ここで音楽形式を中心にお話しするところであるが、ここではニールセンが各楽章に割り当てた気質と音楽の関係に注目してお話ししたい。

第1楽章 アレグロ・コレリーコ
 「コレリーコ」とは胆汁質で怒りっぽい、という意味で使われている。胆汁質とは、愛憎が激しくて怒りっぽく、誠実で決断力に富み、明晰な概念付けを行うことを好み、結論を出したがる、という気質である。冒頭で示されるテーマ(譜例1)がこの胆汁質の象徴として示される。これに対して第2主題(譜例2)はテンポを落として穏やかに歌われるが、転調を繰り返し、その移りやすい性格を暗示する。

譜例1
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譜例2
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第2楽章 アレグロ・コモド・エ・フレマティコ
 粘液質を表す。「鈍く、そして冷静に」という発想で、穏やかな落ち着いた音楽である。粘液質の特徴は、慎重で好き嫌いを表に現さず、思考力があり冷静、滅多にやる気を起こさない、というものである。この楽章も、とりとめもない伴奏音型に、あまり主題らしくない主題(譜例3)が乗り、最後はとりとめもなく消えていく。

譜例3
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第3楽章 アンダンテ・マリンコーリコ
 「憂鬱なアンダンテ」という意味で、憂鬱質を表している。憂鬱質の人は独創性豊かで探究心が強いが懐疑的で固定観念にとらわれがち、非社交的で孤独な性格といわれる。第2楽章と同様のモティーフで始まる主題(譜例4)をもち、短調と長調の間を浮遊してメランコリックな気分をかもし出すが、やがて劇的で起伏に富んだ音楽となっていく。

譜例4
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第4楽章 アレグロ・サングイネオ
 サングイネオとは「血」を意味する言葉から転じた形容詞で、「多血質」を表している。
 多血質の特徴は、明るくユーモアを持ち、思いつきで行動し、気分や印象に左右されやすいが、感じがよく優しい人が多い、というもので、この楽章も最初の主題(譜例5)から明るく飛び跳ねるような活気に満ちたものである。平和で穏やかな中間部をはさんで曲は行進曲風に盛り上がって熱烈なクライマックスを築く。

譜例5
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 ニールセンについての印象を何人かの団員に聞いてみたところ、なかなか具体的な答えが返ってこなかった。やはり、皆私と同様に馴染みがなく分類しにくい個人様式に戸惑っていたのかもしれない。ただし、練習を重ねるうちにだんだん好きになった、という人がほとんどであった。人間の気質も音楽の内容も簡単に分類できるものではなく、奥深いものだが、真摯に付き合い愛情を持って接することで新しい地平が開けるのだと、今回この曲に取り組んであらためて感じた。そういった歓びを皆様に伝えることが出来れば幸いである。

参考文献
『作曲家別名曲解説ライブラリー2「北欧の巨匠」』より
「ニールセン」菅野浩和著(音楽之友社)
『最新名曲解説全集 補巻第1巻
「交響曲 管弦楽曲 協奏曲」』より
『ニールセン 交響曲第2番』菅野浩和著(音楽之友社)
『ニューグローブ世界音楽大辞典』(講談社1996)

初  演:1902年12月1日、コペンハーゲンにて。デンマーク・コンサート協会主催のコンサートにおいて、作曲者自身の指揮によって行われた。

楽器編成:フルート3、オーボエ2(2番はコールアングレ持ち替え)、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、弦5部
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