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ブラームス:交響曲第4番 〈古典的様式にみえる近代性〉

土田恭四郎(テューバ)

 ヨハネス・ブラームス(1833年ハンブルク生まれ、 1897年ヴィーンにて64歳で没)は、まぎれもなく19 世紀後半ドイツ・ロマン派音楽芸術における巨人で あり、その音楽は西洋音楽史上特異な位置を占めている。ブラームスと同時代に生きた指揮者ハンス・ フォン・ビューローが言いだしたドイツ「3大B」 (バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)とよばれる概念の固定化に代表されているように、ブラームスの出現は、ドイツ音楽の系譜に繋がるベートーヴェン以降の最大の後継者という固定観念と繋がり、交響曲のジャンルにおいても、古典音楽を綿密に研 究した成果で得た技法と同時代の近代的な要素を取 り入れつつ、絶対音楽的立場から重厚で構成的な音楽の創造において、管弦楽に対する技巧の成熟と発展を示している。


・交響曲の特性
 ベートーヴェンによって前人未到の領域まで完成された交響曲というジャンルにおいて、ブラームスは、交響曲第1番を1876年に発表されるまで着想から20年近くも練っている。ブラームスの交響曲は、長年培ってきた膨大な音楽の知識と技法的な体験による深みから生み出された作曲者の確固たる音楽的な理論性をもとに、独自の淀みのない緻密な構成による芸術作品といえよう。構成は古典的な4楽章性を崩しておらず、楽器編成も原則として当時としては規模の大きなものでなく2管編成の域をでていない。特色としては、中間楽章にスケルツォとかメヌエットを表示した楽章はないし、両端楽章に比べて編成を小さくして対比させている。全体として重厚かつ素朴で古典的な響きがするものの、特有の色彩による抒情性と柔軟性があり、ベートーヴェンの後継者というレッテルと巨大な壁を乗り越えた挑戦の結果といえる。
 作曲時期によって第1番と第2番、第3番と第4番と大きくわけることができ、また互いに対照的な内容となっている。ブラームスは1862年よりヴィーンに定住、大作の「ドイツ・レクイエム」を1868年に発表して大成功、1872年にはヴィーン楽友協会の芸術監督に就任、ヴィーン音楽界の重鎮として名声を確立し数多くの名作を創作していくが、多忙の中、夏に涼しく静かな避暑地にて集中的に作曲を行うようになり、それは晩年まで続いた。このことは曲のアイデアを性格的に整理し、全く違った作品を同時に練り上げていくというユニークな創作の姿勢につながっていった。交響曲第4番は、交響曲第3番を書きあげた翌年の1884年から1885年にかけて書かれ、他の3曲とは異なる「憂愁」ともいえる孤立した性格を持っており、当時としては古典的な様式の中で作曲者の孤独と底に秘めた情熱が意思となって、孤高ともいえる個性が見事に表現されている。


・交響曲第4番について
 ブラームスにとって最後の交響曲となったこの作品は、広く親しまれている屈指の名曲であり、オーケストラの演奏者にとってレパートリーとして重要 な作品といえよう。前項でも触れているように、作曲された当時の音楽的風潮からみてバロック的志向が強く保守的ではあるが、古い形式を用いることで「憂愁」とか「諦観」を表現、さらに緻密で複雑な効果と色彩によるロマン的な香りを作曲技法や語法の中に持ちこんで、ゆるぎのない強靭で成熟した音楽の魅力に満ちている。歌舞伎でいえば「見得」が随所にみられ、あえて申せば、江戸時代後期に歌舞伎を興隆に導いた七代目市川団十郎が、当時は限ら れた階級の者にしか知られていなかった高尚な能の「安宅」を、大衆的な歌舞伎という演劇様式に取り入れて「勧進帳」を創作したことで新たな伝統を創造し、今では広く親しまれて人気のある演目となっていく過程と同じような感覚ではないかと思える。
 1885年10月8日、限られた親しい友人たちを前に2台のピアノ編曲版で試演を行った時、第1楽章の演奏後、複雑な技法と古めかしい語法に対して戸惑いの雰囲気があり、賛否両論だったという。1885年10月25日ブラームス自身の指揮によるマイニンゲン公の宮廷劇場による初演では評判が良く、翌年までドイツやオランダの各地、ロンドンで演奏されたが、1886年1月17日ヴィーンフィルで楽友協会大ホールにてハンス・リヒター指揮によるヴィーン初演は大成功とはいえず、再演されたのは1897年3月7日に初演時と同じハンス・リヒターにて行われるまで時間が必要となった。病気で弱った身体にもかかわらず、大ホールの監督席に座っていたブラームスは熱烈な拍手で迎えられ、たちあがって返礼した。深く感動したブラームスは自分の名声が健在であることを実感したに違いない。以来、ヴィーンでは一般的に受け入れられることになった。尚、この演奏会はブラームスが自作を演奏会で聴く最後の機会となり、同年4月3日に息を引き取ることになる。


第1楽章:アレグロ・ノン・トロッポ ホ短調
2/2拍子 ソナタ形式
 アウフタクトで哀愁を帯びた音楽がヴァイオリンによってはじまる。三度進行を主とした旋律で、三度の下降(シーソ♪)、その後は六度上昇(ミード♪、ひっくりかえせば三度の関係)の連続で休符をおいて、哀切な表現を湛えている。少しずつ緊張感を高めながらも、突然、木管にこれまでとは違う性格の三連音を含むリズムの旋律がロ短調で現れ、チェロとホルンに伸びやかで情緒的な美しい旋律が姿をみせる。対比してバスに三度のスタッカートによる下降音形が古めかしく面白い。その後、和解的でなめらかな旋律や和やかな音楽が出てきて、展開部・再現部と続き、最後は挑戦的で猛烈な嵐の如く突き進んでいく。古典的な編成で、これだけ密度のある重厚な響きが生み出されるオーケストレーションはすばらしい。


第2楽章:アンダンテ・モデラート ホ長調
6/8拍子 展開部のないソナタ形式
 はじめのホルンと木管による旋律は、中世的で古めかしくまるでセピア色。短調かと思えるが、これはホ音を基音とする教会旋法のフリギア旋法であり、旋律の終わりでクラリネットに基音の長三度:嬰ト音がでてホ長調のしっとりとした明るい響きが構築され、フリギア旋法を活用した第1主題が綿々と続いていく。その後、ヴァイオリンに第1主題を思わせる美しい旋律が流れ、伴奏形に三連音による反抗的な音形が登場、次第に発展してスタッカートの強烈な音形として全体を支配していく。すぐに慰めるかのように、第2主題でチェロに表情豊かな旋律がロ長調で登場、他の弦楽器とファゴットが対位法的に絡み美しい。再現部はより劇的に進み、終結部ではホルンに最初の旋律が還ってきて、静かに消えるように終わる。


第3楽章:アレグロ・ジョコーソ ハ長調
2/4拍子 ソナタ形式
 スケルツォに相当する楽章。面白いのは通常のスケルツォやメヌエットといった3拍子ではないこと。この楽章にトライアングルが加わり、その活躍は効果的。コントラファゴットもこの楽章から登場する。冒頭の第1主題は全合奏にて明るく強烈に且つ豪快にはじまり、形を変えて新しい動機を加えて 発展、第2主題がヴァイオリンでのびのびとト長調で登場、その後発展して展開部に突入、再現部では第1主題がppにて管楽器により主調ではなく変ニ長調にて登場。速度をゆるめて、ポコ・メノ・プレストとなり、ホルンとファゴットで柔和な第1主題に由来する旋律が続き、速度が戻ってクライマック スまで押し進んで力強く終結する。


第4楽章:アレグロ・エネルジーコ・エ・パッショナート
ホ短調 3/4拍子
 白眉ともいえる終楽章。8小節の主題を元にした 壮大な変奏曲であり、具体的には30の変奏と結尾部にて厳格且つ入念なパッサカリア(シャコンヌ)の形式を構築している。しかも全体をソナタ形式とも思える大きな有機体としてまとめており、これだけでも一つの作品として孤高の存在といえよう。パッサカリアやシャコンヌといえばバロック時代の様式であり、通常は主題を低声部で繰り返していくが、ブラームスはこの曲では主題を高声部に置き、それに和声と下行音形のバスを加えている。この楽章でトロンボーンが登場し、硬質で厳格な古典的ともいえる様式に貢献している。第2変奏でオーボエとクラリネットでmpによるレガート旋律が第2主題として印象的。中間部の第12変奏では2分の3拍子となってフルートが印象的なソロを聴かせ、第13変奏でホ長調に転じ、第14変奏と第15変奏でファゴット、ホルン、トロンボーン、後に木管も加わる深いコラール風の響きがすばらしく、またこのサラバンド風の歩みが懐かしさを醸し出している。その後は主題が再現されて発展し、ピュウ・アレグロとなって最後は力強く且つ激しく終了する。


・変奏曲の大家:ブラームス
 ブラームスが持っていた芸術全般に対する洞察力、膨大な知識は圧倒的である。中世までさかのぼる音楽への知識と深い理解力を持ち、バッハを中心とした古楽の研究に没頭、厳格対位法の書法から、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンと進み、音楽理論と作曲技法を自己固有のものとして知識を拡大していった。多様性に富む膨大な楽譜のコレクションには同時代の作曲家はもちろん、いわゆる大作曲家たちの貴重な自筆譜や初版譜があり、記念碑的な全集版を手に入れるためにいかなる犠牲もあえて辞さなかった。そして、興味の対象には必ずしもならなかったとは思われるが、それらを心から楽しみ、学究的な慎重さで比較・研究している。
 このように15世紀以来シューマンに至る大家の作品に惹かれ、その伝統の上でドイツ中世からバロックの音楽研究に由来する巧妙で多声的な処理による壮大な効果や荘重さ、旋律を自由に走らせる技巧を持ち、古い音楽を綿密に研究した成果の上に当時の近代性を持って管弦楽に対する技巧は十分に成熟されたものとなった。ブラームスの創作にはこれらの要素が密接に関係しており、その成果の一つとして、多くの試みをへて、1873年音楽史上不滅の作品「ハイドンの主題による変奏曲」が誕生したのである。変奏曲とフーガは、ブラームスにとってまさにぴったりの形式であり自由自在であった。主題と9つの変奏、さらに終曲はそれだけで19の変奏をなしており、低音で登場するテーマを用いて一連の変奏曲をなすパッサカリアとしてクライマックスを構成している。そして交響曲第4番の終楽章にも、このようなクライマックスを強調する手法として古い形式であるシャコンヌやパッサカリアを借りて、新しい内容を盛り込んだことが顕著な特徴である。
 交響曲第4番の終楽章は、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番」の終曲「シャコンヌ」、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」第4楽章をモデルにしていると思われるが、その主題(譜例1)に関して、特にバッハのカンタータ1 5 0 番 「 主よ 、 われ汝を求む ( N a c h d i r , H e r r , verlanget mich)」BWV150のシャコンヌによる終曲の合唱主題(譜例2)、及びバッハのロ短調ミサ第17曲「クルチフィクス(Crucifixus)」ホ短調の通奏低音にある、深い悲しみを簡潔に表わしている半音階的に下行する4度音程の伝統的な「ラメント・バス」(譜例3)が、多いに影響していると思われる。


・リベラリスト:ブラームス
 若い時のブラームスは、金髪で青い目のなかなかの美男子だったというが、壮年時代からでっぷりと太り、その風貌は(資料を見ると40代後半に突然生やしたと思われる)立派な髭が目立つ堂々たる顔立ちにて、むっつりと無口で気難しく偏屈で頑固な親父という印象がある。(本人はこの顔立ちがお気に入りのようで、自身の髭写真がコーカサス系白色人種の実例図版として当時の教科書に載っていることを知人に話している。)若い時は頑固で反抗的だったそうだが、作品がしかるべき形で評価されるにつれて、人当たりもよく円熟し丸くなっていったようだ。回想録を読むと、友人たちとの会話で自分にかかわることを全てストレートに語りつくしており、相手によっては無愛想で皮肉屋で且つ慇懃なところは、品性が下劣ということではなく、学問を探求するインテリで、浮世の中でその場を取り繕ってなんとなく辻褄を合わせることができない正直な人だったと思われる。友人たちも当時のエリートとしての知識人が多く、パーティにて友人たちと談笑し、冗談を言い合ったりして当意即妙な会話は、他人が入ることのできない領域だった。
 彼の言動から見えてくるのは、古典主義の遺産相続者として保守派のブラームス、革新を旗印にするヴァーグナー、という単純な図式とは異なるものといえる。当時のヴィーン楽壇における絶対音楽の純粋な形式美を理想とするブラームス派と、流行であった標題音楽や楽劇の思想を標榜するヴァーグナー派との抗争に巻き込まれていたとはいえ、性格が合わないという個人的な感情はさておいても、作品そのものを厳格に評価していることは、作曲の様式や技法という観点だけでなく、音楽に対する考え方、作曲への根拠や社会とのかかわりといった面で、20世紀音楽への橋渡しとして意味のあることを感じている。ヴァーグナーにしても、ブラームスにしても、音楽を創作する時の姿勢は異なるにせよ、究極的には同じものを追及しているのであり、表現の仕方が違っていたのであろう。
 興味深いのは、ヴァーグナーの「ニュルンベルグのマイスタージンガー」と、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」は1868年に初演されており、どちらも二人の名声を不滅のものにした作品で、かつ「ドイツ」という共通した土壌にある。二人とも1860年代は「ドイツらしさ」という言葉の意味に多大な関心を寄せており、ヴァーグナーは民族主義の観点からハンス・ザックスの言葉を象徴として「神聖なるドイツ芸術」を称え、宗教改革以来のプロテスタントのコラールを使用し且つ精緻な対位法にて音楽を構築。ブラームスは宗教改革でマルティン・ルターが訳したドイツ語聖書をドイツ語で書かれた最も重要な書物として、独自でテキストを慎重に選んで宗教性を外し、バロック的な対位法を用いて、確個たる驚異的なコラールとフーガを創造し、音楽家として現代を活きるドイツを表現した。「ニュルンベルグのマイスタージンガー」には反ユダヤ主義的な意図が解釈として見え隠れしており、後世政治的にも利用されているが、ブラームスの音楽にはそのような要素がなく、合理的な精神が見えてくる。  ブラームスは、宗教と政治の合理主義と共にリベラルな立場として社会と政治に関わり、当時の最先端の科学や技術に対して興味を持ち高く評価していた。音楽的には妥協を許さずに発展させる能力は近代的であり発明家ともいえる。ブラームスはリベラルな芸術家という側面があるがゆえ、その作品は、魅力と共に未来への音楽芸術に対する指針として永久に存在していくことであろう。


参考文献
『ヨハネス・ブラームスの思い出』ブラームス回想録集第1巻 ディートリヒ、ヘンシェル、クララ・シューマンの弟子たち著/ 天崎浩二編・訳/関根裕子訳(音楽之友社)
『ブラームスは語る』ブラームス回想録集第2巻 ホイベルガー、フェリンガー著/天崎浩二編・訳/関根 裕子訳(音楽之友社)
『ブラームスと私』ブラームス回想録集第3巻 シューマン、ヴィトマン、ゴルトマルク、スタンフォード、 スマイス、イェンナー著/天崎浩二編・訳/関根裕子訳 (音楽之友社)


初  演:1885年10月25日 ヨハネス・ブラームス指揮 マイニンゲン宮廷管弦楽団、マイニンゲン公宮廷劇場
楽器編成:ピッコロ(2番フルート持ち替え)、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、トライアングル、弦5部


あとがきに添えて: 〈テューバとブラームス その低音の魅力〉


 古典的な音楽様式を貫いたブラームスの管弦楽の作品では、ある時期に、1835年にベルリンで生まれた新しい楽器テューバの使用が集中している。このことは1875年当時のヴィーンフィルハーモニーにベルリンからテューバ奏者(若干16歳!)が招聘され、F管のコンサートチューバが採用されていることに関連している。具体的には1877年に交響曲第2番、1880年「大学祝典序曲」「悲劇的序曲」で意識的に使用され、出番は少ないが古典的な形式感や伝統に則った音楽の中で、その独特の音色が生み出す深い響きにより、表現力に富んだこの楽器の魅力を充分に活かしており、所謂オーケストラのチューバをたっぷりと堪能できるのだ。因みに同時期ヴィーンに 定住していたブルックナーは、1875年からとりかか っていた交響曲第5番にバス・テューバとしてパートを追加、また1880年に交響曲第4番の改定の際にも追加して、それ以降の作品にテューバを積極的に多用している。
 現代の楽器とは異なり小さくコンパクトな響きをしていた当時のテューバは、金管楽器が加速度的に進化していった過渡期という状況の中、ブラームスにとって特異な存在であった。テューバといえば低音パートを補足的に補強するというイメージがあり、ブラームスも1868年「ドイツ・レクイエム」はそのような使用が見受けられるし、1873年「ハイドンの主題による変奏曲」の草稿には、コントラファゴットがいない場合はテューバで代用との記載があり、出版に際しては削除されている。同時代の作曲家、たとえばヴァーグナー、チャイコフスキーではテューバが大いに活躍、後に続くマーラー、リヒアルト・シュトラウスといった後期ロマン派の作曲家も多用して確固たる地位をテューバが確立していく中、ブラームスは意識的にテューバという楽器を、脇役としてではなく無駄のない近代性を持って実験し、自身の持つ音楽様式と信念に基づき、学究的に選択していったに違いない。
 ブラームスは、管楽器の最低音として長年コントラファゴットを多用し、時にはホルン、ファゴット、トロンボーンと共に独特なコラールにて古典的な響きと色彩に絶大なる効果を発揮している。奥行の深い響きを構築している要素として、最低音域のオーケストレーションに注目していただきたい。演奏者にとって難易度が高く、与えられた役割が重要なだけに脇役としてではない、実にやりがいのある存在といえよう。そして最低音域だけでなくオーケストラの全てのパートが脇役とならずに効果的に構築され、ここぞという要所にて真価を発揮しているのは、ブラームスの管弦楽の技巧の素晴らしさにあると思う。
 本年(2010年)、交響曲第4番を作曲した当時のブラームスと同い年になった筆者にとって、ブラームスの作品には、強い想いと憧れが存在している。たとえテューバというパートがなくても、新交響楽団で最低音域を担当するテューバ奏者として、皆と音楽を共感しその響きの中に浸っている自分が存在している。ここでしか味わえない音楽体験!なんて素晴らしいことだろうか!


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