R.シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
山口裕之(ホルン)
「英雄の生涯」、「アルプス交響曲」あるいは「家庭交響曲」といったR.シュトラウスの交響詩を聴いたり演奏したりするときにいつも感じるのだが、作曲家がこういった標題音楽に対して与えている音楽の各部分の説明は、むしろ音楽にとって邪魔なものかもしれない。確かに、そういった説明を通じて作曲家が何を描こうとしているのか、そしてそれぞれの部分が何を表しているのか、明確に思い描くことができる。しかし、それによって逆に、われわれは与えられた説明から生み出されたイメージとしてしか音楽を捉えることができなくなってしまう。「英雄の生涯」のさまざまな主題は、もっと自由に、音楽そのものとして聴くとき、はるかに豊かなものとして受け取ることができるのではないだろうか。
とはいえ、われわれにとって、作曲家が語る言葉が作品を理解するための重要な手助けとなるというのも間違いないことだ。「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」に関しても、R.シュトラウス自身、ある音楽学者の求めに応じてこの曲の標題的内容をかなり詳細に総譜に書き込んでおり、それによってわれわれはこの交響詩の表現する具体的情景を知ることができる。ここでもそのシュトラウス自身の言葉を紹介することにしたいが、その前に、そもそもティル・オイレンシュピーゲルとは何者なのか簡単にふれておく方がよいだろう。
おそらく多くの日本人にとって、「ティル・オイレンシュピーゲル」という名前は、クラシック音楽が好きであれば、このR.シュトラウスの交響詩によって知られているか、さもなければほとんど馴染みのないものといえるだろう。しかし、ドイツ、オーストリアをはじめヨーロッパのいくつかの国では、ティル・オイレンシュピーゲルは、知らない人はまずいないほど有名なキャラクターである。ティル・オイレンシュピーゲルの物語は、16世紀初頭に書かれた「ディル・ウーレンシュピーゲルの退屈しのぎ話」(ブラウンシュヴァイクの徴税書記ヘルマン・ボーテの作と考えられている)によってヨーロッパ各地に広がっていった。
16世紀初頭の民衆本の挿絵
主人公のティル・オイレンシュピーゲルは悪戯者の放浪人で、生まれたときから死んだ後まで、人々 に悪戯を仕掛けて楽しませたり、激怒させたりし続けた道化タイプの人物である。実は、「原作」といえるボーテのテクストでは、手工業の親方や聖職者・王侯といった権力者をからかう愉快な話だけでなく、とてつもない糞尿譚(スカトロジー)がしつこいほど繰り返され、また弱者をいたぶる話も含まれている。しかし、現在多くのドイツ人が思い描くティルのイメージは、おそらくこの16世紀初頭の民衆本に描かれたものというよりも、むしろ絵本など、子ども用に書き直されたものによって生み出されたものといってよ い。ちょっと調べてみるだけで、ドイツ語圏、英語圏など、実に多くのティル・オイレンシュピーゲル の絵本が(アニメのDVDやビデオ、朗読CDも!)出版されているのがわかる。なかでもケストナーによる再話(1938年)は、ヴァルター・トリアーによる挿絵とともに、多くのドイツ人の「ティル」のイメージを作り上げてきたといえるだろう。
ケストナー作/トリアー絵によるオイレンシュピーゲル
1895年に作曲された「ティル」は、もちろんそういった現在のドイツ人のイメージとはある程度異なる文化的環境の中で生まれたものだが、楽しく反抗的なキャラクターという点では基本的に一致する。R.シュトラウス自身があとから総譜に書き込んだティルの物語は、まさに昔話の書き出しから始まる。「むかしむかしあるところに、いたずら者の道化がいました。」続いて、軽やかなホルンのソロによってティルが登場する。「名前はティル・オイレンシュピーゲル。」この旋律(の断片)は「ティルの主題」として、いろいろな姿をとって全曲に繰り返し現れることになる。ここから基本的に6/8拍子となるのだが、実はこのティルの主題は7/8拍子のようなリズムとなっており、ここにも世間的な枠組みからはみ出すティルの姿を見て取ることができる。
「それはひどいいたずら者(コボルト)だった。」オーケストラの強奏に次いで現れるひょうきんなクラリネットのソロによる主題は、もうひとつのティルの動機としてやはり曲全体のいたるところにちりばめられている。この動機は、冒頭の「昔々」の旋律が形を変えたものである。
そして、6/8拍子の軽やかなギャロップとともに、ティルは「新しい悪戯のために出発。――待ってろよ、この嘘っぱち野郎ども。」これから、ティルの悪戯の犠牲となる者たちに楽しく宣戦布告をした後、ここからかなり具体的な4つのエピソードが音楽によって描かれてゆくことになる。
一つ目の話は、女たちでにぎわう市場の中へと馬で突っ込み、市場を大混乱に陥れるという悪戯である。「そらっ! 馬で市場の女たちの真ん中へ。」しかしその大騒ぎはあっという間に終わり、ティルはその場から「七里靴ですたこら逃げ出す。」そして、「ネズミの巣穴に隠れて」やりすごす。
二つ目のエピソードは、「僧侶に化けてさもえらそうにお説教。」比較的穏やかなテンポのユーモラスな旋律である。「しかし、悪戯者の姿が足の親指からちらりとのぞいている」(クラリネットのソロ)。そのように悪戯を楽しみながらも、ティルは「キリスト教を侮辱したかどで恐ろしい末路をたどることになるのではないかという思いに捉えられる」。この箇所は、ミュートをしたトランペットとホルンによる不安げな旋律で表現されている。
ヴァイオリン・ソロによる細かい下降音形に続く三つ目のエピソードでは、「騎士に姿を変えたティルが美しい娘たちとやさしく洗練された挨拶の言葉をかわす」(オーボエなどによるやさしげなティルの動機)。ティルは「娘たちに求愛する」が(管楽器の上昇音形の繰り返しが感情の高まりを表現)、娘たちに体よく拒絶される。「やさしくても、肘鉄は肘鉄。」ティルは怒り狂い、「全人類に復讐することを誓う」(ホルンのユニゾンによる強奏)。
しかし、すぐに気を取り直したかのように現れるふざけたティルの動機に導かれて、第四のエピソードのための「俗物学者のモティーフ」が現れる。これは、ファゴットに始まりさまざまな楽器がぶつぶつ言うかのように折り重なる主題である。ティルは「俗物学者たちにとてつもない難題をつきつけたあと、目を白黒させている連中をほったらかしにする」ので、学者たちはしばらく喧々諤々と混乱した議論を続ける羽目になる。ティルはそんな学者たちを尻目に、「遠くからしかめっ面」(ffによるふざけたティルの動機。最後は木管楽器のトリル、ホルンとトランペットによるストップ音)をしてみせる。
余談だが、道化の「しかめっ面」(難しい顔をするしかめっ面ではなく、むしろ「あっかんべー」のほうが近い)には独特の文化的伝統がある。自分を笑いものにすることで相手に取り入り、持ち上げながら、心を許した次の瞬間にはその相手にしかめっ面をして見せることで、その上下関係をあっという間に逆転して見せるのだ。(ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」には、それが見事に凝縮されたシーンがある。)音楽では、ホルンの金属的なストップ音はこういった意味合いをもつことがある。
そしてその場を後にすると軽やかで楽しい「ティルの鼻歌」とともに、ティルは何事もなかったかのように歩いてゆく。その後、ソナタ形式の再現部のように、冒頭と同じくホルンによるティルの主題が現れると、二つのティルの主題の断片が気まぐれに、そして次第に混沌とした様相を帯びながら、ほとんど大騒ぎになるまで高まってゆく。と、突然、ティルのこれまでの悪戯に対する「裁判」の物々しい響きが鳴り響く(小太鼓と金管楽器)。ティルはしかし、「どうでもいいこととばかりに口笛を吹く」。だが、結局はこの裁きの手から逃れることはできない(ここで「恐ろしい末路」の予感を表していた旋律が再現する)。ティルは処刑台の「はしごのうえへ! ティルの身体はだらんとなり、息はこと切れる。最後の痙攣――ティルのはかない命は終わった。」しかし、冒頭と同じく物語の語り手によるエピローグによって、処刑によって死んでもなお、ティルのはちゃめちゃな物語は楽しく締めくくられることになる。
実は、シュトラウスが標題的に描き出したこのティルの物語は、物語の筋そのものとしては、ヘルマン・ボーテの「原作」のうちにそれに当たるエピソードをほとんど見出すことができない。俗物学者を煙に巻く話が多少素材的に重なるくらいだ。確かに、度重なる悪戯のためにすんでのところで縛り首になりそうになった話はあるが、ティルの最期は処刑によるものではない。シュトラウスによるティルの物語は、作曲者のかなり自由なイメージによって作り出されたものといえそうだ。
しかしさらにいえば、われわれ自身、作曲者による標題的な言葉を念頭に置きつつも、もっと自由な イメージでこの音楽を捉えてよいのではないか。R.シュトラウスは、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」を初演した指揮者フランツ・ヴュルナーが曲の内容についてあらかじめ尋ねたところ、次のように答えている。「オイレンシュピーゲルに対する標題を与えることは私にはできません。言葉に表現してしまうと、私がそれぞれの箇所で考えたことは、とてつもなくおかしな印象を与えてしまうことになるでしょうし、いろいろと軋轢を生むことになると思います。今回は聴衆の皆さんにご自分で、この悪戯者の差し出す胡桃の殻を割って[難題に取り組んで]いただくということにしませんか。」ティル・オイレンシュピーゲルの標題的内容についてこのように答えておきながら、シュトラウスはさほど時間を置かずして先に紹介したような「ティル」の標題について具体的に書き記しているわけだが、それでもなお、標題について語ることはできないというシュトラウスの言葉は、やはり力をもち続けている。この演奏会でも、一方ではシュトラウスによって与えられた解説を楽しみながら、もう一方で、「聴衆の皆さんにご自分で、この悪戯者 の差し出す胡桃の殻を割っていただく」ということでいかがだろうか。
主要参考文献:
『Till Eulenspiegels lustige Streiche』Hans-Jörg Nieden(München(Fink)1991)
Wikipedia:Till Eulenspiegels lustige Streiche(http://de.wikipedia.org/wiki/Till_Eulenspiegels_lustige_Streiche)
音楽之友社版スコア『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』解説(三宅幸夫)
『R.シュトラウス(作曲家別名曲解説ライブラリー)』音楽之友社(門馬直美氏による解説の部分)
『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(阿部謹也訳)岩波文庫
『Till Eulenspiegel』Erich Kästner(Hamburg(Dressler), 2000)
初 演:1895年11月5日 フランツ・ヴュルナー指揮 ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
楽器編成:ピッコロ、フルート3、オーボエ3、コールアングレ、小クラリネット、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット3、コントラファゴット、ホルン8、トランペット6、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太 鼓、シンバル、トライアングル、小太鼓、ラチェット(ガラガラ)、弦五部