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ハイドン:交響曲第101番「時計」

松下俊行(フルート)

■交響曲(シンフォニー)の成立~ハイドンまでの道
 バッハ(Johann Sebastian Bach 1685~1750)の厖大な作品目録の中で、『シンフォニア』と題された管弦楽作品が1曲だけある(BWV1046a 注1)。これは何らかの祝祭の機会に書かれたものと言われて いるが、確かにその冒頭からあふれ出る華美・盛大な気分はそうした推定を容易にさせるものを持って いる。バロック時代において『シンフォニア』とはそうした祝典のための音楽だった。
 一方でオペラの序曲として演奏される『オペラ・シンフォニア』というものがあった。スカルラッティ(Alessandro Scarlatti 1660~1725)はナポリにおいて、急-緩-急の3部構成的な序曲を既に1680年代から作品に用いていた。これが短期間のうちにオペラから独立し、ひとつの器楽作品のジャンルへと変貌してゆく。「交響曲(シンフォニー)」へ脱皮の第一歩である。

 西洋音楽の基礎を確立したバッハの作品には交響曲はない。が、音楽史上で彼に連なるハイドン(Franz Joseph Haydn 1732~1809)には100曲以上の交響曲作品があり、「交響曲の父」と呼ばれる。ハイドンの生年時バッハは47歳。故にこの間に「忘れられた」作曲家たちによる絶えまない交響曲創造への堆積があったと考えるべきであり、事実それはあった。
 例えばバッハの息子たち…次男であるC.P.E.バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach 1714~1788)は3 楽章形式のシンフォニアとそこにメヌエットを加えた4楽章構成の交響曲を合せて20曲以上書いた。ロ ンドンで評価を得た末子のJ.C.バッハ(Johann Christian Bach 1735~1782)もシンフォニアを約60曲残している。モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756~1792)は8歳の折にロンドンで彼に会い、その影響から3楽章構成の最初の交響曲(注2)を書くに至る。
 秀逸なオーケストラを擁したマンハイムを拠点としたシュターミッツ(Carl Philipp Stamitz 1745~1801)の手になる作品(シンフォニアだけで51曲ある)も忘れるべきではない。ここでは詳細を述べる紙数は無いが、彼らによってソナタ形式をはじめとした独立した性格を有する4楽章形式の交響曲はひとつの定型を得るに至る。
 同世代若しくは半世代前の数多あまたの作曲家たちによって、急速に形成されつつあった交響曲の土壌。その上にハイドンという種子が落ち、この分野における収穫の時期を迎えた。我々がこんにち目にしているのはあくまでその結果である。

■宮仕えの日々と多作
 ハイドンは1761年29歳の折から約30年間に亘り、ハンガリーのエステルハージ(Eszterházy)侯爵家 に仕えた。彼の100曲以上(その全容は掴み切れない)交響曲の殆どはこの間に、自ら楽長を務める宮 廷楽団の為に、更には特定の演奏機会の為に作曲されている。それは定められた日常業務であり、大バッハが教会の楽長の職務としてその儀式典礼の為に絶えず新作を創造していた姿と変わらない。ハイドンはそうした作曲家の最後の世代だった。
 例えばある朝、いつものように控えの間にいる作曲家は、主人から今日は交響曲を5曲作曲せよ(!) と命令される。一晩で城を築けという信長のような君主だが、こうした場合の事を彼は述懐している。

 私は座席にすわり、その時の気分が悲しいか、愉しいか、厳粛かふざけっぽいかにしたがって、楽想を作り始める。ひとつのアイディアが私をとらえたならすぐ、私は全心の努力をもって、芸術の法則にしたがって、楽曲を完成させることにつとめる。(注3)

 主人にしてみれば、こうした無理難題への解決能力のある音楽家を手元に置いている事はひとつのス テータスとなる(他人の能力を量る上での尺度は、いつの時代も質よりまず量だ)。その「業務命令」の内容とハイドンの対応を考えれば、多作は当然の帰結である。そしてその量以上に重要なのは、仕事の繰返しの中で絶えず創意を重ね、交響曲の洗練されたスタイルを確立した事である。
 初期の作品にはシンフォニアの残照とでもいうべき3楽章構成の作品がいくつもあるが、それも一定 の様式に固着せず、様々なスタイルが試みられている。その様な試行錯誤の繰返しの結果として4楽章 に構成が固まり、且つこの4つの楽章にそれぞれ異なった性格を初めて与えるに至る…従来の交響曲で はシンフォニアの時代同様、楽章ごとの個性は重視されてはいなかった…ハイドン以後の交響曲では余 りに当然の要素になってしまったが故に、なかなか彼の創意に気づかずにいるが、これは重要な進化だ った。
 現代の我々がこの作曲家の交響曲を見渡した時、ある作品を境にした特筆すべき飛躍を見出すのは難しい。だが我々が得てして見落としてしまいがちな何らかの特徴が、独創が、工夫が各曲に必ずある。多作の中で培われる進歩とは本来そうしたものだ。むしろ多作を強いられる条件を、ハイドンは我がものとして活用していたと考えるべきなのだろう。

■転身者としての成功
 1790年にハイドンはそれまでの宮廷音楽家の地位を離れウィーンに移る。間をおかずロンドンのオー ケストラを主宰するヴァイオリン奏者ザロモン(Johann Peter Salomon 1742~1815)によって渡英の機会を得る。それ以前から既に一部の作品群は出版され、名声は高まりつつあったのだ。
 大作曲家の輩出という点ではやや見劣り感のあるイギリスだが18世紀末のこの時期、市民層の形成により、音楽作品は宮廷の奥で一部の人々が享受するものでは既になくなっていた。首都ロンドンは大規模かつ高質なオーケストラを擁した、新作音楽の一大消費地とでも評すべき都市に変貌を遂げている。限られた人々を対象に作品を書き続けていたハイドンにとって、かの地のオーケストラを前提に、不特 定多数の聴衆の為に意識して作品を発表する「興行」は、自由人としての恩恵を物心両面で充分にもたらした。つまりハイドンは市民社会での作曲家への転身にこの時成功したのである。その失敗によって貧困の中で死んだモーツァルトの轍を踏まない幸運を彼は得たという事だ。
 この充実の中で合計12曲の交響曲が新作された。現在交響曲第93番から第104番に数えられる作品群である。『時計』(注4)はその2度目の渡英の折に作曲されているが、12曲中でも最も充実した内容を誇る。この時既に60歳を過ぎていた作曲者。その闊達な表現と構成の緻密さに彼の得意をみる思いがする。
 この作品の楽章ごとの細かい解説は敢えて避けよう。28分ほどの間に繰広げられる洗練された技法と その均整美、そして4楽章それぞれの性格の差異と、それを超えた全体の調和に対し、虚心に耳を傾けて戴きたい。

 思えばハイドンの交響曲は程よく抑制のきいた「良き趣味」が、人々の支持を得ていた最後の時代の産物というべきかも知れない。彼の完成させた交響曲というジャンルはベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770~1827)に引継がれると、人間感情のより強い発露の手段へと変質を余儀なくされる。『時計』が初演された1794年の時点で、このあまりに人間的な後継者はまだ1曲も交響曲を書いていないが『第九』の初演は、それからきっかり30年後である事にもっと注意が払われても良い。社会構造の変化が、人々の音楽に対する欲求を激変させ、交響曲の変貌に深く反映しているように思えてくる。

■雑感二題
その1)
『時計』というと、この緩徐楽章がテーマ音楽だった『百万人の英語』というラジオ番組を想い出す(前回定期の『大学祝典序曲』と併せてひとつの時代風景だ...と言っても判る人にしか判らない話)。「鯨が魚でないのは馬が魚でないのと同じである(A whale is no more a fish than a horse is.)」 などという不可思議な例文を無邪気に暗記していたあの頃…。それから30年の時間が過ぎたが、この構 文の出番は一度もなく、外国語はどれも身につかなかった。

その2) 新響がハイドンの交響曲を取上げるのは1987年9月の第117回定期の第88番(V字)以来、実に四半世紀ぶり。調べてみるとその前は1970年の『時計』と1965年の第94番『驚愕』のみ。つまり新響55年の歴史の中でこの作曲家の交響曲は今回を含めて4回(3曲)しか演奏されていない。新響演奏のハイドンを今日ここで体験できた事は、聴き手・演奏者の如何を問わず、子々孫々にまで自慢すべき事であるに違いない。

注1)有名な3声のインヴェンションは、2声のそれと区別して「シンフォニア」と呼ばれるが、ここでは管弦楽の為の作品に限定している。またこの作品は有名な『ブランデンブルグ協奏曲』第1番に転用(作品番号も同一)されているので、それを聴けば『シンフォニア』の性格を類推する事ができる。

注2)「交響曲」と「シンフォニア」とを区分する定義は非常に曖昧なまま放置されているのが実情のようだ。日本ではハイドン以降の作品に対しては、初期段階の作品で3楽章形式を採っていても「交響曲」としている。本稿でも仕方なくこの実情を前提に論を進めている。解りにくい部分があるとすればそれは筆者の思考の整理に帰するものである。

注3)この君臣間のやり取りに関しては『ウィーン音楽文化史(渡辺護著)』による孫引き。但し、出典が明示されていないためどこから引用されたものなのかは現時点では判らない。

注4)『時計』は作曲者自身による命名ではないが、初演後間もない1798年時点でこの交響曲の愛称として用いられていた事が判っている。こうした事象もまた市民層への音楽の浸透を表すものと捉えられよう。

初  演:1794年3月3日 ロンドンにて作曲者自身の指揮による
楽器編成:フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、トランペット2、ホルン2、ティンパニ、弦5部

主な参考文献
『名曲解説全集』交響曲1 音楽之友社
『音楽史の点と線』岩井宏之 音楽之友社
『バッハの息子たち』久保田慶一 音楽之友社
『西洋音楽史』下 D.J.グラウト 音楽之友社
『音楽大事典』平凡社
『ウィーン音楽文化史』上 渡辺 護 音楽之友社
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