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ドビュッシー/交響詩「海」

星剛(ファゴット)

   クロード・アシル・ドビュッシーは、1862年パリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レーにて生まれた。小さな陶器店を営む家庭内に、特別な音楽的環境は用意されていなかった。彼にとって初めての音楽体験は、伯母クレマンティーヌの住む南仏カンヌに一時身を寄せていた際であるが、彼はイタリア人のヴァイオリニストにピアノの手ほどきを受けた。この8歳でのカンヌの滞在は彼に鮮烈な印象を残した。約40年後、楽譜出版業者ジャック・デュランに宛てた手紙で当時を回想している。

 「私は家の前の鉄道と地平線の奥の海を思い出しますが、それは、時として、鉄道が海から出てくる、あるいはそこに入ってく(あなたの好きな方を選んで下さい)ように思われたものでした。
 それから、また、アンティーブの街道、そこにはたくさんのバラが咲き乱れていましたが、私の生涯を通じて、私は一度にあれだけたくさんのバラを見たことはけっしてありません。あの街道の香りはたしかに陶然とさせるものでした・・朝から晩まで歌-ひょっとしてグリーグの歌?-を歌っていたノルウェー人の大工を含めて・・」

 この少年時代の美しい思い出は、詩的で感受性の強い作曲家の片鱗を感じさせる。また彼にとっての最初の「海」の記憶かもしれない。そして彼の父親マニュエルは、息子の将来を船乗りにと考えていたが―おそらく父親が若い頃海兵隊に勤務していたことに起因する―、カンヌでのレッスンの結果、次第に音楽家にしたいと考え始めた。パリに戻り本格的なレッスンを受けたドビュッシーは、1972年若干10歳にしてパリ国立高等音楽院に入学。彼は後年次のようにも語っている。同世代の作曲家であり指揮者のアンドレ・メサジェに宛てた手紙である。

 「おそらくあなたは、私が船乗りとしての素晴らしいキャリアを約束されていたこと、そして生活上の様々な偶然が私の進路を変えさせたにすぎないことをご存じないでしょう。それでも、私は彼女(=海)に対する情熱を持ちつづけてきました。」

 「海 三つの交響的素描」は1903年から作曲され、1905年3月5日に完成された。前作のオペラ「ペレアスとメリザンド」が賛否両論あったもののひとまずの成功に終わり、音楽家として社会的地位を得てからの最初の重要な作品がこの「海」であった。彼の他の管弦楽曲に比べて完成まで1年半という非常に短い期間で書かれた作品であるが(「夜想曲」は約5年、「映像」3部作に至っては7年を要する)、この期間彼はその人生の中でも最も辛い苦境の中にいた。1899年にリリー・テクシエと結婚するが、3年も経つと下町娘的であった彼女とうまくいかなくなり、1903年頃には自らの生徒の母親エンマ・バルダックとの関係が始まっていた。彼女は社交界でも有名な歌い手であり、リリーとは対照的な教養を身に付けた女性であった。夫婦仲は冷めていたものの、ついに彼に別れ話を切り出されたリリーは、絶望しピストルで自らの胸を撃ってしまう。幸い未遂に終わったが、エンマが裕福な未亡人であったことが、金目当てに伴侶の許を去ったというゴシップを増幅させ、騒動はパリ中が注目する一大スキャンダルに発展した。リリーとの離婚調停は結局1905年8月まで続き、このことは彼に多大な疲弊と孤独をもたらしたが、このような状況下でも「海」のオーケストレーションは続けられた。
 作曲家は「海」という作品について多くを打ち明けてくれてはいない。故に完成から1世紀が経過した今でも、多様な解釈を可能にしている。ここで再度アンドレ・メサジェに宛てた手紙を取り上げよう。

 「あなたは前述の作品(=「海」)に関連して、大西洋は必ずしもブルゴーニュの丘に打ち寄せはしないと私におっしゃるでしょう!・・そして、それはまさに(画家の)アトリエで書かれた風景画に似たようなものだと!でも私には無数の思い出があります。私の考えでは、そちらの方が現実よりましです。」

 また固有の作品について述べられたものではないが、1911年のある談話は「海」を理解する上で参考になるだろうか。

 「誰が音楽創造の秘密を知るだろうか?海のざわめき。海と空とをへだてる曲線。葉陰をゆく風。鳥の鳴き声。こういったすべてが私たちのうちに多様な印象をもたらします。そして突然、こちらの思いとはおよそなんのかかわりもなしに、それらの記憶のひとつが私たちの外にひろがり、音楽としてきこえてくるのです。それは、おのれのうちにみずからの和声をひめています。」

 もう一つ重要な事実がある。ドビュッシー本人の希望により、「海」の初版の表紙に葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」(「富獄三十六景」の第二十八景)が採用されたのである。当時、主にフランスの芸術界に広がっていたオリエンタリズム、ジャポニズムへの関心―ドビュッシーの自室には「海」のスコアの表紙と同じ絵が飾られていた。彼のピアノ作品「映像」第2集の3曲目「金色の魚」は、同じく自室にあった日本風の蒔絵の箱の蓋に描かれた、柳の下を泳ぐ鯉から霊感を得たと言われている。しかしながら、ドビュッシー自身の口から日本美術の影響について具体的に語られたことはなく、これらの情報は、確実に無関係ではないだろうが、北斎の浮世絵が「海」という作品の内部にまで影響を与えている証明にはならない。同じく画家からの影響という意味では、イギリスの画家ターナーについて次のような逸話もある。同時代のピアニスト、リカルド・ビニェスの1903年6月13日の日記である。

 「ドビュッシーの家に行った。彼は新たにピアノのための新作(=「版画」)を聞かせてくれた・・何たる偶然か、それらの曲はターナーの絵を思わせると彼に言うと、自分はまさに、それらを作曲する前、ロンドンのターナーの間で長時間過ごしたんだ、と彼は私に答えた!」

 1905年10月15日、ベートーヴェンの交響曲第7番、ダンディ、ベルリオーズの作品と共に「海」は初演された。ドビュッシーが「猛獣使い」と酷評したシュヴィヤールの指揮に責任の一端があることに疑いの余地はないが、それにしても好意的な批評や作品の独創性を認めるそれはわずかであった。ドビュッシー研究の第一人者フランソワ・ルシュール曰く、

 「このスコアの特殊性が読み取れるようになるには、数世代必要だった。それほど、「海」のスコアは、伝統的な分析には捉え難いのだ。1905年には、革新に最も注意を払っている聴衆にとってですら、「海」は「ペレアス」よりもはるかに途方に暮れてしまう作品だった。」

 批評家ピエール・ラロは「海」の初演直後に出た『ル・タン」紙の批評欄で、次のように評した。

 「はじめて、ドビュッシーの絵画的な作品に耳を傾けながら、私は、自然を前にでは全然なく、自然の複製を前にしているという印象を持った。素晴らしく繊細な、創意に富み、器用に細工された複製だが、それでも複製に変わりない・・・。私には海が見えず、聞こえず、感じられない。」

 ドビュッシーは反論する。

 「私は海を愛していて、海に払うべき情熱的な畏敬の念を以て、海に耳を傾けてきました。海が私に書き取らせるものを私が下手に書き写したとしても、私たち相互のどちらにも関係のないことです。そして、すべての耳が同じように知覚しないということでは、あなたは私たちの意見に同意なさるでしょう。」

 ―すべての耳が同じように知覚しない―ドビュッシーが我々に与えた、僅かであるが必要十分な情報 をガイドに、思い思いの「海」を感じていただければ幸いである。また彼が言った「自分にとってパンとぶどう酒の代わりとなる、つねに一層先に進みたいという、欲望」の下、強固な意志を以って、自らの芸術的な理想を追い求めた姿に思いを馳せていただきたい。

 曲は3つの楽章から成る。
  1.海の夜明けから正午まで
  2.波の戯れ
  3.風と海との対話

参考文献
『伝記 クロード・ドビュッシー』フランソワ・ルシュール著 笠羽映子訳(音楽之友社)
『ドビュッシー書簡集1884-1918』フランソワ・ルシュール編 笠羽映子訳(音楽之友社)
『作曲家◎人と作品シリーズ ドビュッシー』松橋麻利著(音楽之友社)
『作曲家別名曲解説ライブラリー ドビュッシー』(音楽之友社)
『ジャポニズム入門 ジャポニズム学会編』(思文閣出版)
『ジャポネズリー研究学会会報2』

初  演:1905年10月15日カミーユ・ジュヴィヤール指揮コンセール・ラムルー管弦楽団

楽器編成:フルート2、ピッコロ、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、ファゴット3、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、コルネット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、トライアング ル、シンバル、タムタム、グロッケンシュピーゲル(またはチェレスタ)、ハープ2、弦5部
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