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シェーンベルク:5つの管弦楽曲作品16 (1949年改訂版)

山口裕之(ホルン)

■表現主義としての無調音楽
 シェーンベルクは、長調・短調といった調性を決定的に解体した作曲家として知られている。5つの管弦楽曲作品16が作曲された1909年(またその前年の1908年)は、シェーンベルクが爛熟した後期ロマン主義的様式から、「不協和音の解放」による「無調性」へと最初の一歩を踏み出す決定的な転換点となる年だった。ちなみにシェーンベルクはいわゆる「十二音技法」の創始者としても知られているが、この1908/1909年に始まった「無調音楽」には、十二音技法の音楽(1923年に始まる)に見られるような体系性や構築的理論はまったくない。無調音楽 を支えているのは、彼が「内的強制」と呼ぶような、芸術家の内奥から生じる表現意欲だけである
 シェーンベルクは1911年に出版した著書『和声学』のなかで、次のように述べている。「芸術家の創造は衝動的なものである。意識はそれに対してほとんど影響を与えない。芸術家は、自分が何をするか指図されているかのような感覚をもつのである。」あるいは、彼が1911年に友人の画家カンディンスキーに宛てた手紙では次のように書かれている。「伝統的な効果を目指す作品構成はすべて、意識の行為から完全に解き放たれていません。しかし芸術はまさに無意識に属するものです。ここでは自己を表現することが求められます。自己を直接的に表現するのです!」自己を直接的に表現しようとするとき、伝統的な表現形式は足枷となる。そのため、多くの場合、 伝統的表現形式は破壊され、荒々しく粗暴とも見える表現、あるいは伝統的感覚を逆なでするような表現がとられることになる。シェーンベルクにとって「調性」とはそのような足枷の一つであり、彼の目指す表現のために「不協和音の解放」が行われなければならなかった。
 こういった芸術の方向性は、この時代のカンディンスキーの創作もそのようにとらえられているように、一般的に「表現主義」という芸術様式として理解されている。表現主義においては、十二音技法に見られるきわめて理知的な構成原理にもとづいた表現とは対照的に、人間の生身の衝動、直接的感情、無意識がいわば剥き出しのまま表現される(ちなみに、この表現主義の時代にシェーンベルクは数多くの絵画を描いているが、それも直接的な自己表現の要求から生じたものと考えられる)。その意味で表現主義は、ロマン主義が一つの極点まで達したものといえるかもしれない。ただし、その「表現」がもたらそうとするものは、ロマン主義の「美」の対極にある。

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シェーンベルク「自画像」(1910年頃)

 シェーンベルクの表現主義時代の作品のうち、とくに重要なものとしては、「シュテファン・ゲオルゲの“架空庭園の書”による十五の詩」作品15、モノドラマ「期待」作品17、そして「ピエロ・リュネール」作品21をあげることができるだろう。「5つの管弦楽曲」は、ゲオルゲ歌曲集(作品15)で踏み出した無調性の試みを、最初に管弦楽によって推し進めた重要な作品である。

■「世紀末ウィーン」のなかでの無調音楽
 機能和声にもとづく調性の解体は、音楽史における必然的な過程として語られる。しかし、シェーンベルクにとってこのことは、「世紀末ウィーン」という、彼が生きていた特定の時代環境のなかで生じた現象でもあった。一般に「世紀末ウィーン」という言葉は、ウィーンで伝統的・歴史主義的芸術に対する反抗が生まれた1890年頃から、第一次世界大戦が始まる1914年までの時代、あるいはその時代のウィーンの文化現象・社会現象を指す。この時代の革新主義者たちのうち、一方では「接吻」などで知られる画家クリムトや有名な分離派館を設計したオル ブリヒ、あるいはグスタフ・マーラーなど、伝統的な美術・建築・音楽から革新的な一歩を踏み出しながらも、きらびやかな装飾性や官能性によって、保守的なウィーンの貴族や大市民層からもある程度の成功をおさめていた。しかし他方で、批評家カール・クラウス、建築家アドルフ・ロースを筆頭とする過激な革新主義者たちは、ウィーン特有の装飾性を容赦なく攻撃していた。シェーンベルク(そしてまた弟子のベルク、ウェーベルン)は、完全にこのクラウス=ロースの陣営に属している。彼らにとって「装飾」とは、真の姿を隠蔽するものに他ならな い。シェーンベルクは著書『和声学』の序文のなかで、ウィーンに特有の「快適さ」を求める性向、不快さを避けるために「うわべ」で生きる人々に激しい批判を向けているが、それは「装飾」をはぎ取り、真の姿を剥き出しにすることと重なり合う。シェーンベルクにとって、無調性への道は装飾批判と同じ方向にある。(ただし、シェーンベルクはマーラーに対してつねに変わらぬ敬意を抱いていた。)彼の無調音楽が聴衆の不快をかき立てるとすれば、それは単に和声という純粋に音楽上の理由によるだけではなく、人間の内面が剥き出しに表現されていることによって生じる不安のためでもあるだろう。ウィーンの表現主義には、ドイツの他の都市で展開した表現主義とは異なり、ほとんど神経症的ともいえる極度の内面的緊張がみられるが、シェーンベルクの無調音楽にもそういった特質を明確に見て取ることができる。

■「5つの管弦楽曲」の標題性?
 今述べたことは、例えば、物語的な状況設定をもつモノドラマ「期待」(一人の女が暗い森の中をさまよい、おそらくは自分が殺した恋人の死体に行き当たる)などにはもっともよく当てはまる。しかし、「3つのピアノ曲」作品11(1909年)、この「5つの管弦楽曲」作品16(1909年)、あるいは「6つのピアノ曲」作品19(1911年)といった抽象的形式をもつ作品についても、無意識の領域における自己の直接的表現という点では基本的に同じことがいえるだろう。
 このことは「5つの管弦楽曲」につけられた各曲の標題からも見て取ることができるかもしれない。この作品に標題をつけることは、もともとシェーンベルクの意図していたことではなく、単に出版社の要請によるものだった。シェーンベルクは日記のなかでこの作品の標題の問題に言及しつつ、次のように書いている。「音楽が素晴らしいのは、すべてを言うことができ、知っている者はすべてを理解できるということにある。だからといって、自分自身にさえ告白しない秘密を外に漏らしたことにはならない。しかし、標題はそれを漏らしてしまう。」それでも、この作品に標題をつけることに同意したのは、「それらがきわめて曖昧であり、曲によっては技術的なことをいっているだけなので、秘密を漏らすことにはならない」からとされる。1912年にこの作品が最初にペータース社から出版された際には、標題は表示されていなかったようだが、その後、Ⅰ.「予感」、Ⅱ.「過ぎ去ったもの」、Ⅲ.「和声の 色調」、Ⅳ.「急転」、Ⅴ.「オブリガートの叙唱レチタティーヴォ」、という標題が各曲に掲げられることになる。今回演奏される1949年版では、3曲目の標題が「ある湖の夏の朝(色彩Farben)」と大きく変更されているが、これについては後でふれたい。
 これらの標題は、確かにシェーンベルクが言うように曖昧なものであり、特定の具体的状況を表すものではない。しかし、全体として見たとき、その構成は一つの物語的展開を指し示しているようにも思われる。つまり、不安に駆られた「予感」に始まり、「過ぎ去ったもの」の抒情的ともいえる回想、そして1949年版の標題では例外的にある特定の状況を示す「ある湖の夏の朝」(これも一つの回想とみることができるだろう)。第4曲では「急転」によって物語は大きな転換を迎える。これは「予感」の成就でもある。ちなみに、「急転(Peripetie)」とはもともとアリストテレスが『詩学』のなかで用いた概念で、ギリシア悲劇において主人公がある事実を認識することにより、悲劇的運命へと向かう転換点を意味する(オイディプスが、父親を殺し母親と結婚していたことを悟る瞬間がその典型的な例である)。第5曲目の標題に対して、そのような物語の内容に関わる解釈を求めることは無理だが、しかし「叙唱レチタティーヴォ」という語りの様態に関わるものではある。
 第3曲は、シェーンベルクが『和声学』のなかで言及している「音色旋律」を実際に試みた作品として、音楽史のなかで重要な位置を占めているが、ここでは「ある湖の夏の朝」という1949年版での標題についてふれたい。「和声の色調(Akkordfärbungen)」という最初の標題(あるいは1922年版の標題「色彩(Farben)」)は、日記のなかでシェーンベルク自身が述べているように「技術的」なものにしか関わらないが、「ある湖の夏の朝」は場合によっては作曲者のきわめて個人的な体験を漏らすものであるかもしれない。少しばかり伝記的なことがらに入り込ん でゆこう。シェーンベルクの絵画の創作に大きな影響を与え、彼に絵の指導も行っていた年若い芸術家リヒャルト・ゲルストルが、シェーンベルクの妻マティルデと関係をもっていたことが1908年に露呈、マティルデはウェーベルンの仲介もあってシェーンベルクのもとに戻るが、ゲルストルはその年のうちに自殺する。予感していた事実にシェーンベルク自身遭遇した場所が、彼が身内や親しい友人と夏の休暇を過ごしていたトラウン湖(オーストリア)のほとりにある町だった。pppの和音が2拍ごとに楽器編成が交代するかたちで演奏されるとともに、次第 に楽器編成や和音が移り変わってゆくことによって音の色彩の繊細な変化を表現するこの曲は、確かに湖の静かな水面の波紋のように聞こえる。そして、ときおり魚の飛び跳ねる音も描かれる(クラリネットなどの素早い上昇音形)。何人かのシェーンベルク研究者は、この「ある湖」はトラウン湖だろうと推測している。
 第3曲「ある湖の夏の朝(色彩)」と第4曲「急転」は、音楽の構成上、明確なコントラストをなしており、そこにはある劇的な展開が感じとられる。しかし、このことから、シェーンベルクに深い衝撃を与えた事件を、その翌年に作曲された「5つの管弦楽曲」のうちに単純に読み取ろうとするならば、それは下世話なゴシップ的関心でしかないかもしれない。しかし、この衝撃的な事件の精神的余波をも含んだシェーンベルクの内面が描かれているということは間違いないだろう。

 最後に、今回演奏する1949年版について。1912年のオリジナル版では、管楽器がかなり大きな編成でコントラバスクラリネットなどの特殊楽器も用いられていた。1949年版は基本的に2管編成となり、演奏会のプログラムにのせやすい編成にまとめられている。

参考文献
Eberhard Freitag, Schönberg. rororo, 1973.
Gerold W. Gruber(Hrsg.), Arnold Schönberg.
Interpretationen seiner Werke. Laaber-Verlag, 2002.
Matthias Henke, Arnold Schönberg. dtv, 2001.
Hartmut Krones, Arnold Schönberg. Werk und Leben. Steinbauer, 2005.
Willi Reich, Arnold Schönberg oder der konservative Revolutionär. Fritz Molden, 1968.
Arnold Schönberg, Harmonielehre. Universal Edition, 2005(1911)

初  演:1912年9月3日(オーケストラによる全曲演奏として)
      サー・ヘンリー・ウッドの指揮ロンドンのクイーンズ・ホールにて

楽器編成:ピッコロ2(第2奏者はフルート3持ち替え)、フルート2、オーボエ2、コールアングレ、小クラリネット、 クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、シロフォン、タムタム、シンバル、大太鼓、トライアングル、ハープ、チェレスタ、弦5部
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