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特別インタビュー 曽我大介氏にきく

 今回、新交響楽団と初共演となる曽我大介氏。
 曽我氏が指揮者になるまでの意外なエピソードと今回のプログラムにまつわるお話をしていただきました。

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―ルーマニアでの活動が長いそうですね

曽我 もともとルーマニアに留学していましたからね。先日(11月)も国際交流基金の助成を受けて、デビュー20周年ツアーに行ってきました。よく勘違いされるのですが、僕が卒業したのはルーマニア国立音楽大学で、桐朋学園大学は卒業していないのですよ(笑)。卒業論文はルーマニア語で書きました。そもそも指揮科ではなく、コントラバス科で勉強をしていました。桐朋の3年生が終わるときに休学して、ルーマニア国立音楽大学に編入したのです。本当は桐朋に復帰するつもりだったのですが、そのままフェードアウトしちゃった。ちなみに留学のきっかけは、桐朋で師事していた先生に、「ルーマニアに素晴らしい先生がいらっしゃるからぜひ行ってみなさい」と勧められたからです。当時ブカレストにはイオン・ケプテア教授というコントラバスの世界的権威がいらっしゃって、彼の教え子達は優秀なコントラバス奏者として世界中に広がっていたのです。ちょうど先日のツアー中に、この先生の80歳記念演奏会を振ってきました。ブカレストにあるアテネ音楽堂という、日本でいうサントリーホールにあたるようなホールで行われ、ドイツやアメリカで音楽教授をしているかつての教え子が、なんとハイドンの「チェロ協奏曲第1番」とチャイコフスキーの「ロココの主題による変奏曲」をコントラバスで技術的にも音楽的にも完璧に演奏しました。ちなみに後半は総勢34名のコントラバスオーケストラによる演奏で、この日のために僕が書き下ろした編曲もの3曲とオリジナル1曲の計4曲のステージでした。

―作曲もなさるのですか?

曽我 そもそも指揮科にいたら、作曲の勉強は必要ですからね。近年頻繁に作曲をするようになり、演 奏家の視点のみならず、作曲家の視点で演奏する作品がより深く見られるようになりました。特に気づかされたのは、演奏者や聴衆にとって 「曲」とは、“淀みなく作られたもの”と思われがちですが、実際はどの曲にも“継ぎ目”があるんです。例えば、作曲中に来客があったり、休憩を取ったりするたびに作曲の作業が物理的に中断されているわ けですからね。

―どのようなきっかけで指揮者になられたのです か?

曽我 先ほども申し上げましたが、もともと指揮者を目指してはいなかったんですよ。ルーマニアで魔が差しちゃったのです(笑)。ルーマニアでちょっとだけ指揮を習ってみて、卒業する年に“間違って” デビューする機会があって、音楽院のオーケストラを振ってみたら「いいんじゃないの」と認めてくれる人達がいたのです。ちなみに最初に振ったのは、ものすごく渋いプログラムで、ワーグナーの「ジークフリート牧歌」、シュターミッツの「ヴィオラ協奏曲」、ベートーヴェンの「交響曲第4番」でした。それからどんどんプロのオーケストラを振るようになって…。ここで魔が差さなければ、今頃コントラバス奏者になっていたでしょうね。桐朋で同期の池松さん(ニュージーランド響首席コントラバス奏者・元N響首席)は指揮をやりたくて、僕はコントラバスをやりたくて音大に入ったのだけど、結果的に選んだものは逆になってしまいましたね(笑)。
 ルーマニアに2年半留学した後は、ウィーン音楽大学の指揮科に進みました。ウィーンでは2年間勉 強したのですが、その間にもイタリアにあるシエナ・キジアーナ音楽院の夏期講習会にも参加しました。いろいろなコンクールやタングルウッドを始めとする世界中の音楽祭にも参加して。とにかくあちこちで勉強していましたね。

―先生と関わりの深いタングルウッドでの思い出をお聞かせください。

曽我 今回のプログラム(バーンスタインとバルトーク)の発端は、まさにタングルウッドの絡みです。タングルウッド音楽センターはいわばコンクールのようなもので、まずボストンでオーディションを受 けなくてはいけません。そこで特待生として選ばれて、2ヶ月間タングルウッドに滞在しましたが、休みはたったの一日だけ。とにかく毎日音楽漬けの日々でしたが、音楽にも自然にも恵まれた素晴らしい環境でしたよ。そもそもタングルウッドにしろボストン交響楽団にしろ、“歴史”を作ったのはシャルル・ミュンシュであり、クーセヴィツキーであり、小澤先生ですが、“伝説”を残したのはバーンスタインです。タングルウッドの地に立ったとき、そこら中にバーンスタインの息吹が残っていました。僕たち指揮科の学生はクーセヴィツキーの住んでいた家でレッスンを受けるんです。丘の上からタングルウッド湖が見渡せて、ものすごく眺めの良いところでした。そこにはゲストブックが置いてあって、若き日のバーンスタインや小澤先生の写真が置いてありました。バーンスタインはクーセヴィツキーの影響を受けて指揮者を目指し、彼のアシスタントを経て、初期のキャリアを積みました。その地がまさにこのタングルウッドです。バーンスタインとタングルウッドは切り離せないのです。
 僕は今まで指揮者として色々な素晴らしい先生に巡り合えて、若いうちからたくさん良い経験をさせ てもらいましたが、カラヤンとバーンスタインに師事できなかったことが、とても残念です。もちろん、聴衆という立場では彼等の演奏を何度も聞いていますし、歴史的な演奏会にも足を運んでいます。けれども直接対話できる機会がなかった。あと5年早く生まれていれば、違ったと思います。そういう意味では、一つ上の世代の方たちが本当にうらやましい ですね。

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クーセヴィツキーの誕生パーティで、 ケーキの最初のひときれををもらうバーンスタイン(1942年)

―バーンスタインがタングルウッドで活躍したちょうどその頃に、クーセヴィツキーがバルトークに「管弦楽のための協奏曲」を委嘱したのですよね。

曽我 まさに第二次世界大戦のゴタゴタのときですよね。当時アメリカに活動の場を移していたバルトークは白血病を患い、経済的にも支援を必要としていました。クーセヴィツキーは病床のバルトークを見舞い、破格の見舞金をもって依頼。これが命尽きようとしていたバルトークを奮い立たせ、傑作を残 す源になりました。みすず書房から『バルトーク晩年の悲劇』という本が出ていますが、彼の晩年はまさに激動の時代でした。

―バルトークはアメリカに“亡命”したのでしょうか。それとも“移住”だったのでしょうか。

曽我 一応“移住”ということになっていますが、戦争やナチスの難を逃れてアメリカに渡った、ということは事実だと思います。あの時代は本当に難しいですよね。リヒャルト・シュトラウスも“亡命”ではありませんが、やはり戦争を逃れて一時期アルプスのガルミッシュ・パルテンキルヒェンに避難していましたしね。
 有名なバルトークの民俗音楽研究も二度の世界大戦によって中断されてしまいました。彼はエジソン が発明した蓄音機を背負って東欧の山中を歩き回り、流行歌に染まっていない生粋の民謡を収集・研 究していたことでも知られています。それこそ村のおばあさんが心を許して歌ってくれるまで、何日も村に滞在して根気強く集めていたそうです。数々の民謡がバルトークの中で昇華して作品の中で使われ ています。第1楽章冒頭の低弦から始まるメロディー(譜例1)。実はあれも民謡の調べなのです。日 本人にとって理解しにくいのが、第3楽章(エレジー)でしょうね。オーボエやピッコロに出てくる、音高の変わらない音型(譜例2)のどこにアクセントを置くかがポイントです。ここには民族の言葉の語感が必要なのです。

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     バルトークが実際に使用したフォノグラフ(蝋管式蓄音機) 撮影:曽我大介氏

譜例1(第1楽章冒頭)
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譜例2(第3楽章)
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 よくバルトークはストラヴィンスキーと比較されることがありますが、大きく異なる点が二つあります。まず第一点目はリズムです。バルトークのリズムは作為的な“変拍子”ではありません。民俗音楽を源泉としたリズムなのです。二点目の違いはメロディーです。ストラヴィンスキーにもロシア民謡はありますが、ことさらバルトークには旋律を謡い上げる、歌心が必要です。例えばバルトーク作品によく見られる、高い音から始まって下降していく独特の音型は中欧からトルコに至る民俗音楽でも使われているパターンです。ブラームスのハンガリー舞曲第5番の冒頭にも同じ動きが出てきますね。
 バルトークはハンガリー人ですが、生まれたのは現在のルーマニア領で、両大戦のさなか彼の周囲に は様々な東欧文化がひしめきあっていました。彼はその源泉を求めて各地を踏破していったのです。

―ルーマニアは人種のるつぼなのでしょうか?

曽我 ルーマニアは母国語だけでも大きく分けて、ルーマニア語、マジャール語(ハンガリー語)が使用されています。さらに細かく分けると、ドイツ系、セルビア系、トルコ系、ギリシャ系、ロシア系など に分かれます。ルーマニアに限らず、東欧諸国の国境線はいまだに実際のカルチャーと合致していると は言いがたいですね。バルトークの家系はハンガリー人ですが、東欧諸国でいろいろ勉強して民謡を収 集し、マジャール語地域ではマジャール語を話し、ルーマニア語も完璧に話し、トルコ語を始めとする各国語を話しました。

―当時のバルトークの写真を見ると、確かに民族衣装を着た人と一緒に写っているものがありますね。

曽我 今でも日常生活で民族衣装を使用している地域はありますよ。先日ルーマニアの地方を巡った時も、刈り入れの済んだ農地の落ち穂を求めて移動する数百頭の羊を連れた羊飼いや、馬車などを頻繁に見かけました。ある意味バルトークが見たであろう、現代生活とかけ離れた営みがいまだに残っています。

―我々日本人にとっては東欧諸国の区別がなかなかつかないのですが。

曽我 オーストリア人ですらきちんとついていないかもしれませんね。特にブルガリアとルーマニアはよく混同されがちですが、そもそも使っている文字からして違う。ブルガリアはキリル文字、ルーマニ アはラテン文字(ローマ文字)を使っています。かつてルーマニアにフランス人が入植したときに、ルーマニア語が自国の言葉に近いということが分かり、それから西欧化が進んでラテン文字を使うようになりました。ルーマニアでもかつてはキリル文字を使っていましたが、これはギリシャやコンスタンティノーブルの影響を受けていた名残なのです。一部地域では未だに使われていますよ。
 常々思っているのですが、言葉を勉強するということは文化を勉強するということです。これはルーマニアでロシア語教師に言われたことなのですけどね。

―ちなみに先生ご自身は何ヶ国語お話になるのですか?

曽我 普通に話せるのは日本語以外に、ルーマニア語、英語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語です。仕事や日常会話でフランス語、ロシア語も使っていますので、合計8ヶ国語は話せます。ちなみにルーマニア語はどちらかというとイタリア語に近いです。イタリア語はポルトガル語とも近いですね。逆に似すぎていて、何語を話しているのか混乱することがあります(笑)。

―改めて今回のプログラムについてお聞かせください。

曽我 バーンスタイン作品はとにかく曲がよくできています。譜面どおりに演奏するだけで、きちんと聞けるようになっている素晴らしい曲です。ジャズやビッグバンドの要素はまた別に織り込まなくては いけませんが、こちらはブランデーでも飲みながらスイングするような感じで入れてほしいですね(笑)。
 バーンスタインはミュージカルでも非常に成功しましたが、やはり彼の作品は西欧音楽の伝統に根ざ していることには違いありません。エッセンスとしてオペラの要素を非常に感じます。ミュージカルとはまた違うレヴェルの作品と言えるでしょう。 「キャンディード」序曲はまさに子供がドタバタ走り回っているような楽しい曲なのですが、話の内容はこれとは異なります。アメリカのコメディドラマのような作品、と思っている人も多いのですが、ヨーロッパや南米が舞台の複雑かつ皮肉に満ちたストーリーなのです。今回は序曲しか取り上げませんが、劇中に20世紀最高のコロラトゥーラの歌が出てくることでも有名ですね。
 あの当時いろいろなミュージカルが流行りましたが、「ウエスト・サイド・ストーリー」は音楽面だけではなく、ストーリー性でも突出した素晴らしい作品です。これは僕が実際アメリカに行って感じたことなのですが、アメリカ人は「ウエスト=西」に特別な感情を持っているのではないでしょうか。開拓時代、東海岸から入植してきた移民達は、夕日を追って西へ西へと進んでいきました。「西」は移民達の行き着く先で、いわばフロンティア精神の「望郷の地」でもあり、様々な民族の交わる地でもあるようです。実際アメリカ西海岸ではヒスパニック(スペイン語系)の影響が大きいですし。この「西」という言葉がまさにウエスト・サイド・ストーリーにとって重要な意味を成しているのだと思います。もちろんウエスト・サイドという言葉自体はニューヨークのウエスト・サイド地区を差す言葉ですし、またバルトークが亡くなったのもニューヨークのウエスト・サイドの病院。ちょっとだけ今回のプログラムを結ぶ見えない糸みたいなものもあります。
 話は少し変わりますが、6年位前にロサンジェルス・フィルハーモニックの「シンフォニック・ダンス」を見て感動したことがあります。冒頭プロローグの指パッチン(Finger snaps)を行う弦楽器奏者達の所作がぴったり揃っていたのです。弓の下ろし方から指を鳴らすタイミングまで全てが完璧に揃っていました。でもすごくさりげなくやっていたのです。日本人だとこういうとき気合を入れてやってしまうのだろうけど、彼らはまさにクールにやっていましたよ(笑)。

―「管弦楽のための協奏曲」には特別なエピソードがおありだとか。

曽我 この曲はキリル・コンドラシン国際指揮者コンクールで優勝したときの曲でもあるので、いろいろ思い出があるのですが、一つ忘れられないエピソードがあります。以前、オーストリアのリンツに住 んでいたときのことなのですが、のどかな金曜の午後に洗車をしていたら、急にマネージャーから電話 がかかってきて、「明日からのスケジュールは空いているか?」と呼び出されました。当初予定してい た指揮者が急病になった為、代役としてお呼びがかかったのです。オーケストラはオランダのネザーラ ンド・フィルで、曲目は前プロがフォーレの「ペレアスとメリザンド」とラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」。ここまでは良かったんですが、メインがなんと「管弦楽のための協奏曲」だった。「こりゃ大変だ!」ということになって、それから大慌てで荷造りして飛行機でアムステルダムに向かいました。機内ではいつも休むようにしているのですが、ここまで機内でスコアを勉強しまくったフライトは後にも先にもないでしょうね(笑)。現地にはその日の夜に到着したのですが、翌日の朝にリハーサルを行って、夜にはもう本番でした。しかもこれで終わりではなくて、その後にはコンセルト・ヘボウでの3日間連続定期演奏会、という怒濤の演奏会でしたが、無事成功に終わりました(笑)。
 今回はどの曲も魅力的かつ盛りだくさんで、とてもおいしいプログラムです。演奏する側は大変?か もしれませんが、お客様にはきっと喜んでいただけると思います。ぜひ皆様に楽しんでいただきたいで すね。

聞き手:土田恭四郎(テューバ)
写真撮影:桜井哲雄(オーボエ)
構成・まとめ:柳部容子(チェロ)

〈追記〉
 このインタビューの後、再びルーマニアのオーケストラに客演し、念願だったバルトーク生誕の地、スンニコラウマーレ(マジャール語:ナジセントミクローシュ)を訪ねることが出来ました。悲しいことながら、民族の軋轢の中、この地でバルトークの名前を高めようとしているのはたった一人の愛好家の情熱だけなのです。バルトークは7歳にして父をこの地で無くし、移住を余儀なくされましたが、晩年にして幼年期のこの地での悲しい体験を生々しく語っています。
 バルトークの父の墓がある村外れの淋しい墓地、喪服に身を包んだ老女達と小さな教会を見かけたと き、バルトークの死の体験がこの地に根ざしていることが思い出されました。
 「エレジー」へのアプローチが根本的に変わりそ うです。
曽我大介


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           バルトーク生家の跡地前で
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