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マーラー:大地の歌

山口裕之(ホルン)

 「大地の歌」は、マーラーの創作の過程のなかでは、1906年の夏に作曲された交響曲第8番「千人の交響曲」と1909年から1910年にかけて作曲された交響曲第9番のあいだに生み出された作品である。
 独唱つきの6つの楽章からなるこの「大地の歌」が作曲されたのは、マーラーにとって大きな転機の時期だった。マーラーがこの作品の作曲に取り組む前年、1907年の夏に彼は娘を病気で失い、また1897年以来10年間音楽監督を務めたウィーン宮廷歌劇場を事実上辞職させられている。すぐにニューヨークのメトロポリタン歌劇場での仕事が決まったために、マーラーは1907年の冬以降、妻とともにアメリカで過ごすことになる。マーラーが「大地の歌」の作曲に取り組んだのは、1908年の夏、休暇のためにヨーロッパに戻り、アルプスの自然に囲まれたトープラッハ(現イタリア・ドッビアーコ)で家族とともに過ごしていたときだった。
 「大地の歌」で用いられている詩のテクストは、1907年に出版されたハンス・ベートゲ編訳による『中国の笛』からとられている。マーラーが「大地の歌」のためにこの詩集から選び出した詩は、李白、孟浩然、王維などの詩の翻訳なのだが、それらは原作の中国語から直接訳したものではなく、他の詩人によるドイツ語の翻訳詩(さらにそれもフランス語の翻訳詩に由来する)を参考として作られたものだった。そのため、場合によってはもとの詩を特定することが難しくなるほど原作から離れている。マーラーはそういった経緯については何も知ることなく、単純にベートゲによる翻案(Nachdichtung)のうちに描き出されたオリエンタルな世界観に惹きつけられたのだろう。
 「大地の歌」は、テノールとアルト(あるいはバリトン)が6つの楽章を交互に歌うという連作歌曲の形式を持つと同時に、その副題に示されているように「一つの交響曲」でもある。連作歌曲としての性格は、なによりも「大地の歌」という作品全体の標題に収束していくようなそれぞれの詩のテクストの内容によって作り上げられているのに対して、交響曲としての特質は基本的に、管弦楽によって演奏される音楽の形式的な側面により深くかかわっている。しかし、この二つの側面は別々の特質として存在するというよりも、むしろ互いに補完し合っているように思われる。
 「大地の歌」は、詩のテクストに寄り添って作曲された比較的自由な形式をもつ作品とみなされることも多いが、作曲家・音楽評論家の諸井誠は、「大地の歌」を交響曲としてとらえる立場からこの曲の構造分析を行っている。そのような視点で見るとき、ソナタ形式で書かれた第1楽章、緩徐楽章の第2楽章(諸井によればこの楽章もソナタ形式)、そして第3楽章から第5楽章までを一つのまとまりとみなすスケルツォ風の部分、そして最後にシリアスで充実した内容を持つ最終楽章という、伝統的な4楽章構成の交響曲の姿が浮かび上がってくる。
 諸井誠はおもに音楽そのものの分析に焦点を当てているが、こういったとらえ方は詩のテクストのうえでも非常に説得力がある。この作品全体を貫いているのは、悠久の大自然のなかで「この世」(これは「大地」と訳されているErdeと同じ)の人間の生がいかにはかなく虚しいものであるかという感情である。
 第1楽章では、厳格な形式を伴いつつこの中心主題がいわば正面に据えられて歌われる。緩徐楽章としての第2楽章では、秋の寂しく枯れ果てた情景と重ね合わされた「孤独」な情感が歌われ、抒情的な性格がひときわ強い。それに対して、第3部としての第3楽章から第5楽章では、それまでの厭世的で悲観的な性格とは打って変わって、この世の楽しさ美しさ力強さが歌われている。しかし、そのような明るさは見かけのものでしかない。これらの楽章のテクストは他の楽章と比較するとき、情景描写的・物語的であり、深い情感に踏み込むことはない。そして、全曲の半分の長さを占める最終楽章では、その冒頭から「この世」の見かけの楽しさが根底から
否定される。この楽章のテクストは、さびしい夕暮れの山の情景を描く前半の部分(孟浩然の詩による)と、友との別れを描く後半の部分(王維の詩による)からなるが、全体として「この世」に疲れ「別れ」を告げる情感が漂っている。
 このように見るとき、交響曲としての楽章構成をほぼとりながら、それに対応する詩のテクストが配置されることによって、この作品全体の思想が織り込まれているのを見て取ることもできるだろう。
 以下、そういった構成をある程度念頭に置きながら、それぞれの楽章の詩と音楽について簡単にふれたい。


第1楽章 この世の哀れについての酒の歌
 李白「悲歌行」(悲しき歌)による。酒宴の席で酒を飲む前にうたわれる詩でありながら、そこで詠じられているのは「この世(Erde)」のつらさや虚しさである。琴を鳴らし酒を飲むという、この世の楽しみについても確かにふれられているのだが、それはこの世の虚しさを覆い隠すためのものでしかない。むしろ、「天」や「地(Erde)」の大自然は悠久の流れの中にあるのに対して、人間の存在はごくはかないものでしかないことを詠い手は強く感じて
いる。
 そして詩の終盤、突然のように、月明かりに照らされた墓場にうずくまる怪しい猿の姿が描き出される。「猿だ! 聞いてくれ、あのかん高く耳をつんざく啼き声が/生の甘い香りのなかへと響き渡るのを。」この戦慄を覚えさせる情景と不気味な鳴き声は、まさに生の虚無の深淵のイメージに重ね合わされているといえるだろう。音楽もこの箇所が一つの頂点をなしている。


第2楽章 秋に一人寂しきもの
 銭起「效古秋夜長」(古(いにしへ)の〈秋夜長〉に效う(ならう))による。ただし、ベートゲの詩は原詩からかなり離れているところが多い。晩秋の寂寥とした情景が細やかにそして美しく描き出されている。しかし、ここではそのような枯れ果てた情景そのものよりも、むしろそれと重ね合わされた「孤独」な情感が詩の中心にある。そういったなかでも、「親しき憩いの場よ、お前のところに行こう」という箇所、あるいは「愛の太陽よ、おまえはもう二度と輝こうとしないのか、/私の苦い涙をやさしく乾かしてくれるために」という箇所では、マーラーらしい諦念を含んだ憧れの音楽が聞かれる。ここにはマーラーの想いがとりわけ凝縮されているのかもしれない。
 ちなみに標題に関して、日本語に訳してしまうと分からなくなるのだが、ベートゲの詩では「一人寂しきもの」は女性(die Einsame)であるのに対して、マーラーのテクストではわざわざそれが男性(der Einsame)に書き換えられている。おそらくマーラーは自分自身を重ね合わせているのだろう。


第3楽章 青春について
 第3楽章から第5楽章までの三つの楽章に使われている詩と音楽は、ある共通した性格を帯びている。これらはいずれもこの世の楽しみを謳歌するような内容をもち、その他の楽章にみられるような虚しさや寂しさの感情はまったく現れない。そのため、抒情性ではなく、情景の描写や物語的な性格がきわだっている。それもあってか、これらの楽章ではいわゆる「中国的」な旋律がひときわ目立つ。
 第3楽章は、李白の「宴陶家亭子」(陶家(とうけ)の亭子(ていし)に宴す)による。ベートゲの詩では「陶器の園亭」。ここで描かれている「園亭」は「陶器でできている」とされているのだが、これは単に「陶家」の園亭のことであり、ベートゲが参照したドイツ語の訳詞が完全に勘違いしていたために生じた誤解だった。
 それはともかくとして、この詩では、池の中に建てられた園亭で友人たちが酒を酌み交わしながら楽しく談笑し、詩作に興じているさまが描かれている。その様子が池の水面に上下さかさまに映っているのも趣がある。マーラーはそういった情景に対して、「青春について」という標題を新たに与えている。


第4楽章 美について
 李白「採U曲」(Uを採るの曲)による。ベートゲの詩では「岸辺で」。川のほとりで乙女たちが蓮の花を摘んで楽しんでいる。輝く陽の光のなか、ときおり風が彼女たちの衣の裾をなびかせる様子もなまめかしい。そこに突然、馬に乗った若者たちが現れて駆け抜けてゆき、あたりの草や花は踏みしだかれる。馬上の若者たちが去った後、再び乙女たちの情景となるが、そのうちの最も美しい一人が憧れを秘めて男の子を見送る、といった話の流れだ。
 この情景の内容に応じて、音楽もABAという形式をとっている。乙女たちの細やかな様子は、例えば木管やホルンなどのトリルにも表現されている。それに対して中間部では、とりわけ金管や打楽器によって描かれる、馬に乗って駆け抜ける男たちの荒々しい若々しさが特徴的だ。ベートゲの詩では、この部分は各6行の4連の詩のうちの第3連目にあたるが、マーラーはここにかなりの加筆を行って二つの連とし、全部で11行に増やしている。もちろん音楽的にもこの部分は大きな盛り上がりを見せる。このあと再び乙女の情景となり静かに終わる。


第5楽章 春に酔えるもの
 李白「春日酔起言志」(春の日に酔いより起きて志を言う)による。酔ってこの世の憂さから一切解き放たれたかのように歌う。八分音符で刻まれる音形は、この男のふらついた足取りだろうか。はじめのうちは春に歌う小鳥の声に耳を澄ませているが、そのうちそのような趣さえどうでもよくなり、投げやりな楽天的明るさで終わる。


第6楽章 告別
孟浩然「宿業師山房待丁大不至」(業師(ごうし)の山房(さんぼう)に宿(やど)し、丁大(ていだい)を待てども至らず=業僧の山寺に泊まって丁家の長兄を待っていたが来なかった)と王維「送別」による。それに対応するベートゲの二つの詩「友を待って」と「友の別れ」を用いて一つの楽章としているのだが、実はこの二つの詩は、ベートゲの詩集では見開き2ページのうちに隣り合って収められており、マーラーはまったくその詩集のレイ
アウトのまま、これら二つの詩をつなげて使っていることになる。ただし、ベートゲの詩では王維に基づく「友の別れ」は一人称で語られているのに対して、マーラーのテクストでは三人称の語りに変えられている。
 前の楽章とは完全に対極をなす深い虚無的な情感によって始まる。詩の第2連が終わったところで、三連符+二連符の伴奏音形にともなわれてオーボエのソロが始まる。ここからは「憩いと眠り」への静かな憧れに満ちた美しい音楽がしばらく続くが、寂寥としたフルートのソロとともに歌われる第4連では「最後の別れを告げる」予感が支配している。続く第5連と第6連では、音楽は前に流れ、いかにもマーラー的な強い憧れに満ちた音楽となる。
 そのあと、この楽章の冒頭が今度はコールアングレとともに再現され、比較的長い器楽だけの部分が続くが、この箇所は二つめの詩(「彼は馬から降りて、男に」から始まる)へと接続していくための橋渡しとなる。後半の王維の詩は物語的な性格をもっており、アルトによる歌も語り的である。「この世では、私に幸せは恵まれなかった!」というところでは、オーボエのグリッサンドによる深い嘆息も聞かれる。
 しかし、詩の最後の部分で、そういった静かで寂しげな語りは一転する。三連符の伴奏音形にともなわれたヴァイオリン、フルート、アルトによる美しい音楽が現れ、静かな高まりを見せていくが、この箇所ではベートゲの詩をマーラーが大きく書き換えている。とりわけ、最後の一連はほぼマーラーの創作といってもよい(ベートゲの詩では「大地はいずこも同じもの/そして白い雲が永遠に、永遠にある…」の二行だけ)。「いとしいこの大地は」という歌詞とともに歌われるこの最後の一連の音楽は、全曲のなかでもひときわ美しい。ちなみに、オーケスト
ラが次第にe(「ミ」)の音へと収束していくことによって、この最後の情感が導き出される。ここでは、人間の生の営みとは無関係に永遠に続いていく「大地」への憧れが「永遠に(ewig)」という言葉とともに歌われている。しかし、それと同時にマーラーは、ここで「大地」に対比される人間という存在のはかなさを静かな諦念をともなって受け入れているのだろう。


 このように「大地の歌(Das Lied von der Erde)」という作品全体を見渡したあとで、この曲の標題でいわれているErdeとは何かということをもう一度考えてみたい。最初にもふれたように、「この世」のはかなさ・虚しさ・つらさ・寂しさに対する感情がこの作品全体の底に流れている。その意味では、「この世についての歌」といったほうがふさわしいのかもしれない。
 ただし、ここでの「この世」とはキリスト教的な価値観での「あの世」(=神の国)に対比されるもの(「現世」)ではなく、その対極には悠久の大自然が想定されている。しかし、この悠久の大自然も、第6楽章の最後で歌われているように、まさに「大地」なのである。つまり、同じErdeという言葉によって「この世」と「大地」という両極的なものが意味されていることになる。とはいえ、全曲の最後で、永遠の「大地」のなかでの「憩いと眠り」(それはもちろん死に通じる)に想いを馳せるとき、「この世」の悲しみや苦しみへの嘆きはいわば乗り越えられている。そのように考えるとき、「大地の歌」という従来から用いられている日本語の標題も、やはりこれはこれでもっともなものであるとあらためて感じた。


初  演:1911年11月20日、ミュンヒェン、ブルーノ・ヴァルター指揮


楽器編成:ピッコロ、フルート3(3番ピッコロ持ち替え)、オーボエ3(3番コールアングレ持ち替え)、クラリネット3、小クラリネット、バスクラリネット、ファゴット3(3番コントラファゴット持ち替え)、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、グロッケンシュピール、トライアングル、シンバル、タムタム、タンバリン、大太鼓、ハープ2、チェレスタ、マンドリン、弦五部


参考文献
『グスタフ・マーラー 全作品解説辞典』長木誠司著(立風書房)
『交響曲の聴きどころ』諸井誠著(音楽之友社)
『グスタフ・マーラー』柴田南雄著(岩波新書)
『マーラー 愛と苦悩の回想』アルマ・マーラー著、石井宏訳(音楽之友社)
Hans Bethge, Die chinesische Flöte. Leipzig: Inselverlag, 1922(1907)
Das Lied von der Erde:The Literary Changes
(The Mahler Archives)
http://www.mahlerarchives.net/DLvDE/DLvDE.htm

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