ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー
■はじめに
芸術の秋、クラシックのコンサートを聴きに本日この会場へ足をお運びいただいた方々へ謹んで申し上げる。残念ながら、本日お聴きいただくこの『ラプソディ・イン・ブルー』は、いわゆる
それなのに、今でも繰り返し演奏され、世界中の人々に楽しまれている。むしろそのような曲だからこそ、他のオーケストラ作品には無い魅力を持っている。バーンスタインも、前述のようなコメントを残しているにも関わらず、弾き振りで見事な演奏を残している。これも、この曲に魅力を感じていればこそであろう。
■ガーシュウィンの生い立ち
ジョージ・ガーシュウィン(1898-1937)は、ユダヤ系ロシア移民の息子として生まれた。ガーシュウィンという姓は、父親のモーリスがアメリカに移民した際に、もともとの“ゲルショヴィッツ”をアメリカ風に変えたものであった。子どもの頃は、喧嘩に明け暮れる不良少年であった。しかし、ガーシュウィンが14歳の時、兄アイラのために親が中古のピアノを買ったことから、彼の音楽人生が始まる。世界に名だたる作曲家と比べ、かなり遅いスタートであった。
音楽と本気で向かい合うようになり、彼の中に眠っていた才能は一気に開花した。15歳の時には職業ピアニストとして仕事をするようになる。さらに、自ら作曲をしたいという意欲が高まり、作曲家としての活動も開始。21歳の時には『スワニー』を発表してヒットさせるなど、ポピュラーソング・ブロードウェイミュージカル作曲家としての成功と、元来の社交的な性格も手伝って、一躍スターダムにのし上がった
■ラプソディ・イン・ブルーの誕生
1924年1月3日、兄アイラと共にビリヤードに興じていたガーシュウィンは、驚愕の事実を新聞記事で知る。その内容は「2月12日、ポール・ホワイトマン楽団が、『近代音楽の実験』と題して演奏会を開催。アメリカ音楽とは何かを問いかけるその演奏会では、ガーシュウィン氏による新作のジャズ・ピアノ協奏曲を発表」というものだった。ガーシュウィンは知らなかった。
ポール・ホワイトマンは、自らの楽団を率いて興行を行っていた人物で、以前よりガーシュウィンと付き合いがあった。その中で彼の才能を見出していたのである。
慌ててホワイトマンに確認すると、「いちいち君に相談していたら、同じような企画をたてているライバルに出し抜かれるから」との返事。しかし、大々的に宣伝されたことで、彼は否応無しに曲を書かざるを得なくなった。
それまでガーシュウィンは管弦楽曲を書いた経験が無かった。当時ホワイトマン楽団のアレンジャーであり、組曲『グランドキャニオン』を後年作曲して有名となるファーディ・グローフェがジャズ・オーケストラへの編曲を手伝い、わずか3週間で曲は完成した。ただし、ガーシュウィン自身が弾くピアノ・パートは譜面が出来上がらず、本番当日アドリブで弾くことになった。また、有名な冒頭のクラリネットのソロも、練習の合間に楽団のクラリネット奏者がふざけて演奏したものを採用した。
この演奏会は全部で24曲の演奏が予定され、『ラプソディ・イン・ブルー』は最後から2曲目であった。長時間にわたる演奏に、もはや聴くことすら苦痛になってきた聴衆は、その奇抜な冒頭に度肝を抜かれ、やがて熱狂に変わった。心配された独奏ピアノは、ガーシュウィンの圧倒的な即興演奏により喝采を浴びた。
かくして、「近代音楽の実験」におけるこの曲の初演は大成功に終わる。稀代の名ヴァイオリニストであるヤッシャ・ハイフェッツや、ロシアから亡命してきたセルゲイ・ラフマニノフなどクラシック界の著名人が審査員として招かれ、この曲は大いに賞賛された。他のどこの国のものでもない「アメリカの音楽」としての『ラプソディ・イン・ブルー』誕生の瞬間であった。
■ガーシュウィンの「アメリカ音楽」
「人種のるつぼ」と化した20世紀初頭のアメリカでは、音楽も多様であった。ヨーロッパからのクラシック音楽の流れだけでなく、黒人の間で広まっていた「ラグタイム」「ブルース」など、当時彼の身の周りにあった音楽を、新進気鋭の流行作曲家ガーシュウィンはどんどん吸収し、作曲に活かした。
ここで注目すべきは、この曲の下地になっているのは、「都会的で落ち着いた店で流れるお洒落なジャズ」ではないということである。巷には「ジャズとクラシックの融合」というこの曲の教科書的な紹介文を安易に理解し、ブランド物のスーツでパリッと決めたような上品で洗練された演奏がまかり通っている。そのような『ラプソディ・イン・ブルー』の演奏は、 ―良し悪しはともかく― ガーシュウィンの意図したものとは異なるのである。
この曲が作られた1920年代のアメリカは、様々な人種、民族、神聖なものと世俗的なもの、成功者と落ちぶれた者などが混沌として存在していた。猥雑な中にもパワーあふれる時代であった。けたたましいほど強く刻まれるリズムが特徴的な「ラグタイム」の持つ力強さや「ブルース」の持つ寂寥感は、そんな時代の反映であろう。
当初ガーシュウィンは、曲名を『アメリカン・ラプソディ』と考えていた。そんな彼が「アメリカ音楽」としてこの曲で表現したかったものは、20世紀初頭のアメリカの猥雑な雰囲気、怒号や嬌声、それらが混然一体となった社会そのものだったのではないだろうか。
■さいごに
ユダヤ人であるガーシュウィンは、アメリカン・ドリームの裏にある人種や民族の違いについて、より一層強く感じていたであろう。だからこそ、黒人発祥の音楽を取り上げ、当時の音楽界の重鎮達に認めさせたかったのかも知れない。
しかし、そうでありながらも、この曲に悲壮感は無い。むしろ明るく、時に軽快で時に穏やかな、幸せに満ちた音楽である。
ここに、彼からの「色々辛いこともあるけど、腐らないで前向きに頑張ろうじゃないか。な?」といったような、気さくなエールがあるような気がしてならない。肩肘張らずに、ひとつこいつの軽口に付き合ってやろう。そんな気持ちで聴いていただければ幸いである。
初 演:1924年2月12日、ニューヨーク
楽器編成:
(初演時)独奏ピアノ、木管楽器3(サクソフォーン、クラリネット、オーボエ、ファゴットを持ち替え)、ホルン2、トランペット2、トロンボーン2、テューバ、打楽器、チェレスタ、ピアノ(独奏とは別)、ヴァイオリン8、バンジョー
※ジャズ・オーケストラのために作曲されており、現在のオーケストラ編成とは異なる
(現在の編成)
独奏ピアノ、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、サクソフォーン3(アルト2、テナー)、ホルン3、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、グロッケンシュピール、タムタム、小太鼓、シンバル、トライアングル、弦五部、バンジョー
※グローフェがガーシュイウィンの死後、現在のオーケストラ編成に合うように編曲し直したもの。本日はバンジョーを除きこの編成で演奏
参考文献
『ラプソディ・イン・ブルー ガーシュインとジャズ精神の行方』末延芳晴著(平凡社)