ボロディン:交響曲第2番
【序奏】
ボロディンという作曲家は、クラシックを好きな人にとってもさほど馴染みはないのではないかと思うが、私個人にとっては、誕生日(11月12日)が同じということから始まって、色々と身近に感じて来た作曲家の一人である。私が初めて経験したオーケストラの演奏は、中学校のオーケストラ部だったが、その時の曲目の中に、彼の交響詩「中央アジアの草原にて」があった。ちょうど授業で国民楽派とかロシア五人組などを習った頃でもあり、それまで知っていたクラシックの名曲とは雰囲気が大きくかけ離れていて深い印象を持った。またその頃、NHKの深夜ラジオ番組のテーマ音楽に有名なノクターン(弦楽四重奏曲第2番第3楽章)が使われており、父がかけっぱなしにしていたラジオから流れて来る甘美なメロディーと癖のある和音進行によく耳を傾けたものだった。その後数え切れないほど彼の曲を演奏したが、彼の生涯を思い起こす度に、よくこれだけの宝を残してくれたと、心から尊敬せずにはいられない。
【主題提示部】
1833年、サンクトペテルブルグでアレクサンドル・ポルフィリエヴィチ・ボロディンは大貴族の私生児として生まれた。当時の習慣に従い、父のもとで働く農奴の嫡出子として届け出がなされ、母親や実父、義父に大切にされて育ち、化学と音楽の両方の才能を存分に伸ばし、17歳でペテルブルク医科大学に入学した。ヨーロッパ留学から帰った1862年から1887年までの25年間、この大学で化学者、医者として勤務した。彼の留学先はドイツのハイデルベルク大学で、ここではブンセン、キルヒホッフ、ヘルムホルツといったそうそうたる学者たちに学び、また同期の留学生にはメンデレエフが在籍しており、ボロディンが化学の分野でも世界第一線で活躍した人物であることが分かる。化学者としての業績で代表的なものは、ボロディン反応(ハンスディッカー反応)の発見である。この反応はハロゲン化アルキルの合成法であると同時に、ラジカル反応の例として現代の有機化学の教科書にも出てくる。また、求核付加反応の一つであるアルドール反応を発見した。
ボロディンは、この留学中に優れたピアニストであるエカテリーナ・プロトポポーヴァと出会い、彼女を通じてシューマン、リスト、ワーグナーの音楽を知る。そして彼女は生涯の伴侶となった。
ロシアに戻って間もなくバラキレフと出会い、彼のグループ『力強い仲間』(日本ではロシア五人組と呼ばれている)に加わる。バラキレフの影響と指導の下、彼は交響曲第1番を書き始め、約5年をかけて完成した。1869年から交響曲第2番を書き始めるのであるが、この年彼はオペラの作曲に意欲を持ち、「イーゴリ公」に取りかかり始める。「イーゴリ公」はこの後度々作曲を中断し、結局20年近くかけて半分しか完成しなかったが、文字通り彼のライフワークとなる。中断中に「イーゴリ公」のための音楽の多くが交響曲第2番に転用され、「イーゴリ公」に盛られている東洋的な情緒、勇壮で英雄的な楽想は交響曲第2番にも同様に流れている。
1872年、ボロディンはロシア初の女子のための医学課程開設の責任者となり、1875年には化学科の主任教授となる。プライベートでも妻の転地療養に付き添い、また養女を迎えるなど一段と多忙になり落ち着く暇もなかった。その忙しい仕事の合間を縫って、1曲1曲を極めて長い期間をかけて作曲し続けた彼は自分のことを日曜日の作曲家と語っていたが、実際には夏休みの作曲家と呼ぶのがふさわしいくらいだった。そんな彼を励まし続けたバラキレフグループの仲間たちの存在や、当時の音楽界の巨匠リストがボロディンの音楽を絶賛し自ら指揮をして演奏したことが、かろうじて彼を音楽の世界に繋ぎ止めていた。毎週末の夜はリムスキー=コルサコフと楽器の研究を続け、楽器の知識や管弦楽法を身に着けていった。そんな時、たまたま足に火傷を負いひと月大学を休む羽目になったため、交響曲第2番を無事に完成することが出来た。
1887年の2月、大学主催の舞踏会の席で彼は突然倒れ、そのまま息を引き取った。心臓発作であった。医者である彼は死期を悟り、それを誰にも語らず秘かに身辺の整理をしていたという。
【展開部】
ボロディンはいわゆるアマチュアだったわけだが、思わぬところでそれを認識させられたことがあった。学生時代作曲の師匠からドミナントをひと通り教わり、次に各種サブドミナントを習い始めると、準固有和音やらドッペルドミナントなど様々な表情を持った綺羅星のごとき和音を沢山知ることが出来た。そして、喜び勇んでそれらを駆使したソプラノ課題などを作って持っていき、師匠からお叱りを受けるということが度々あった。師匠…つまり作曲のプロ…の言葉を要約すると以下のようになる。
和声進行の基本はトニックとドミナント。極時々、ちょっとした色の変化を付けるためにサブドミナントを混ぜる。サブドミナントを多様するのはいかにもアマチュア。それらは砂糖を入れ過ぎた珈琲のようなもの。甘ったるくてすぐに飽きが来る。
ところでそのサブドミナントが連なる和声進行は、まさにボロディンの「ノクターン」や「中央アジアの草原にて」の中で、彼の個性と言っていいほど、度々使われているのである。しかもそれは何と甘く心をくすぐり、うっとりとさせる響きであろうか!なるほど確かに彼はアマチュアだが、間違いなく極上のアマチュアだった。もちろんボロディンはアマチュアという立場に甘んじることなく一人の音楽家として世界に討って出たのだと思うが、もしかしてプロとしての縛りとか、常套手段からは比較的自由であったため、このような個性的な音楽が書けたのかもしれない。
【再現部】
1869年、交響曲第2番は第1番が初演された直後に着手するが、いつものごとく時間を要し、最終的に完成したのは1876年だった。初演は成功とは言えなかったが、リムスキー=コルサコフやリストが行ったその後の演奏は成功し、ボロディンの名声は国際的に広まりつつあった。なおこの曲の出版の準備段階でボロディンが亡くなったため、リムスキー=コルサコフがグラズノフの協力を得て校訂したが、出版の際に校訂者として彼らの名前が入り、ボロディンの楽譜に手を加えたかのような誤解を与えてしまっている。実際にはメトロノーム記号を加えたり、テンポの指定をしたのみでリズム、旋律、和声にはいっさい手を加えていない。
第1楽章は、叙事詩的な雰囲気に石のような強さと簡潔さが加えられている。第2楽章スケルツォでは、巧みな管弦楽法とシンコペーションが見事な成果を上げる一方、トリオは東洋風のもの憂い静けさを醸し出す。第3楽章の緩徐楽章は、自由なロンド形式で詩情豊かなムードに包まれ、そして直接祝祭的な第4楽章フィナーレへとつなげられている。全体を通じて東洋風の素朴で勇壮な主題が、前述の彼独特の和声法である多様なサブドミナントや柔らかいドミナント(Ⅲの和音など)で味付けされ、変拍子の使用によってロシア的な抑揚も付け加えられている。まさに「ロシアの誇り」とでも呼びたいところだ。時間をかけた分この曲への愛情は強く、やりたいことを全部詰め込んだ印象を受ける。自信作だったことだろう。
【コーダ】
ボロディンは妻への手紙の中で、自分のことを「同時に、音楽家であり、公務員であり、化学者、管理者、芸術家、官吏、慈善家、他人の子供の父親、医者、そして病人…であることの難しさ。ついには最後に上げたものとして終わる」と語っている。音楽家としてだけではなく化学者としても超一流で、しかも温厚で優しい人柄から色々厄介なことを自ら引き受け、多忙を極めた生活の中に一生懸命時間を作って作曲を続けたボロディン。しかもそれらはごく少ない曲数であるが当時も多くの名声を集め、そして後世にも残って皆から愛され、こうして演奏され続けている。同じアマチュアとして音楽に取り組んでいる我々にとって、大いなる目標であり、また駄目な自分を叱咤激励する存在であり、文字通り「アマチュアの鑑」である。
初演:1877年3月10日、エドゥアルド・ナープラヴニーク指揮、サンクト・ペテルブルクにて
楽器編成:ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、トライアングル、タンブリン、シンバル、大太鼓、ハープ、弦五部
参考文献
『ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ~嵐の時代をのりこえた「力強い仲間」』
ひのまどか著(ニューグローブ音楽事典)